東晋時代119 東晋孝武帝(十八) 翟斌 384年(3)

今回も東晋孝武帝太元九年の続きです。

 

[二十一] 『資治通鑑』からです。

燕王・慕容垂は鄴城がまだ堅固だったため、僚佐を集めて討議しました。

右司馬・封衡が漳水を引いて水を注ぐように請い(『資治通鑑』胡三省注が「曹操が鄴を攻めた時の故智(先人の智慧)である」と解説しています)、慕容垂はこれに従いました。

 

(ある時)慕容垂が狩猟に行き(垂行囲)、それを機に華林園(『資治通鑑』胡三省注によると、洛都と鄴都はどちらにも華林園がありました。鄴の華林は魏武(曹操)が築いたものです)で酒を飲みました。

すると秦人が秘かに出兵して慕容垂等を襲い、雨のように矢を降らせました。慕容垂は危うく脱出できなくなるところでしたが(幾不得出)、冠軍大将軍・慕容隆が騎兵を率いて突撃したおかげで、なんとか逃れることができました(僅而得免)

 

[二十二] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

己卯(二十六日)、東晋が百人の太学生を増置しました。

 

[二十三] 『晋書・第九・孝武帝紀』はここで「(東晋が)張天錫を西平公に封じた」と書いていますが、『資治通鑑』は採用していません。

 

[二十四] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋が竟陵太守・趙統に襄陽を伐たせて攻略しました。

前秦の荊州刺史・都貴は魯陽に奔りました。

 

[二十五] 『資治通鑑』からです。

五月、前秦の洛州刺史・張五虎が豊陽を占拠して東晋に来降しました。

 

[二十六] 『資治通鑑』からです。

東晋の梁州刺史・楊亮が五万の衆を率いて蜀を伐ちました。巴西太守・費統を派遣し、水陸の兵三万を率いて前鋒にさせます。

楊亮自身は巴郡に駐屯しました。

 

前秦の益州刺史・王広は巴西太守・康回(『資治通鑑』胡三省注によると、西胡にはかねてから康姓がありました)等を派遣してこれを拒ませました。

 

[二十七] 『資治通鑑』からです。

前秦の苻定と苻紹が後燕に降りました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。苻定は信都を挙げて投降し、苻紹は高城を挙げて投降しました。

 

後燕の慕容麟は兵を率いて西の常山(苻謨)を攻めました。

 

[二十八] 『資治通鑑』からです。

後秦王・姚萇が進軍して北地に駐屯しました。

前秦の華陰、北地、新平、安定に住む羌・胡で投降した者が十余万人もいました。

 

[二十九] 『資治通鑑』からです。

六月癸丑朔、東晋の崇徳皇太后・褚氏が死にました。

 

[三十] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が自ら歩騎二万を率いて後秦を撃つために趙氏塢(『資治通鑑』胡三省注によると、趙氏塢は北地郡にありました)に駐軍しました。そこから護軍将軍・楊璧等を派遣して、道を分けて後秦を攻撃させます。

後秦の兵は何度も敗れて、後秦王・姚萇の弟に当たる鎮軍将軍・姚尹買が斬られました。

 

後秦軍の陣内には井戸がなかったため、秦人は安公谷を塞ぎ、同官水を堰き止めて困窮させました(『資治通鑑』胡三省注が安公谷、同官水および銅官(同官)について解説していますが、省略します)

後秦の人々は恟懼(混乱・恐惶)して、渴死する者もいました。しかしちょうど天が大雨が降らせ、後秦の営内では水かさが三尺に及びましたが、営の周辺で百歩より外では一寸余しか溜まりませんでした(後秦の営内に集中して雨が降りました。原文「会天大雨,後秦営中水三尺,繞営百歩之外寸余而已」)

こうして後秦軍が再び(勢いを)振るわせたため、前秦天王は嘆いて「天も賊を守るのか(天亦佑賊乎)」と言いました。

 

[三十一] 『資治通鑑』からです。

西燕の慕容泓の謀臣・高蓋等は、慕容泓の徳望が慕容沖に及ばないと考え、しかも慕容泓の法を用いる姿が苛峻(苛酷厳峻)だったため、慕容泓を殺して慕容沖を皇太弟に立てました。

『晋書・第九・孝武帝紀』は「慕容泓が叔父の慕容沖に殺された。慕容沖が自ら皇太弟を称した」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

慕容沖が承制行事(皇帝の代わりに命を発して政事を行うこと。名目上の皇帝は長安にいる慕容暐です)して百官を置くようになり、高蓋を尚書令に任命しました。

 

後秦王・姚萇が子の姚嵩を派遣して質(人質)とし、慕容沖に和を請いました。

 

[三十二] 『資治通鑑』からです。

東晋の将軍・劉春が魯陽を攻めました。

前秦の都貴は奔って長安に還りました。

 

[三十三] 『資治通鑑』からです。

後秦王・姚萇が七万の衆を率いて前秦を撃ちました。

前秦天王(秦王・苻堅)は楊璧等を派遣して拒ませましたが、姚萇に敗れました。

姚萇は楊璧および右将軍・徐成、鎮軍将軍・毛盛等の将吏数十人を獲ましたが、全て礼遇してから送り帰しました。

 

[三十四] 『資治通鑑』からです。

後燕の慕容麟が常山を攻略しました。前秦の苻亮と苻謨が投降します。

慕容麟は兵を進めて中山を包囲しました。

 

秋七月、慕容麟が中山を攻略し、苻鑒を捕えました。

『資治通鑑』胡三省注が「こうして冀州は燕が領有することになり、(残るは)苻丕が鄴を守るだけとなった」と解説しています。

 

慕容麟は威声が大いに振るい、中山に留屯(駐屯)しました。

 

[三十五] 『資治通鑑』からです。

前秦の幽州刺史・王永と平州刺史・苻沖が二州の衆を率いて後燕を撃ちました。

燕王・慕容垂は平朔将軍(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「甯朔将軍」としています)・平規を派遣して王永を撃たせました。

王永が昌黎太守・宋敞を派遣して范陽で逆戦(迎撃)させましたが、宋敞の兵が敗れました。

平規は兵を進めて薊の南を占拠しました。

 

[三十六] 『資治通鑑』からです。

前秦の平原公・苻暉が洛陽と陝城の衆七万を率いて長安に帰りました。

 

[三十七] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

前秦の益州刺史・王広が将軍・王虬を派遣し、蜀漢(蜀と漢中)の衆三万を率いて、北に向かって長安を救わせました(この一文は『資治通鑑』本文にはありませんが、胡三省注を元に補いました)

 

前秦天王(秦王・苻堅)は、慕容沖が徐々に長安に迫っていると聞き、(趙氏塢から)兵を率いて帰りました。撫軍大将軍・高陽公・苻方(『資治通鑑』本文には「高陽公」がありませんが、胡三省注を元に補いました)に驪山を守らせ、平原公・苻暉を都督中外諸軍事・車騎大将軍・録尚書事に任命して、五万の兵を配して慕容沖を拒ませます。

 

しかし慕容沖が鄭西で苻暉と戦って大破しました。

 

前秦天王は改めて前将軍・姜宇と少子の河間公・苻琳を派遣し、三万の衆を率いて灞上で慕容沖を拒ませましたが、苻琳と姜宇も敗死しました。

こうして慕容沖が阿房城(『資治通鑑』によると、秦代の阿房の宮城です)を占拠しました。

 

[三十八] 『資治通鑑』からです。

前秦の康回は兵がしばしば敗れたため、退いて成都に還りました(東晋の楊亮が西討しています)

梓潼太守・塁襲(『資治通鑑』胡三省注によると、『後趙録』に塁澄という人物がおり、元の姓は裴氏でした)が涪城を挙げて東晋に来降しました。

 

東晋の荊州刺史・桓石民が魯陽を占拠し、河南太守・高茂を派遣して北の洛陽を守らせました。

 

[三十九] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

戊戌(十七日)、東晋が兼司空・高密王・司馬純之を派遣し、洛陽の五陵を修謁(修築・謁拝)させました。

 

司馬純之は高密王・司馬俊の子で、司馬懿の弟・司馬馗の後代に当たります(東晋成帝咸和五年・330年参照)。『晋書・列伝第七(宗室伝)』によると、司馬俊の諡号は恭王、司馬純之の諡号は敬王です。

 

[四十] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

己酉(二十八日)、東晋が康献皇后(褚太后)を崇平陵に埋葬しました。

 

[四十一] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

百済が東晋に使者を派遣して方物(地方の産物)を貢納しました。

 

[四十二] 『資治通鑑』からです。

後燕の翟斌は功績に恃んで驕慢放縦で、要求も厭くことなく(恃功驕縦,邀求無厭)、しかも慕容垂が鄴城を攻めて久しいのに下せなかったため、秘かに貳心(二心)を抱きました。

燕王・慕容垂の太子・慕容宝が翟斌を除くように請いましたが、慕容垂はこう言いました「河南の盟を裏切るわけにはいかない(原文「河南之盟,不可負也」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。翟斌は兵を率いて洛陽で慕容垂と会しました。慕容垂と翟斌は河南県で盟を結んだようです)。もし彼が難を為したら、罪は翟斌から発したことになる(若其為難,罪由於斌)(しかし)今、事にまだ形がないのに(謀反が明らかではないのに)彼を殺したら、人々は必ず私がその功能(功績と能力)を忌憚(畏怖)したからだとみなすだろう。我々はまさに豪傑を招き集めて大業を興隆させようとしているので、人に狭量な姿を見せて天下の望を失うわけにはいかない(吾方收攬豪傑以隆大業,不可示人以狭,失天下之望也)。たとえ彼に謀があったとしても、我々が智によってそれを防げば、(彼は)何も為せない(藉彼有謀,吾以智防之,無能為也)。」

范陽王・慕容徳、陳留王・慕容紹、驃騎大将軍・慕容農がそろって言いました「翟斌兄弟は功に恃んで驕慢なので、必ず国の患いとなります(翟斌兄弟恃功而驕,必為国患)。」

慕容垂は「驕ったら速く敗れる。どうして患いを為すことができるか。彼には大功があるから、ただ自滅に任せるだけだ(驕則速敗,焉能為患。彼有大功,当聴其自斃耳)」と言い、礼遇をますます重くしました。

 

翟斌が丁零とその党与に示唆して、自分を尚書令に任命するように慕容垂に請わせました。

慕容垂が言いました「翟王の功は上輔(宰相)にいるべきだ。しかし台がまだ建っていないので、この官は急ぐことができないのだ(翟王之功宜居上輔。但台既未建,此官不可遽耳)。」

怒った翟斌は秘かに前秦の長楽公・苻丕と通謀し、丁零を使って堤防を決壊させようとしました(原文「決隄潰水」。『資治通鑑』胡三省注が「燕が漳水を引いて鄴に注いだので、翟斌は隄(堤防)を決壊させてそれ(堤防。または燕軍)を潰そうとした(欲決隄以潰之)」と解説しています)

しかしこの計画は発覚します。

慕容垂は翟斌と弟の翟檀、翟敏を殺しましたが、他の者は全て赦しました。

 

翟斌の兄の子・翟真は、夜の間に営の衆を指揮して北の邯鄲に奔りましたが、兵を率いて鄴の包囲網に戻り、苻丕と内外で呼応しようとしました。

しかし、太子・慕容宝と冠軍大将軍・慕容隆がこれを撃破したため、翟真はまた走って邯鄲に還りました。

 

太原王・慕容楷と陳留王・慕容紹が慕容垂に進言しました「丁零は大志(謀反の意図)を抱いているのではなく、寵が過ぎたので乱を為したのです(丁零非有大志,但寵過為乱耳)。今、急いで彼等に迫ったら、(彼等は)集まって寇を為すでしょう。(逆に追及を)緩めれば自然に散じます。散じてからこれを撃てば、克てないはずがありません(今急之則屯聚為寇,緩之則自散,散而撃之,無不克矣)。」

慕容垂はこの意見に従いました。

 

[四十三] 『資治通鑑』からです。

亀茲王・帛純は窘急(困窮・切迫)したため(前秦の呂光が亀茲に進攻しています)、獪胡(『資治通鑑』胡三省注によると、獪胡は亀茲の西にあったようです)に厚い賄賂を贈って救援を求めました。

 

獪胡王は弟の吶龍と侯将・馗(『資治通鑑』胡三省注によると、「侯将」は官の称号です。漢代の西域諸国にはそれぞれ輔国侯、安国侯と左・右将がおり、後に合わせて「侯将」の一官にしたようです)を派遣して騎兵二十余万を率いさせ、併せて温宿、尉頭(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「尉須」としています)等の諸国の兵合計七十余万を従えて亀茲を救わせました。

 

しかし前秦の呂光が城西で戦って大破しました。

帛純は城を出て逃走し、王侯で投降した者が三十余国に上りました。

 

呂光が亀茲に入城しました。亀茲の城内は長安の市邑のようで、宮室も甚だ豪盛でした。

 

呂光は西域を慰撫して安寧にしました。威恩がとても明らかになります。

そのため、遠方の諸国で前世(前代)では服従させることができなかった者も、皆、帰附しに来て、漢から下賜された節伝を献上しました。

呂光は全て上表して節伝を(前秦のものと)交換し(光皆表而易之)、帛純の弟・震を亀茲王に立てました。

 

[四十四] 『資治通鑑』からです。

八月、翟真が邯鄲から北に走りました。

燕王・慕容垂は太原王・慕容楷と驃騎大将軍・慕容農を派遣し、騎兵を率いて追撃させました。

 

甲寅(初三日。『資治通鑑』本文には「甲寅」がありませんが、胡三省注を元に補いました)、慕容楷等が下邑で翟真に追いつきました。

慕容楷が戦おうとすると、慕容農がこう言いました「士卒が飢えて疲労しています。しかも賊営を視たところ、丁壮が見えないので、恐らく他の場所に埋伏しています(士卒飢倦,且視賊営不見丁壮,殆有他伏)。」

慕容楷はこの意見に従わず、兵を進めて戦いました。その結果、燕兵が大敗します。

 

翟真は北の中山に向かい、承営に駐屯しました。

 

[四十五] 『資治通鑑』からです。

鄴城内では芻糧(飼料と食糧)が共に尽きたため、松の木を削って馬を飼いました。

燕王・慕容垂が諸将に言いました「苻丕という窮寇(困窮した賊)には、投降を選ぶ道理があるはずがない(苻丕窮寇,必無降理)(今は)退いて新城に駐屯し(『資治通鑑』胡三省注によると、肥郷の新興城です)、苻丕が西に帰る路を開くことで、秦王の疇昔(以前、昔日)の恩に謝そう。とりあえずは翟真を討つ計を為すことにする(不如退屯新城,開丕西帰之路,以謝秦王疇昔之恩,且為討翟真之計)。」

 

丙寅(十五日)夜、慕容垂が包囲を解いて新城に向かいました。

また、慕容農を派遣して清河と平原を巡行させ、租賦の徵督(徴集・監督)を命じました。

 

慕容農は約束(規則)を明確に立てて、財の有無に応じて適切に制度を調整し(均適有無)、しかも軍令が厳整で侵暴することがなかったため、穀帛が路に連なり、軍資が豊富になりました(穀帛属路,軍資豊給)

 

[四十六] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

戊寅(二十七日)、東晋の司空・南昌公・郗愔(諡号は文穆公です)が死にました。

 

[四十七] 『資治通鑑』からです。

東晋の太保・謝安が上奏し、苻氏の傾敗(転覆・大敗)に乗じて中原を開拓するように請いました。徐兗二州刺史・謝玄を前鋒都督に任命し、豫州刺史・桓石虔を率いて前秦を伐たせます。

 

謝玄が下邳に至ると、前秦の徐州刺史・趙遷が彭城を棄てて逃走しました。

謝玄は兵を進めて彭城を占拠しました。

 

[四十八] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)は呂光が西域を平定したと聞いて、都督玉門以西諸軍事・西域校尉に任命しました。しかし道が途絶えていたため、伝えることができませんでした(道絶不通)

 

[四十九] 『資治通鑑』からです。

前秦の幽州刺史・王永が振威将軍・劉庫仁(『資治通鑑』胡三省注によると、これ以前に前秦が劉庫仁に振武将軍の官位を授けたようです)に救援を求めました。

 

劉庫仁は妻の兄・公孫希を派遣し、騎兵三千を率いて王永を救わせました。

公孫希は薊南で平規を大いに破ります。

その後、勝ちに乗じて長駆し、兵を進めて唐城(『資治通鑑』胡三省注によると、中山郡唐県の城です)を占拠しました。

(公孫希は)慕容麟と対峙します(この一文(与慕容麟相持)は『資治通鑑』本文にはありません。胡三省注を元に補いました)

 

 

次回に続きます。

東晋時代120 東晋孝武帝(十九) 慕容暐の死 384年(4)

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