東晋時代114 東晋孝武帝(十三) 前秦南下 383年(1)

今回は東晋孝武帝太元八年です。三回に分けます。

 

東晋孝武帝太元八年/前秦天王建元十九年

癸未 383年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月、前秦の呂光が長安を発ち、鄯善王・休密馱と車師前部王・彌窴を郷導(先導)にしました。

 

[二] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

二月癸未(二十四日)、黄霧が四方を覆いました(黄霧四塞)

 

[三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

三月、始興、南康、廬陵で大水(洪水)があり、平地で水の高さが五丈になりました(大水平地五丈)

 

[四] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

丁巳(二十八日)、東晋が大赦しました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

夏五月、東晋の桓沖が十万の衆を率いて前秦を伐ち、襄陽を攻めました。また、前将軍・劉波等を派遣して沔北諸城を攻めさせ、輔国将軍・楊亮を派遣して蜀を攻めさせ、鷹揚将軍・郭銓を派遣して武当を攻めさせました。

楊亮が五城を抜いて涪城に進攻しました。

『晋書・第九・孝武帝紀』は「夏五月、輔国将軍・楊亮が蜀を伐って五城を抜き、苻堅の将・魏光を擒にした」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

六月、桓沖の別将が万歳と筑陽を攻めて攻略しました(『資治通鑑』胡三省注によると、万歳は城の名で、筑陽の近くにあったようです。筑陽県は、漢代は南陽郡に属し、晋代は順陽郡に属しました。春秋時代の穀伯の国です)

 

前秦天王(秦王・苻堅)は征南将軍・鉅鹿公・苻叡、冠軍将軍・慕容垂等を派遣し、歩騎五万を率いて襄陽を救わせました。また、兗州刺史・張崇に武当を救わせ、後将軍・張蚝と歩兵校尉・姚萇に涪城を救わせました。

苻叡は新野に、慕容垂は鄧城(『資治通鑑』胡三省注によると、鄧城県は襄陽郡に属しました。晋が置いた県のようです)に駐軍します。

 

桓沖は退いて沔南に駐屯しました。

 

秋七月、郭銓と冠軍将軍・桓石虔が武当で張崇を破り、二千戸を掠めて(奪って)帰りました。

『晋書・第九・孝武帝紀』は「秋七月、鷹揚将軍・郭洽が苻堅の将・張崇と武当で戦い、大いにこれを敗った」と書いています。「郭洽」は『資治通鑑』の「郭銓」です。同じ『晋書』でも、『載記第十四』『列伝第四十四(桓石民伝)』『五行志中』等は「郭銓」としています。

また、上述の通り『資治通鑑』は桓石虔を「冠軍将軍」としており、『晋書・列伝第四十四(桓石虔伝)』を見ても「冠軍将軍」になっていますが、当時の冠軍将軍は謝玄ではないかと思われます。『晋書・第九・孝武帝紀』では、本年八月に謝玄が冠軍将軍として出征しおり(下述)、『晋書・列伝第四十九(謝玄伝)』を見ても、当時は謝玄が冠軍将軍です。

 

『資治通鑑』に戻ります。

鉅鹿公・苻叡が慕容垂を派遣して前鋒とし、兵を進めて沔水に臨ませました。

夜、慕容垂が軍士に命じ、一人一人に樹木の枝に縛りつけた十炬(十本のたいまつ)を持たせました(垂夜命軍士人持十炬繋于樹枝)。光が数十里を照らします。

桓沖は懼れを抱き、退いて上明(地名)に還りました。

 

張蚝が斜谷に出ると、楊亮も兵を率いて還りました。

 

桓沖が上表して兄の子・桓石民に襄城太守を兼任させ(原文「領襄城太守」。『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「襄城」を「襄陽」としています。『列伝第四十四(桓石民伝)』では「襄城」です)、夏口を守らせました。

桓沖自身は自ら江州刺史の兼任を求め(自求領江州刺史)、詔によって許可されました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が東晋に大挙入寇する詔を下しました。民は十丁(十人の成人男性)ごとに一兵を派遣することとし、良家の子で年が二十歳以下かつ材勇(才能・勇力)がある者は、全て羽林郎に任命しました。

また、こう言いました「司馬昌明(東晋孝武帝)を尚書左僕射に、謝安を吏部尚書に、桓沖を侍中に任命しよう。今の形勢なら、帰還する日は遠くない。あらかじめ彼等のために邸宅を建てよ(其以司馬昌明為尚書左僕射,謝安為吏部尚書,桓沖為侍中。勢還不遠,可先為起第)。」

 

良家の子で参集した者は三万余騎にのぼりました。秦州主簿・趙盛之が少年都統(『資治通鑑』胡三省注によると、「都統」という官名はここから始まりました)に任命されます。

 

当時、朝臣は皆、天王の出征を欲していませんでしたが、慕容垂、姚萇および良家の子が天王に出征を勧めました。

陽平公・苻融が天王に進言しました「鮮卑や羌虜は我々の仇讎であり(鮮卑は慕容垂、羌は姚萇を指します)、常に風塵の変(戦乱、混乱)によってその志を実現させようと思っています(常思風塵之変以逞其志)。彼等が述べる策画にどうして従うことができるでしょう(所陳策画,何可従也)(また)良家の少年は皆、富饒(富豪。豊かな家)の子弟で、軍旅には精通しておらず、とりあえず諂諛の言(阿諛追従の言葉)を為して陛下の意に合わせているだけです(良家少年皆富饒子弟,不閑軍旅,苟為諂諛之言以会陛下之意)。今、陛下は彼等を信じて用いており、軽率に大事を挙げようとしていますが、臣は功が成らないうえに、更なる後患を招くのではないかと恐れています。(もしそうなったら)後悔しても取り返しがつきません(今陛下信而用之,軽挙大事,臣恐功既不成,仍有後患,悔無及也)。」

天王は諫言を聴きませんでした。

 

八月戊午(初二日)、天王が陽平公・苻融を派遣して張蚝、慕容垂等を督させ、彼等に歩騎二十五万を率いて前鋒にさせました。また、兗州刺史・姚萇を龍驤将軍・督益梁州諸軍事に任命しました。

天王が姚萇に言いました「昔、朕は龍驤として業を建てたので(苻堅は龍驤将軍だった時、前秦帝・符生を殺して秦国を得ました。東晋穆帝升平元年・357年参照)(この将軍号を)軽々しく人に授けたことはない。卿は努力せよ(未嘗軽以授人,卿其勉之)。」

左将軍・竇衝が言いました「王者には戯言がないものです。これは不祥の徵(兆)です(王者無戯言,此不祥之徵也)。」

天王は黙然(沈黙すること)としました。

 

慕容楷と慕容紹が慕容垂に言いました「主上の驕矜(驕慢)は既に甚だしくなっています。叔父が中興の業を建てるのは、今回の行(行動、出征)にかかっています(主上驕矜已甚,叔父建中興之業,在此行也)。」

慕容垂が言いました「その通りだ。汝等でなければ、誰が一緒にこの事を成せるだろう(然。非汝,誰与成之)。」

『資治通鑑』胡三省注は「慕容垂は苻堅が必ず敗れると知り、ここに至ってやっと兄の子に明言した」と解説しています。

 

甲子(初八日)、天王が長安を発ちました。戎卒六十余万、騎兵二十七万を指揮し、旗鼓が相望み、前後が千里に連なります。

 

九月、天王が項城に至りました。

この時、涼州の兵は咸陽に到着したばかりで、蜀・漢の兵が流れに順じて東下を開始しました。また、幽・冀の兵も彭城に至りました。東西万里にわたって水陸が斉進(並進)し、運漕(水運)が万艘に及びます。

陽平公・苻融等の兵三十万が先に潁口(『資治通鑑』胡三省注によると、潁水が淮水に入る場所です。潁水は陽城県陽乾山から出て、東に向かって下蔡に至り、淮水に入りました)に至りました。

 

東晋孝武帝は詔を発して尚書僕射・謝石を征虜将軍・征討大都督に任命し、徐兗二州刺史・謝玄を前鋒都督に任命して、輔国将軍・謝琰、西中郎将・桓伊等の衆、合計八万人と共に前秦軍を拒ませました。謝琰は謝安の子です。

また、龍驤将軍・胡彬に水軍五千を率いて寿陽を援けさせました。

『晋書・第九・孝武帝紀』は八月に「苻堅が衆を率いて淮水を渡った。(東晋は)征討都督・謝石、冠軍将軍・謝玄、輔国将軍・謝琰、西中郎将・桓伊等を派遣してこれを拒ませた」と書いています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

当時は前秦の兵が強盛になっていたため、東晋の都下が震恐しました。

謝玄が入って(謝安の部屋に入ったのだと思います。原文「謝玄入」)謝安に計を問いましたが、謝安は夷然(平然)として「既に他に旨がある(既に他の考えがある。原文「已別有旨」。この「旨」は皇帝の意旨で、「陛下にお考えがある」という意味かもしれません)」と言うだけで、寂然(静粛な様子。沈黙すること)としてしまいました。

謝玄は敢えてまた発言することができず、張玄に命じて改めて計を請わせました。

すると謝安は駕(車)を出して山墅(山荘)で遊ぶように命じました。親朋(親族・友人)が全て集まってから、謝安は山墅を賭けて張玄と囲碁をします(親朋畢集,与玄囲棋賭墅)。いつもなら謝安の囲碁の腕は張玄よりも劣っていましたが、この日は張玄が懼れを抱いて平常心ではなかったため、技量が匹敵して、結局、勝つことができませんでした(安棋常劣於玄,是日玄懼,便為敵手而又不勝)

その後、謝安は(山間を)游渉(漫遊)して、夜になってから還りました。

 

桓沖は深く根本を憂いとし(朝廷を深く憂い。この「根本」は国の基礎である都や朝廷を指します。原文「桓沖深以根本為憂」)、精鋭三千を派遣して、京師に入って護衛させました。

しかし謝安が頑なに断ってこう言いました「朝廷の処分(対処の方法)は既に定まっており、兵甲に闕(欠け。不足)はない。西藩は(兵を)留めて防備を為すべきだ(西藩宜留以為防)。」

桓沖が嘆息して佐吏(『資治通鑑』胡三省注によると、諸藩府の参佐(部下)が佐吏になりました)にこう言いました「謝安石(安石は謝安の字です)は廟堂の量(帝王の宗廟のように広大な度量)があるが、将略(将としての兵略)には通じていない。今、大敵が至ろうとしているのに、遊談に明け暮れて暇がなく、経験がない少年達を派遣してこれ(敵)を拒ませており、衆(兵衆)も寡弱なので、天下の事は既に知ることができる。私は左衽(左襟を上にすること。異民族の風習です)になるだろう(謝安石有廟堂之量,不閑将略。今大敵垂至,方遊談不暇,遣諸不経事少年拒之,衆又寡弱,天下事已可知,吾其左衽矣)。」

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋孝武帝が詔を発して、司徒・琅邪王・司馬道子を録尚書六條事(西晋愍帝建興二年・314年および東晋穆帝永和元年・345年参照)に任命しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代113 東晋孝武帝(十二) 前秦の蝗 382年(2)

今回で東晋孝武帝太元七年が終わります。

 

[十二(続き)] 群臣が皆、退出してから、天王は陽平公・苻融だけを留めてこう言いました「古から大事を定めた者には一二の臣がいただけだ(自古定大事者,不過一二臣而已)(しかし)今は衆言が紛紛として、いたずらに人の意を混乱させている。私は汝とこれを決するつもりだ(今衆言紛紛,徒乱人意,吾当与汝決之)。」

苻融が応えました「今、晋を伐つには、三難があります。天道に順じていないこと、これが一つ目です(天道不順,一也)。晋国に釁(隙)がないこと、これが二つ目です(晋国無釁,二也)。我々はしばしば戦をして兵が疲れており、民に敵を畏れる心があること、これが三つ目です(我数戦兵疲,民有畏敵之心,三也)。群臣で晋を伐つべきではないと発言した者は、皆、忠臣です。陛下が彼等の意見を聴き入れることを願います(群臣言晋不可伐者,皆忠臣也,願陛下聴之)。」

天王が顔色を変えて言いました(作色曰)「汝もそのようであったら、私はまた何を望めばいいのだ(汝亦如此,吾復何望)。私は強兵が百万もおり、資仗(資財・兵器)も山のようである。(それに)私はまだ令主(名主)にはなっていないが、闇劣でもない。累捷の勢(連勝の勢い)に乗じて垂亡の国(滅亡しようとしている国)を撃つのに、なぜ克てないことを患うるのだ。どうしてこの残寇(残賊)を今後も留めて、長く国家の憂いとするのだ(豈可復留此残寇,使長為国家之憂哉)。」

苻融が泣いて言いました「晋はまだ滅ぼすことができません。これは昭然(明確なこと)としていて甚だ明らかです(晋未可滅昭然甚明)。今、師(軍)を労して大挙しても、恐らく万全の功はありません。そもそも、臣が憂いとしているのは、この事だけではありません(且臣之所憂不止於此)。陛下は鮮卑・羌・羯を寵育(寵遇・養育)しており、畿甸(近畿)に布満(分布・充満)させていますが、彼等は皆、我々の深仇です(此属皆我之深仇)(それなのに)太子が単独で弱卒数万と共に京師を留守したら、臣は不虞の変(不測の変事)が腹心肘掖(中心部や身辺)で発生することを懼れ、(もし実際にそうなったら)悔やむこともできません(臣懼有不虞之変生於腹心肘掖,不可悔也)。臣の頑愚(頑迷な意見)は誠に採るに足りません(臣之頑愚誠不足采)(しかし)王景略(王猛)は一時の英傑であり、陛下も常に彼を諸葛武侯(諸葛亮)と比していました。それなのに、(彼の)臨没の言(臨終の言葉。王猛は死ぬ前に「晋はまだ図るべきではない」と言い残しました。東晋孝武帝寧康三年・375年参照)だけは覚えていないのですか(独不記其臨没之言乎)。」

天王は苻融の意見を聴きませんでした。

 

当時、朝臣で諫言を進める者が多数いましたが、天王はこう言いました「私が晋を撃つのは、その強弱の勢を較べたら、疾風が秋の葉を掃くようなものである。それなのに朝廷の内外は皆、不可と言う。誠に私には理解できないことだ(以吾撃晋,校其強弱之勢,猶疾風之掃秋葉,而朝廷内外皆言不可,誠吾所不解也)。」

 

太子・苻宏が言いました「今は歳が呉分(呉の分野)におり、また、晋君にも罪がありません。もし大挙して勝てなかったら、恐らく威名が外で挫かれ、財力が内で尽きることになります。これが、群下が疑っている(心配している、戸惑っている)理由です(若大挙不捷,恐威名外挫,財力内竭,此群下所以疑也)。」

天王が言いました「昔、私が燕を滅ぼした時も歳を犯したが勝利した。天道とは元より理解するのが難しいものだ(昔吾滅燕,亦犯歳而捷,天道固難知也)(それに)秦が六国を滅ぼしたが、六国の君は皆、暴虐だったというのか(秦滅六国,六国之君豈皆暴虐乎)。」

 

冠軍(冠軍将軍)・京兆尹・慕容垂は天王にこう進言しました「弱が強に併呑され、小が大に併呑されるのは、自然な理勢(道理と形勢)であり、それを理解するのは難しいことではありません(弱併於強,小併於大,此理勢自然,非難知也)(陛下は)陛下の神武をもって期(時)に応じ、威を海外に加え、虎旅(勇猛な軍隊)は百万を擁し、韓・白(韓信・白起のような名将)が朝廷を満たしています(以陛下神武応期,威加海外,虎旅百万,韓白満朝)。これに対して、蕞爾(微小)な江南は独り王命に違えています。なぜ更にこれを留めて子孫に残すことができるでしょう(豈可復留之以遺子孫哉)。『詩』はこう言っています『事を計る者が多かったら、それが原因で成就しない(原文「謀夫孔多,是用不集」。『詩経・小雅·小旻』の言葉です)。』陛下は自身の聖心を断じるだけで足ります(陛下自身で決断すれば充分です。原文「陛下断自聖心足矣」)。なぜ広く朝衆に意見を求める必要があるのでしょうか(何必広詢朝衆)。晋武(西晋武帝)が呉を平定した時、頼りにしたのは張・杜(張華・杜預)といった二三の臣だけでした。もし朝衆の言に従っていたら、どうして混壹(統一)の功があったでしょう(晋武平呉,所仗者張杜二三臣而已,若従朝衆之言,豈有混壹之功)。」

天王は大いに悦んで「私と共に天下を平定するのは、卿独りだけだ(与吾共定天下者独卿而已)」と言い、帛五百匹を下賜しました。

 

天王は江東を取るという望みに専心しており(鋭意欲取江東)、就寝しても早朝まで眠ることができませんでした(寝不能旦)

陽平公・苻融が諫めて言いました「『満足することを知れば辱めを受けることがなく、止まることを知れば危険に遭うこともない(原文「知足不辱,知止不殆」。『老子』の言葉です)』といいます。古から今まで、兵を尽くして武を窮めた結果、滅亡しなかった者はいません(自古窮兵極武,未有不亡者)。そもそも、国家(前秦)は本来戎狄です。正朔(正統な暦。ここでは正統な天子の地位を指します)が人(戎狄)に帰すことは恐らくありません(且国家本戎狄也,正朔会不帰人)。江東は微弱でただ存在しているだけとはいえ、中華の正統なので、天意がこれを途絶えさせるはずがありません(江東雖微弱僅存,然中華正統,天意必不絶之)。」

天王が言いました「帝王の暦数になぜ常(常態。変わらないこと)があるのだ。ただ、徳がどこにあるかにかかっているだけだ(帝王暦数,豈有常邪,惟徳之所在耳)。劉禅は漢の苗裔ではなかったというのか。最後は魏に滅ぼされたではないか(劉禅豈非漢之苗裔邪,終為魏所滅)。汝が私に及ばない理由は、正に変通(状況に応じて変化する道理)に達することができないという欠点があるからだ(汝所以不如吾者,正病此不達変通耳)。」

 

天王はかねてから沙門・道安を信重(信任・尊重)していました(『資治通鑑』胡三省注によると、道安は襄陽にいましたが、天王が襄陽を破った時、輿を送って招きました)

そこで群臣は、道安に機会を探して進言させました(乗間進言)

 

十一月、天王が道安と同じ輦に乗って東苑で遊びました。

天王が言いました「朕は公と呉越で南遊し、長江に舟を浮かべて、滄海に臨もう。これも楽しいことではないか(朕将与公南遊呉越,泛長江,臨滄海,不亦楽乎)。」

道安が言いました「陛下は天に応じて世を御しており、中土に居て四維(四方)を制しているので、自ずから堯・舜と隆盛を比べるに足ります(陛下応天御世,居中土而制四維,自足比隆堯舜)。どうして必ず風を櫛にして雨で沐浴し(風雨に曝されるという意味です)、遠方を経略する必要があるのでしょうか(何必櫛風沐雨,経略遐方乎)。そもそも、東南は卑湿(湿潤な低地)で、沴気(災害をもたらす不祥な気)を容易に構成するので、虞舜も巡遊して帰らず、大禹も行くだけで戻りませんでした(原文「且東南卑湿,沴気易構,虞舜遊而不帰,大禹往而不復」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。虞舜は南に巡狩して蒼梧の野で死に、禹は東に巡狩して会稽で死にました)。どうして陛下が大駕を労すに足るのでしょうか(何足以上労大駕也)。」

天王が言いました「天は烝民(民衆)を生んでから、その君を樹立して司牧(統治)させた(天生烝民而樹之君使司牧之)。朕が労を嫌って、彼等一方だけに恩沢を被らせずにいることが、どうしてできるだろう(朕豈敢憚労使彼一方独不被沢乎)。必ず公の言葉の通りであるなら、古の帝王は皆、征伐の必要がなかっただろう(必如公言,是古之帝王皆無征伐也)。」

道安が言いました「どうしてもそのようにしなければならないなら、陛下は洛陽に駐蹕(駐留)し、先に使者を派遣して尺書(短い書。書信)を奉じさせ、その後ろで諸将に六師を総領させるべきです。(そうすれば)彼等は必ず稽首入臣するので(叩頭して臣を称すので)、自ら江・淮を渉る必要はありません(必不得已,陛下宜駐蹕洛陽,遣使者奉尺書於前,諸将総六師於後,彼必稽首入臣,不必親涉江淮也)。」

天王は道安の諫言も聴きませんでした。

 

天王が寵幸している張夫人も諫めてこう言いました「妾(私)が聞くに、天地が万物を生んだ時も、聖王が天下を治めた時も、皆、自然に則ってそれに順じたので、功を成せないことがなかったのだといいます(妾聞天地之生万物,聖王之治天下,皆因其自然而順之,故功無不成)。これに基づいて考えると、黄帝が牛を服させて馬に乗ったのは、その性(本性、性質)に順じたのです。禹が九川を通して九沢を遮断したのは、その勢(地勢)に順じたのです。后稷が百穀を播殖したのは、その時に順じたのです。湯・武が天下を率いて桀・紂を攻めたのは、その心に順じたのです。皆、順じるところがあったから成功したのであって、もしも順じるところがなかったら失敗するものです(是以黄帝服牛乗馬,因其性也。禹濬九川,障九沢,因其勢也。后稷播殖百穀,因其時也。湯武帥天下而攻桀紂,因其心也。皆有因則成,無因則敗)。今、朝野の人々が皆、晋は伐つべきではないと言っており、陛下だけがこれを行おうと意を決していますが、妾(私)には陛下が何に順じているのか分かりません(今朝野之人皆言晋不可伐,陛下独決意行之,妾不知陛下何所因也)。『書』はこう言っています『天の聡明(聡明・明察。または見聞きしている内容)は我が民の聡明に基いている(天聡明自我民聡明)。』天でも民に基いているのです。人ならなおさらでしょう(天猶因民,而況人乎)。妾(私)はまたこう聞いています。『王者の出師とは、必ず上は天道を観て、下は人心に順じるものである(妾又聞王者出師,必上観天道,下順人心)』。今、既に人心がそのようではないので(既に人心に順じていないので)、天道について検証させていただきます(今人心既不然矣,請験之天道)。諺はこう言っています『鶏が夜鳴いたら行師(出征)に不利である。犬の群れが鳴いたら宮室が空になる。兵(兵器)が動いて馬が驚いたら、軍が敗れて帰れなくなる(鶏夜鳴者不利行師,犬群嘷者宮室将空,兵動馬驚,軍敗不帰)。』秋冬以来、衆鶏が夜に鳴き、群犬が哀嘷(哀号)し、厩馬の多くが驚き、武庫の兵器が自然に動いて音が鳴っています。これらは皆、出師の祥(吉祥)ではありません(自秋冬以来,衆鶏夜鳴,群犬哀嘷,厩馬多驚,武庫兵器自動有声,此皆非出師之祥也)。」

天王は「軍旅の事は、婦人が関与すべきことではない(軍旅之事,非婦人所当預也)」と言いました。

 

天王に最も寵愛されている幼子・中山公・苻詵も諫めてこう言いました「臣が聞くに、国の興亡とは賢人の用捨(賢人を用いるかどうか)にかかっているといいます(国之興亡,繋賢人之用捨)。今、陽平公は国の謀主なのに、陛下はこれに違えました。晋には謝安、桓沖がいるのに、陛下はこれを伐とうとしています。(そのため)臣は心中で困惑しています(臣竊惑之)。」

天王が言いました「天下の大事が、孺子にどうしてわかるのだ(天下大事,孺子安知)。」

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

前秦の劉蘭が蝗を討ちましたが、秋冬を経ても撲滅できませんでした(本年五月、幽州で蝗が発生しました)

十二月、有司(官員)が劉蘭を召還して廷尉に下すように上奏しました。

しかし天王(秦王・苻堅)はこう言いました「災とは天から降されるのであって、人力で除けるものではない。これは朕の失政が原因だ。劉蘭に何の罪があるのだ(災降自天,非人力所能除,此由朕之失政,蘭何罪乎)。」

 

この年、前秦は豊作になり(大熟)、上田は一畝あたり七十石を収穫し、下田でも三十石を収穫しました(上田畝收七十石,下者三十石)

また、蝗は幽州の境界から出ることなく、麻豆も食べず、(幽州の)上田では一畝あたり百石が収穫でき、下田でも五十石を収穫できました(蝗不出幽州之境,不食麻豆,上田畝收百石,下者五十石)

 

『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「物が反常(常道や道理の逆になること)したら妖となる(物反常為妖)(中略)蝗が発生したのに五穀を食べないというのは、妖(怪事)の大きなものである。農人が服田力穡(農耕に尽力すること)して秋に至っても、古から今まで、一畝あたり百石や七十石を収穫したという理(道理)はなく、一畝あたり五十石や三十石を収穫したという話も聞いたことがない。もし誠にそのような事があったのなら、これもまた反常の大きなものではないか(使其誠有之,又豈非反常之大者乎)(逆に)もしそのような事がなかったのなら、州県が互いに誣飾(粉飾)して上を騙したのであり、これもまた不祥(不吉)の大きなものなので、秦が亡ぶのも当然である(使其無之,則州県相与誣飾以罔上,亦不祥之大者也,秦亡宜矣)。」

 

 

次回に続きます。

東晋時代114 東晋孝武帝(十三) 前秦南下 383年(1)

東晋時代112 東晋孝武帝(十一) 苻陽謀反 382年(1)

今回は東晋孝武帝太元七年です。二回に分けます。

 

東晋孝武帝太元七年/前秦天王建元十八年

壬午 382年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

春三月、林邑の范熊が使者を派遣して東晋に方物(地方の産物)を献上しました。

 

『晋書・列伝第六十七(林邑伝)』では「范熊」を「范佛」としており、中華書局『晋書・孝武帝紀』校勘記も「范佛」が正しいと指摘しています。范佛は林邑王・范文(東晋成帝咸康二年・336年および東晋穆帝永和九年・353年参照)の子で、范佛の死後は子の范胡達が継ぎます。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

前秦の大司農・東海公・苻陽、員外散騎侍郎・王皮(『資治通鑑』胡三省注によると、散騎侍郎は四人おり、魏初に散騎常侍と共に置かれました。員外散騎侍郎は西晋武帝が置きました)、尚書郎・周虓が反叛を謀りましたが、事が発覚したため、捕えられて廷尉に下されました。苻陽は苻法(東晋穆帝升平元年・357年に処刑されました)の子、王皮は王猛の子です。

 

前秦天王(秦王・苻堅)が反状(謀反の状況、原因)について問うと、苻陽はこう答えました「臣の父・哀公(献哀公)は罪がないのに殺されました(死不以罪)。臣は父のために復讎しようとしたのです(臣為父復讎耳)。」

天王が泣いて言いました「哀公の死は、朕にはどうしようもなかった。卿はそれを知らないというのか(哀公之死,事不在朕,卿豈不知之)。」

(天王の同じ問いに)王皮はこう答えました「臣の父は丞相となり、佐命の勲(天命を輔佐した勲功)がありましたが、臣は貧賎を免れることができませんでした。だから富貴を図ろうと欲したのです(故欲図富貴耳)。」

天王が言いました「丞相(王猛)は臨終の際、卿を(朕に)託し、十具(十頭)の牛を治田の資(農耕の資本)とさせたが、卿のために官を求めたことはなかった。子を知るのに父以上の者はいないというが、この言葉は何と確かなことか(または、「子を知るのに父以上の者はいないというが、丞相は何と英明だったことか」。原文「知子莫若父,何其明也」)。」

周虓はこう答えました「虓(私)は代々晋の恩を負って来たので(世荷晋恩)、生きている間は晋の臣となり、死んでからは晋の鬼となります。また何を問うのですか(生為晋臣,死為晋鬼,復何問乎)。」

周虓はこれ以前にもしばしば反叛を謀ったため、左右の者が皆、周虓を殺すように請いました。

しかし天王は「孟威(周虓の字です)は烈士であり、このような志を持っているので、どうして死を恐れるだろう(孟威烈士,秉志如此,豈憚死乎)。彼を殺しても、まさにその名を成させるに足りるだけだ(殺之適足成其名耳)」と言い、三人とも赦して誅殺しませんでした。

苻陽は涼州の高昌郡(『資治通鑑』胡三省注によると、苻堅が河西を平定してから、高昌の人・楊幹を高昌太守にしました。高昌は漢代・車師後部の高昌壁の地で、河西の張氏(前涼)が郡を置き、苻氏はそれを踏襲したようです)に、王皮と周虓は朔方の北に遷されます。

 

後に周虓は朔方で死にました。

苻陽は人並み以上の有力があったため(勇力兼人)、暫くして更に鄯善に遷されました。

建元の末、秦国が大乱に陥った際(建元は苻堅の年号です。建元十九年・383年に前秦は東晋討伐に失敗して大乱に陥ります)、苻陽は鄯善の相を脅迫して東に帰る許可を求めようとしましたが、鄯善王が苻陽を殺しました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が鄴の銅駝、銅馬、飛廉、翁仲を長安に遷しました(『資治通鑑』胡三省注によると、これらは後趙の石虎が鄴に置いた物です。東晋成帝咸康二年・336年に「(石虎が)洛陽の鍾虡、九龍、翁仲、銅駝、飛廉を鄴に移させた」という記述がありました。「銅馬」には触れていません)

 

[四] 『資治通鑑』からです。

夏四月、前秦天王(秦王・苻堅)が扶風太守・王永を幽州刺史に任命しました。

王永は王皮の兄です。王皮は凶険無行(凶悪で品行がないこと)でしたが、王永は清修(清廉で自分の身を修められること)かつ好学だったため、天王に用いられました。

 

陽平公・苻融を司徒に任命しましたが、苻融は固辞して受け入れませんでした。

天王は晋討伐を謀っている時だったため、苻融を征南大将軍・開府儀同三司にしました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

五月、幽州で蝗が発生し、その広袤(広さと長さ。面積)は千里に及びました。

前秦天王(秦王・苻堅)は散騎常侍・彭城の人・劉蘭に命じ、幽・冀・青・并州の民を動員して蝗を撲除(撲滅)させました。

 

[六] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

秋八月癸卯(十一日)、東晋が大赦しました。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が諫議大夫・裴元略を巴西梓潼二郡太守に任命し、秘かに舟師を準備させました。長江を東下して東晋を討つためです。

 

[八] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

九月、東夷の五国が使者を派遣して東晋に方物(地方の産物)を貢納しました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

車師前部王・彌窴と鄯善王・休密馱が前秦に入朝し、西域で服していない者を討つために、自ら郷導(先導)となる許可を求めました。また、西域を平定したら、それを機に漢代の方法に則り、都護を置いて西域を統理(統治)するように請いました。

 

前秦天王(秦王・苻堅)は驍騎将軍・呂光を使持節・都督西域征討諸軍事に任命し、淩江将軍・姜飛、軽車将軍・彭晃、将軍・杜進、康盛等(『資治通鑑』胡三省注によると、淩江将軍は晋文王(司馬昭)が置いた将軍号で、羅憲が任命されました。杜進と康盛は位が将軍に上りましたが、まだ将軍号がありませんでした)と共に兵十万・鉄騎五千を統べて西域を伐たせました。

陽平公・苻融が諫めてこう言いました「西域は荒遠で、その民を得ても使うことはできず、その地を得ても食すこと(開拓・農耕すること)はできず、漢武(西漢武帝)もこれを征しましたが、得たものが失ったものを補うことはできませんでした(西域荒遠,得其民不可使,得其地不可食,漢武征之,得不補失)。今、師(軍)を万里の外で労して漢氏による過挙(誤った行動)の後を追おうとしていますが、臣は心中でこれを惜しんでいます(残念に思っています。原文「今労師万里之外以踵漢氏之過挙,臣竊惜之」)。」

天王は諫言を聴きませんでした。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

東晋の桓沖が揚威将軍・朱綽に命じて、襄陽で前秦の荊州刺史・都貴を撃たせました。

朱綽は沔北の屯田を焚践(焼毀・蹂躙)し、六百余戸を掠めて(奪って)還りました。

 

『晋書・第九・孝武帝紀』はこう書いています「苻堅の将・都貴が沔北の田穀を焚焼し、襄陽の百姓を略して(奪って)去った。」

しかし『晋書・載記第十四』は「晋の将軍・朱綽が沔北の屯田を焚践し、六百余戸を掠めて還った」と書いており、『晋書・列伝第四十四(桓沖伝)』でも桓沖が揚威将軍・朱綽に襄陽を討たせて、朱綽が沔北の田で稲を焼いています。中華書局『晋書・孝武帝紀』校勘記は「本紀の文が恐らく誤りである」と解説しています。

 

[十一] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

冬十月丙子(十五日)、雷が落ちました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が太極殿で群臣と会し、討議してこう言いました「私が大業を継承してもうすぐ三十載(年)になり、四方はおおよそ平定したが、ただ東南の一隅だけはまだ王化に接していない(自吾承業,垂三十載,四方略定,唯東南一隅,未霑王化)。今、我が士卒を大まかに数えてみると、九十七万を得ることができる。私は自ら(兵を)率いてこれを討とうと欲するが、如何だ(今略計吾士卒,可得九十七万,吾欲自将以討之,何如)?」

祕書監・朱肜が言いました「陛下が恭しく天罰(討伐)を行えば、必ず(帝王として)出征するだけで実際に戦う必要はなく、晋主は軍門で璧を銜えないとしても(投降しないとしても)、走って江海で死ぬことになるでしょう(陛下恭行天罰,必有征無戦,晋主不銜璧軍門,則走死江海,)(江南を平定したら)陛下は中国(中原)の士民を返して彼等の桑梓(故郷)を回復させ、その後、輿の向きを変えて東巡し、岱宗(泰山)に成功を報告すべきです(陛下返中国士民使復其桑梓,然後回輿東巡,告成岱宗)。これは千載に一時(の好機)です(此千載一時也)。」

天王は喜んで「これは私の志と同じだ(是吾志也)」と言いました。

しかし、尚書左僕射・権翼がこう言いました「昔、紂が無道を為しましたが、三仁(商王朝末期の三人の仁人。微子、箕子、比干を指します)が朝(朝廷)にいたので、武王はなお旋師(撤兵)しました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。西周武王は商を討伐しましたが、まだその時ではないと判断し、盟津に至ってから引き還しました。後に紂の暴虐がますますひどくなり、比干が殺され、箕子が捕えられ、微子が周に出奔してから、改めて出征して商を滅ぼしました)。今、晋は微弱とはいえ、まだ大悪がなく、謝安や桓沖は皆、江表の偉人であり、君臣が輯睦(和睦)して内外が同心になっています。臣がこれを観るに、まだ図ることはできません。」

天王は久しく沈黙してから(嘿然良久)、「諸君はそれぞれその志(意見)を述べよ(諸君各言其志)」と言いました。

 

太子左衛率・石越が言いました「今は歳鎮が斗を守っているので、福徳は呉にあります(『資治通鑑』胡三省注によると、「歳」は木星、「鎮」は土星です。斗・牛・女(北方玄武七宿のうちの三宿)は呉・越・揚州の分野に当たります)。これを伐てば、必ず天殃(天災)があります。そもそも、彼等は長江の険に拠っており、民も彼等に用いられています(民も服従しています)。恐らくまだ伐つべきではありません(彼拠長江之険,民為之用,殆未可伐也)。」

天王が言いました「昔、武王が紂を伐った時は、歳に逆らって卜に違えた(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。西周武王が紂を討伐した時、魚辛が諫めて「歳は北方にあります。北征すべきではありません」と言いましたが、武王は従いませんでした。また、卜で不吉な兆が出ましたが、太公が出征を勧めたため、武王は行動を起こしました)。天道とは幽遠なので、容易に知ることはできない(天道幽遠,未易可知)(それに)夫差も孫皓も皆、江湖を保拠(占拠、領有)にしたが、滅亡から免れられなかった(不免於亡)。今、私の衆をもってして、全ての鞭を江に投じれば、その流れを断つに足りる(原文「投鞭於江,足断其流」。ここから「投鞭断流」という成語ができました。軍隊が強大なことを表します)(彼等は)また何の険を恃みとするに足りるのだ(又何険之足恃乎)。」

石越が応えました「三国の君(紂、夫差、孫皓を指します)は皆、淫虐無道だったので、敵国がこれを取るのは、落ちている物を拾うように容易でした(易於拾遺)。今、晋は無徳とはいえ、まだ大罪があるわけではありません。陛下が暫くは兵を抑えて穀物を蓄えることで、相手の釁(隙)を待つことを願います(願陛下且按兵積穀以待其釁)。」

 

石越の発言を機に、群臣がそれぞれ利害について述べましたが、久しく経っても決定できませんでした。

そこで、天王がこう言いました「これは『道端に家を建てる』というものであり、いつになっても成就できない(原文「此所謂築舍道傍,無時可成」。ここから「築舍道傍」という成語が生まれました。人が多い道端に家を建てたら意見も多くなるので、いつまでたっても完成できない、意見が多いと物事を成就できない、という意味です)。私が心中で決断すべきだ(吾当内断於心耳)。」

 

 

次回に続きます。

東晋時代113 東晋孝武帝(十二) 前秦の蝗 382年(2)

東晋時代111 東晋孝武帝(十) 秦晋の攻防 381年

今回は東晋孝武帝太元六年です。

 

東晋孝武帝太元六年/前秦天王建元十七年

辛巳 381年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月、東晋孝武帝が初めて仏法を奉じ、殿内に精舍(出家した者が修身する場所)を建てて、諸沙門(仏僧)を招いて住ませました。

尚書左丞・王雅が上表して諫めましたが、孝武帝は従いませんでした。王雅は王粛の曾孫です(王粛は魏に仕えて経学で名が知られました。西晋武帝の母・王氏は王粛の娘に当たります。魏元帝咸熙元年・264年参照)

 

[二] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

丁酉(二十六日)、東晋が尚書・謝石を尚書僕射に任命しました。

 

[三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

東晋が始めて督運御史の官(物資の輸送を管理する官)を置きました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

二月、東夷、西域の六十二国が前秦に入貢しました。

 

[五] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

夏六月庚子朔、日食がありました。

 

[六] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

揚・荊・江三州で大水(洪水)がありました。

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

己巳(三十日)、東晋が制度を改めて煩費(浪費、消費)を減らし、吏士の員(定員)七百人を削りました。

 

[八] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

秋七月丙子(初七日)、東晋が五年の刑以下の者を赦免しました(赦五歳刑已下)

 

[九] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲午(二十五日)、東晋の交趾太守・杜瑗(『資治通鑑』では「交趾太守」、『晋書・孝武帝紀』では「交阯太守」です)が李遜(前年参照)を斬り、交州が平定されました。

 

[十] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

東晋が大饑(大飢饉)に襲われました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

冬十月、東晋の元武陵王・司馬晞が新安で死にました(司馬晞は東晋簡文帝咸安元年・371年に新安に遷されました)

孝武帝は司馬晞を新寧郡王に追封し、命を下して子の司馬遵に跡を継がせました(実際に司馬遵が司馬晞の跡を継いで新寧王に立てられるのは、孝武帝太元九年・384年の事です。再述します)

 

[十二] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

十一月己亥(『二十史朔閏表』によると、この年十一月は「戊辰」が朔なので、「己亥」はありません)、東晋が前会稽内史・鎮軍大将軍・郗愔を司空に任命しましたが、郗愔は固辞して起ちあがりませんでした。

 

[十三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

会稽の人・檀元之が東晋に反して自ら安東将軍を号しましたが、鎮軍参軍・謝藹之が討って平定しました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

前秦の荊州刺史・都貴が自分の司馬・閻振と中兵参軍・呉仲を派遣し、二万の衆を率いて竟陵(『資治通鑑』胡三省注によると、竟陵は侯国で、西漢時代以降、江夏郡に属しましたが、西晋恵帝が分けて竟陵郡を置きました)を侵犯させました。

 

東晋の桓沖は南平太守・桓石虔、衛軍参軍・桓石民等を派遣し、水陸二万を率いて抵抗させました。

桓石民は桓石虔の弟です(どちらも桓豁の子で、桓彝の孫に当たります)

 

十二月甲辰(初八日)、桓石虔が閻振と呉仲を襲撃して大破しました。閻振と呉仲は退いて管城を守ります(『晋書・載記第十三』を見ると、桓石虔は滶水で閻振等を破っています。『資治通鑑』胡三省注によると、管城は滶水の北にあったようです)

桓石虔は兵を進めてこれを攻めました。

 

癸亥(二十七日)、桓石虔が管城を攻略し、閻振と呉仲を捕えました。斬首は七千級、俘虜は一万人に上ります。

 

孝武帝が詔を発して桓沖の子・桓謙を宜陽侯に封じ、桓石虔に河東太守(『資治通鑑』胡三省注によると、東晋成帝の時代に、征西将軍・庾亮が司州の僑戸(移民)を集めて南河東郡を置きました。荊州に属します)を兼任させました(領河東太守)

 

尚、『晋書・第九・孝武帝紀』は「十二月甲辰(初八日)、苻堅が襄陽太守・閻震を派遣して竟陵を侵犯させたが、襄陽太守・桓石虔がこれを討って擒にした」と書いています。『晋書・載記第十三』では「襄陽太守・閻震」を「司馬・閻振」としており、『資治通鑑』は「載記」に従っています。

『晋書・孝武帝紀』の「襄陽太守・桓石虔」という部分は、中華書局『晋書・孝武帝紀』校勘記が「桓石虔は当時、南平太守であり、襄陽(太守)ではない」と解説しており、『晋書・載記第十三』でも「南平太守・桓石虔」としています。『資治通鑑』も「載記」に従っています。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

この年、江東が大飢饉に襲われました(江東大饑)

 

 

次回に続きます。

東晋時代112 東晋孝武帝(十一) 苻陽謀反 382年(1)

東晋時代110 東晋孝武帝(九) 苻洛謀反 380年

今回は東晋孝武帝太元五年です。

 

東晋孝武帝太元五年/前秦天王建元十六年

庚辰 380年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

春正月乙巳(二十八日)、東晋孝武帝が崇平陵(東晋康帝陵)を謁拝しました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が北海公・苻重を改めて鎮北大将軍に任命し、薊を鎮守させました(苻重は豫州刺史でしたが、東晋孝武帝太元三年・378年に謀反して官を失っていました)

 

[三] 『資治通鑑』からです。

二月、前秦天王が渭城(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢高帝が咸陽を新城に改名し、武帝が渭城に改名しました。東漢と晋は省きましたが、石勒が石安県を置き、苻秦がまた渭城と呼ぶことにしました)に教武堂を造りました。太学生の中で陰陽や兵法に明るい者に命じて、諸将に教授させます。

しかし祕書監・朱肜が諫めてこう言いました「陛下は東征西伐して向かう所に敵がなく、四海の地のうち、十分の八を得ました(什得其八)。江南はまだ服していないとはいえ、およそ語るには足りません(蓋不足言)。よって、少し武事を休めて、文徳を増やし修めるべきです(是宜稍偃武事,増修文徳)。それなのに、かえって新たに学舍を建てて、人に戦闘の術を教えました。恐らくこれは升平(太平)に至ろうとする方法ではありません(乃更始立学舍,教人戦闘之術,殆非所以馴致升平也)。そもそも、諸将は皆、百戦して余りあるので、どうして兵(兵事、軍事)に習熟していないことを患いる必要があるのでしょう。(それなのに)逆に書生から教えを受けさせても、志気を強くすることにはなりません(且諸将皆百戦之余,何患不習於兵,而更使受教於書生,非所以強其志気也)。これは実(実利)において益がなく、名(名声)においては損なうことになるので、陛下がこれを図ることを願います(陛下の再考を願います。原文「此無益於実而有損於名,惟陛下図之」)。」

天王は中止しました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

前秦の征北将軍・幽州刺史・行唐公・苻洛(『資治通鑑』胡三省注によると、苻洛は幽州刺史として和龍を鎮守していました。行唐は戦国時代の趙の邑で、秦が県にして、魏・晋もそれを踏襲していました)は勇猛かつ多力で、坐したまま奔走する牛を制すことができ、矢を射れば犂耳(犂の固い部分)に穴をあけることもできました(能坐制奔牛,射洞犂耳)

苻洛は自分に代を滅ぼした功績があると思っており、開府儀同三司を求めましたが、得られなかったため、怨憤を抱きました。

 

三月、前秦天王(秦王・苻堅)が苻洛を使持節・都督益寧西南夷諸軍事・征南大将軍・益州牧に任命しました。同時に、伊闕から襄陽に向かい、漢水を遡るように命じます。

しかし苻洛は官属にこう言いました「孤(私)は帝室の至親であるのに(『資治通鑑』胡三省注によると、苻洛は前秦景明帝・苻健の兄の子です)(中央に)入って将相になることができず、常に辺鄙(辺遠、辺境)に擯棄(放棄)されてきた。今また西裔(西の辺境)に投じられ、しかも京師を通ることすら許されなかった(今又投之西裔,復不聴過京師)。これは必ず陰計があり、梁成(荊州刺史。襄陽を鎮守しています)を使って孤(私)を漢水に沈めようと欲しているに違いない。」

幽州治中・平規が言いました「逆取順守(主に背いて国を取り、道に順じて国を守ること)とは、湯・武(商王朝の成湯と西周武王)がしたことです(逆取順守,湯武是也)。因禍為福(禍を福に転じること)とは、桓・文(春秋時代の斉桓公と晋文公)がしたことです(原文「因禍為福,桓文是也」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。斉桓公と晋文公はそれぞれ兄弟で国を争いましたが、国を得てからは霸を称えました)。主上(陛下。前秦天王)は昏暴を為してはいませんが、兵を尽くして軽率に武を用いているので、民の中で肩を休める場所を思う者(休息を願う者)は十室(家)のうち九室に上ります(主上雖不為昏暴,然窮兵黷武,民思有所息肩者,十室而九)。もし、明公(苻洛)の神旗が一たび建てられれば、必ず全土が雲集するように従うでしょう(若明公神旗一建,必率土雲従)。今、全燕を跨拠(占拠、拠有)すれば、地は東海に尽き(東海に至り)、北は烏桓・鮮卑を統べ、東は句麗・百済を引き(率い)、控弦の士は五十余万を下りません(控弦之士不減五十余万)。なぜ手を束ねて召喚に応じ、不測の禍に向かうのですか(柰何束手就徵,蹈不測之禍乎)。」

苻洛は袖をめくってこう大言しました(攘袂大言曰)「孤(私)の計は決まった。謀を阻止する者は斬る(孤計決矣,沮謀者斬)!」

こうして苻洛は自ら大将軍・大都督・秦王を称しました。

平規を幽州刺史に、玄菟太守・吉貞を左長史に、遼東太守・趙讃を左司馬に、昌黎太守・王縕を右司馬に、遼西太守・王琳、北平太守・皇甫傑、牧官都尉・魏敷等(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の辺郡に牧官がおり、前秦は牧官都尉を置きました)を従事中郎に任命します。

同時に使者を分遣して、鮮卑、烏桓、高句麗、百済、新羅、休忍の諸国から徵兵し、三万の兵を送って薊を守る北海公・苻重(苻洛の兄)を助けさせようとしました。

ところが諸国は皆こう言いました「我々は天子の守藩(封地を守る藩臣)になったので、行唐公に従って逆を為すことはできません。」

苻洛は懼れて計画を中止しようとしましたが、躊躇して決断できませんでした。

王縕、王琳、皇甫傑、魏敷が、苻洛は成功できないと知って告発しようとしたため、苻洛は彼等を全て殺しました。

 

吉貞と趙讃が苻洛に言いました「今、諸国が従わず、事が本図(本来の計画)から離れてしまいました(事乖本図)。明公がもし益州に行くことを恐れているのなら、使者を派遣して上表を奉じ、留まることを乞うべきです(明公若憚益州之行者,当遣使奉表乞留)。主上も考慮せず(上表に)従わないということはないでしょう(「請願を直ちに却下することはないでしょう」という意味だと思います。原文「主上亦不慮不従」)。」

しかし平規がこう言いました「今、事形(事態、情勢)が既に暴露したのに、どうして中止することができるのですか(今事形已露,何可中止)。詔を受けたと声言(公言)して、幽州の兵を尽くし(ことごとく動員し)、南に向かって常山に出れば、陽平公(苻融)が必ず郊外で迎えます。その機にこれを捕えて、進んで冀州を占拠し、関東の衆を総べて(統べて。統率して)西土を図れば、天下は一たび指揮するだけで平定できます(天下可指麾而定也)。」

苻洛はこの意見に従いました。

 

夏四月、苻洛が七万の衆を率いて和龍を発ちました。

 

天王が群臣を招集して謀りました。

歩兵校尉・呂光が言いました「行唐公は至親の身で逆を為しました。これは天下が共に憎むことです(此天下所共疾)。臣に歩騎五万を貸すことを願います。これを取るのは、落ちている物を拾うように容易なことです(願假臣歩騎五万,取之如拾遺耳)。」

天王が言いました「重と洛の兄弟は東北の一隅を拠点としており、兵賦(兵や物資。「賦」は民間から徴収した武器や資金だと思います)ともに蓄えられているので、軽視することはできない(重洛兄弟,拠東北一隅,兵賦全資,未可軽也)。」

呂光が言いました「彼の衆は凶威に迫られて、一時的に蟻のように集まっただけです(彼衆迫於凶威,一時蟻聚耳)。もし大軍でこれに臨めば、必ず瓦解する形勢にあるので、憂うるには足りません(若以大軍臨之,勢必瓦解,不足憂也)。」

 

天王はまず使者を派遣して苻洛を譴責し、和龍に還らせて幽州を永く世封(代々世襲する封地)とすることにしました。

しかし苻洛は使者にこう言いました「汝は還って東海王に告げよ(苻堅の元の爵位は東海王でした)。幽州は褊狭(狭小)なので、万乗を容れるには足りない。秦中で王となって高祖(景明帝・苻健の廟号です)の業を継承する必要がある(須王秦中以承高祖之業)。もし潼関で駕を迎えることができるようなら、位を上公にして、爵を本国(東海)に戻そう(若能迎駕潼関者,当位為上公,爵帰本国)。」

 

怒った天王は左将軍・武都の人・竇衝と呂光を派遣し、歩騎四万を率いて苻洛を討たせました。

また、右将軍・都貴(都が姓、貴が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、鄭の公孫閼が字を子都といい、その子孫が都を氏にしました)に伝(伝馬、駅馬)を馳せて鄴に急行させ、冀州の兵三万を率いて前鋒にさせました。

陽平公・苻融が征討大都督に任命されます。

 

北海公・苻重は薊城の衆を全て動員して苻洛と会し、中山に駐屯しました。十万の衆を有しています。

 

[五] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

東晋を大旱が襲いました。

癸酉(二十七日)、東晋が五年の刑以下の者を赦免しました(原文「大赦五歳刑以下」。中華書局『晋書・孝武帝紀』校勘記は、「大」の字を衍(余分な文字)としています)

 

[六] 『資治通鑑』からです。

五月、前秦の竇衝等が中山で苻洛と戦い、苻洛の兵が大敗しました。竇衝等は苻洛を生捕りにして長安に送ります。

北海公・苻重は逃走して薊に還りましたが、呂光が追撃して斬りました。

屯騎校尉・石越も騎兵一万を率いて東莱を発ち、海から和龍を襲って(浮海襲和龍)平規を斬りました。

こうして幽州が全て平定されます。

 

天王は苻洛を赦して誅殺せず、涼州の西海郡(『資治通鑑』胡三省注によると、東漢献帝時代、武威太守・張雅が居延に郡を置くことを請い、西海郡が置かれました)に遷しました。

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

大水(洪水)がありました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

東晋朝廷は秦兵の撤退(前年参照)を謝安と桓沖の功とみなしました。

そこで、謝安を衛将軍に任命し、桓沖と共に開府儀同三司としました。

『晋書・第九・孝武帝紀』は「司徒・謝安を衛将軍・儀同三司にした」と書いています。

 

[九] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

六月甲寅(初九日)、東晋の含章殿に雷が落ちて四本の柱が震え(『晋書・孝武帝紀』の原文は「震含章殿四柱」ですが、『晋書・五行志下』は「雷震含章殿四柱」と書いています。ここは『五行志』に従って「雷」の字を補いました)、同時に二人の内侍を殺しました(并殺内侍二人)

 

[十] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲子(十九日)、東晋が連年の荒倹(不作)を理由に大赦しました。

また、太元三年(378年)より前の逋租宿債(滞納した租税や古い借金)を全て蠲除(免除)し、鰥寡(配偶者を失った男女)・窮独(孤独な者。身寄りがない者)・孤老(孤児や老人)で自存できない者には、一人当たり五斛の米を下賜しました(其鰥寡窮独孤老不能自存者,人賜米五斛)

 

[十一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

丁卯(二十二日)、東晋が驃騎将軍・琅邪王・司馬道子(『資治通鑑』は「会稽王・道子」としていますが、司馬道子は太元十七年・392年に琅邪王から会稽王に改封されます。『晋書・孝武帝紀』では「驃騎将軍・琅邪王・道子」です)を司徒に任命しましたが、司馬道子は頑なに譲って拝命しませんでした。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が陽平公・苻融を召して侍中・中書監・都督中外諸軍事・車騎大将軍・司隸校尉・録尚書事に任命し、征南大将軍・守尚書令・長楽公・苻丕を都督関東諸軍事・征東大将軍・冀州牧に任命しました。

 

秋七月、天王は諸氐の種類(種族)が繁滋(発展、増加)していると考え、三原、九嵕(『資治通鑑』胡三省注によると、九嵕山は漢代の馮翊雲陽県界内にありました)、武都、汧、雍の氐族十五万戸を分けて、諸宗親にそれぞれ統領させました。宗親が方鎮(各地の軍鎮)に散居して古の諸侯のようになります。

 

長楽公・苻丕は三千戸の氐族を統領することになりました。そこで、仇池の氐酋・射声校尉・楊膺を征東左司馬に、九嵕の氐酋・長水校尉・齊午を(征東)右司馬に任命してそれぞれ千五百戸を統領させ、長楽世卿(長楽公に属す世襲の貴族)にしました。楊膺は苻丕の妻の兄、齊午は楊膺の妻の父です。

また、長楽郎中令・略陽の人・垣敞(『資治通鑑』胡三省注によると、垣は氐族の姓です。後に宋武(南宋武帝)に従って南帰し、代々の将家になります)を録事参軍に、侍講・扶風の人・韋幹を参軍事に、申紹を別駕にしました。

 

八月、前秦が幽州を分けて平州を置き、石越を平州刺史に任命して龍城を鎮守させました。

『資治通鑑』胡三省注によると、平州の地は本来、幽州界内に属しましたが、東漢末に公孫度が自ら平州牧を称しました。魏は公孫淵を滅ぼした後もそのまま平州を置いて、遼東、昌黎、玄菟、帯方の五郡(胡三省注は「楽浪」が抜けています)を統領させましたが、後にまた幽州と合併させました。苻秦は燕を滅ぼしてから、再び幽州を分けて平州を置きました。

 

中書令・梁讜を幽州刺史に任命して薊城を鎮守させ、撫軍将軍・毛興を都督河秦二州諸軍事・河州刺史に任命して枹罕を鎮守させ、長水校尉・王騰を并州刺史に任命して晋陽を鎮守させました。河・并二州にそれぞれ氐族三千戸を配します。

毛興と王騰はどちらも苻氏と婚姻関係にあり、氐の崇望(声望があって尊崇されている人物)でした。

 

平原公・苻暉を都督豫洛荊南兗東豫陽六州諸軍事・鎮東大将軍・豫州牧に任命して洛陽を鎮守させ、洛州刺史の治所を豊陽に遷し(太元三年・378年に触れました)、鉅鹿公・苻叡を雍州刺史にして(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によってはこの後「鎮蒲坂(蒲坂を鎮守させた)」の三文字が続きます)(苻暉と苻叡に)それぞれ氐族三千二百戸を配しました。

「豫洛荊南兗東豫陽六州」は「豫・洛・荊・南兗・東豫・陽の六州」です。『資治通鑑』胡三省注によると、前秦の兗州刺史は倉垣を鎮守し、南兗州は湖陸を鎮守しました。秦初の豫州刺史は許昌を鎮守しましたが、燕を滅ぼしてからは洛陽を鎮守することになり、許昌には東豫州が置かれました。「陽州」は「揚州」とするのが正しいようです。陽州は東魏の天平年間に始めて宜陽に置かれます。苻堅は王顕を揚州刺史に任命して下邳を守らせており、その地は苻暉の統括下に属しました。苻秦の洛州刺史は元々、陝城を鎮守しており(二年前の胡三省注では、「洛州刺史は洛陽を治所としていた」と解説しています。前秦の洛州刺史は以前、陝城から洛陽に遷り、今回、更に洛陽から豊陽に遷ったようです)、豊陽は荊州刺史が鎮守していましたが、襄陽を得て荊州にしたので、洛州の治所を豊陽に遷しました。

 

天王が苻丕を送って灞上に至りました。

(移住を命じられた)諸氐が自分の父兄と別れることになったため、皆、慟哭して、路人を哀感させました。

 

趙整が宴に侍った機会に琴(『資治通鑑』胡三省注が琴について詳しく解説していますが、省略します)を弾いてこう歌いました「阿得脂,阿得脂(直訳すると「阿が脂を得た」ですが、意味が分かりません)。博労の舅父は仇綏であり(原文「博労舅父是仇綏」。この部分も意味が分かりません。「博労」は「伯労」ともいい、鳥の名です。「仇綏」は不明です。『資治通鑑』胡三省注も「どういう物かわからない(仇綏,不知為何物)」と書いています。尚、『晋書・載記第十四』は「博労旧父是仇綏」と書いています(「舅父」ではなく「旧父」です)。あるいは、「博労」は鳥の名と「広く労す」という意味をかけており、この一文は「広く旧父(親族の父兄)を労して仇人を安撫する」という意味を表すのかもしれません)(博労は)尾が長くて翼が短いので飛ぶことができない。遠くに種人(族人。氐族)を遷して鮮卑(慕容氏)を留める。一旦にして緩急(急事)が有ったら、誰に語るのだろうか(『資治通鑑』原文「阿得脂,阿得脂,博労舅父是仇綏,尾長翼短不能飛。遠徙種人留鮮卑,一旦緩急当語誰」。『晋書・載記第十四』原文「阿得脂,阿得脂,博労旧父是仇綏,尾長翼短不能飛,遠徙種人留鮮卑,一旦緩急語阿誰」)。」

天王は歌を聞いて笑いましたが、諫言を採用しませんでした。

 

[十三] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

九月癸未(初十日)、東晋の皇后・王氏が死にました。

『晋書・列伝第二・后妃伝下』によると、王氏は「孝武定王皇后」といい、二十一歳でした。

 

[十四] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

冬十月、東晋の九真太守・李遜が交州を占拠して反しました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が左禁将軍・楊壁を秦州刺史に、尚書・趙遷を洛州刺史に、南巴校尉・姜宇(『資治通鑑』胡三省注によると、苻秦(前秦)は南中に南巴校尉を置きました)を寧州刺史に任命しました。

 

[十六] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

十一月乙酉(十三日)、東晋が定皇后(王氏)を隆平陵に埋葬しました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

十二月、前秦が左将軍・都貴を荊州刺史に任命して彭城を鎮守させました。

これは『資治通鑑』本文の記述ですが、胡三省注が「都貴は襄陽を鎮守したのであって、彭城は誤りである」と解説しています。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

前秦が東豫州を置き、毛当を刺史に任命して許昌を鎮守させました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

この年、前秦天王(秦王・苻堅)が高密太守・毛璪之等二百余人を東晋に帰らせました(毛璪之は前年、前秦に捕えられました)

 

 

次回に続きます。

東晋時代111 東晋孝武帝(十) 秦晋の攻防 381年

東晋時代109 東晋孝武帝(八) 謝玄の反撃 379年

今回は東晋孝武帝太元四年です。

 

東晋孝武帝太元四年/前秦天王建元十五年

己卯 379年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月辛酉(初八日)、東晋が大赦しました。

 

[二] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

東晋の郡県で水旱の害に遭遇した者は租税を減らしました。

 

[三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

丙子(二十三日)、東晋孝武帝が建平等の七陵を謁拝しました。

 

[四] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

前秦の長楽公・苻丕(前秦天王の子)等が詔(前回参照)を得て惶恐しました。そこで、諸軍に力を併せて襄陽を攻めるように命じます。

前秦天王(秦王・苻堅)も自ら兵を指揮して襄陽を攻めようと欲し、詔を発して、陽平公・苻融に関東六州の兵を率いて寿春で会させ、梁熙に河西の兵を率いて後継になるように命じました。

しかし、陽平公・苻融が天王を諫めてこう言いました「もしも陛下が江南を取ろうと欲するなら、もとより広く謀って深く考慮すべきであり、倉猝(唐突、軽率)であってはなりません(陛下欲取江南,固当博謀熟慮,不可倉猝)。もしもただ襄陽だけを取ろうと欲するなら、また、どうして大駕を自ら労す必要があるのでしょう(若止取襄陽,又豈足親労大駕乎)。一城のために天下の衆を動かすような者は、今までいたためしがありません(未有動天下之衆而為一城者)。これはいわゆる『隨侯の珠(隨侯が蛇を救って得たといわれる宝珠)を使って千仞の雀(「仞」は髙さの単位です。「千仞の雀」は高所を飛ぶ雀です)を撃つ(以隨侯之珠弾千仞之雀)』というものです。」

梁熙も諫めてこう言いました「晋主の暴はまだ孫皓(呉末帝)ほどではなく、江山の険固な地形は、守り易くて攻めるのが困難です(晋主之暴,未如孫皓,江山険固,易守難攻)。陛下が必ず江表を廓清(粛清・平定)しようと欲したとしても、やはり将帥にそれぞれ命を発して、関東の兵を率いて南は淮・泗に臨ませ、梁・益の卒を下らせて東は巴・峡から出させるだけで充分です。どうしてまた自らを労して鸞輅(天子の車)に乗り、遠く沮沢(沼澤)に行幸する必要があるのでしょうか(陛下必欲廓清江表,亦不過分命将帥,引関東之兵,南臨淮泗,下梁益之卒,東出巴峽,又何必親屈鸞輅,遠幸沮沢乎)。昔、漢光武が公孫述を誅して晋武帝が孫皓を擒にしましたが、二帝が自分で六師を統帥し、自ら枹鼓(戦鼓)を持って矢石を冒したとは、聞いたことがありません(未聞二帝自統六師親執枹鼓蒙矢石也)。」

天王は親征を中止しました。

『資治通鑑』胡三省注は「苻融と梁熙は自分が鎮守している地を離れていないので、どちらも(朝廷に)上書して(天王を)諫めた」と解説しています。

 

東晋孝武帝が詔を発し、冠軍将軍・南郡相・劉波に八千の衆を率いて襄陽を救わせました。

しかし劉波は秦を畏れて前に進もうとしませんでした。

 

朱序がしばしば出撃して秦兵を破りました。前秦の将が兵を率いて退き、徐々に遠くへ離れたため、朱序は備えを設けなくなります。

 

二月、襄陽の督護・李伯護が秘かに自分の子を派遣して前秦に誠意を伝え(密遣其子送款於秦)、内応となることを請いました。

長楽公・苻丕が諸軍に進攻を命じます。

 

戊午(『晋書・孝武帝紀』『資治通鑑』とも「戊午」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年二月は「甲申」が朔なので、「戊午」はありません)、前秦が襄陽を攻略し、朱序を捕えて長安に送りました。

天王は、節を守ることができた朱序を度支尚書(『資治通鑑』胡三省注によると、度支尚書は曹魏が置きました)に任命し、李伯護は不忠とみなして斬りました。

 

前秦の将軍・慕容越も順陽(『資治通鑑』胡三省注によると、西晋武帝の時代に順陽郡が置かれました)を攻略して、太守・譙国の人・丁穆を捕えました。

天王が丁穆に官を授けようと欲しましたが、丁穆は固辞して受け入れませんでした。

 

天王は中塁将軍・梁成を荊州刺史に任命して一万の兵を配し、襄陽を鎮守させました。また、当地の才望を選び、礼遇して用いました。

 

東晋の桓沖は襄陽が陷没したので、上書して章節(印章と符節)を送り返し、解職(免職)を請いました。

孝武帝は詔を発して劉波の官を免じましたが、間もなくして再び冠軍将軍に任命しました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

前秦が前将軍張蚝を并州刺史に任命しました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

東晋の兗州刺史・謝玄が一万余の衆を率いて彭城を救いに行き、泗口に駐軍しました。そこから間使(密使)を派遣して戴𨔵(彭城にいる沛郡太守)に報せようとしましたが、相応しい人物を得られません。

すると、部曲の将・田泓が水中を潜行して彭城に向かう許可を請いました。

そこで謝玄は田泓を派遣しましたが、田泓は秦人に捕えられてしまいました。

秦人は田泓に厚い賄賂を贈り、彭城に「南軍は既に敗れた」と伝えさせました。田泓は偽ってこれに同意してから、城中にこう告げました「南軍はすぐに至る。私は単行して報せに来たが、賊に捕まってしまった。(汝等は)努力せよ(南軍垂至,我単行来報,為賊所得,勉之)。」

秦人は田泓を殺しました。

 

彭超が留城(『資治通鑑』胡三省注によると、留県の城です。漢代以来、彭城郡に属しました)に輜重を置いていたため、謝玄は「後軍将軍・何謙を派遣して留城に向かわせた」と揚言しました。

それを聞いた彭超は彭城の包囲を解き、兵を引き還して輜重を守ります

(その間に)戴𨔵が彭城の衆を率いて何謙に従い、謝玄に奔りました。

 

彭超が彭城を占拠し、兗州治中・徐褒を留めて彭城を守らせてから、南の盱眙を攻めました。

 

『晋書・列伝第四十九(謝玄伝)』では、彭超が輜重を守りに行ってから何謙が馳せて彭城の包囲を解かせており、俱難等が敗れて逃走してから(本年六月)、東晋が彭城と下邳の二戍(二カ所の守備兵)を解散させています。『晋書・孝武帝紀』にも、本年に彭城が陥落したという記述はありません。

しかし『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『十六国』と『秦春秋』がこう書いています「彭超が彭城を占拠した。」「彭超が兵を下邳に分け、徐褒を留めて彭城を守らせた。七月に至り、毛当を徐州刺史に任命して彭城を鎮守させ、王顕を揚州(刺史)に任命して下邳を守らせた。」

『資治通鑑』はこれらの記述に従って、二城とも前秦に攻略されたとしています。

 

本文に戻ります。

俱難も淮陰を攻略し、邵保を留めて守らせました。

『資治通鑑』胡三省注によると、淮陰県は淮水から五十歩離れており、北に向かって十里の地に清河口がありました(北対清河口十里)。進めば山東を窺うことができ、中にいれば江(長江)に沿って守ることができたので(進可以窺山東,内則蔽沿江)、晋・宋時代は重鎮とされました。

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

三月、大疫に襲われました。

 

壬戌(初十日)、東晋孝武帝が詔を発しました「狡寇(狡猾な賊)が縦逸(縦横、放縦)して藩守が傾没し、疆埸(国境)の憂虞が平時の倍にもなっている(狡寇縦逸,藩守傾沒,疆埸之虞,事兼平日)。よって、内外の衆官はそれぞれ心を尽くして協力することで、庶事を安んじさせよ(其内外衆官,各悉心戮力以康庶事)。また、一年の穀物も不作で、百姓の多くが窮乏しているので(又年穀不登,百姓多匱)、詔御が供ずるところは(「詔によって皇室に供給する必要がある物は」という意味だと思います)、万事を倹約に従わせ、九親(皇帝の九族)への供給や衆官の廩俸(俸禄)は暫く半分に減らせ(其詔御所供,事従倹約,九親供給,衆官廩俸,権可減半)。およそ諸役の費用において、軍国の事要(重要な事)でないものは、全て停省(停止・削減)して時務(目前の需要)を救うべきである(凡諸役費,自非軍国事要,皆宜停省以周時務)。」

 

『資治通鑑』はこの詔を要約してこう書いています「疆埸に憂虞が多く、一年の穀物も不作なので、供御(皇室への供給)に必要なものおいては、万事、倹約に則れ(疆埸多虞,年穀不登,其供御所須,事従倹約)。九親への供給や衆官の廩俸は、暫く半分に減らし、諸役の費用は、軍国の事要でなければ、全て停省すべきである(九親供給,衆官廩俸,権可減半。凡諸役費,自非軍国事要,皆宜停省)。」

 

[八] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

癸未(『晋書・孝武帝紀』『資治通鑑』とも「癸未」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年三月は「癸丑」が朔なので、「癸未」はありません)、東晋が右将軍・毛虎生に三万の衆を率いて巴中(『資治通鑑』胡三省注が「巴中は巴郡を指す」と解説しています。尚、『資治通鑑』では「巴中」ですが、『晋書・孝武帝紀』は「蜀」としています)を攻撃させました。魏興を救うためです。

前鋒督護・趙福等が巴西に至りましたが、秦将・張紹等に敗れて七千余人が死亡しました。

毛虎生は退いて巴東に駐屯しました。

 

蜀の人・李烏が二万の衆を集め、成都を包囲して毛虎生に応じました。

しかし前秦天王(秦王・苻堅)が破虜将軍・呂光を送って撃滅させました。

 

夏四月戊申(二十六日)、韋鍾が魏興を攻略しました。

太守・吉挹が刀をとって自殺しようとしましたが、左右の者が刀を奪いました。この時、ちょうど秦人が到着して吉挹を捕えます。結局、吉挹は何も言わず何も食べずに死にました(不言不食而死)

天王が感嘆して言いました「以前は周孟威が屈することなく、後には丁彦遠が自分を潔くし、(今また)吉祖沖が口を閉じて死んだ。何と晋氏には忠臣が多いことか(原文「周孟威不屈於前,丁彦遠潔己於後,吉祖沖閉口而死,何晋氏之多忠臣也」。孟威は周虓の字、彦遠は丁穆の字、祖沖は吉挹の字です)。」

 

吉挹の参軍・史穎は(東晋に)帰ることができました。

朝廷は(史穎から)吉挹が死ぬ前に書いた手疏(手書きの上書)を得て、詔を発して吉挹に益州刺史の官位を贈りました。

 

[九] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

前秦の毛当と王顕が二万の衆を率いて襄陽から東に向かい、俱難(『晋書・孝武帝紀』では「句難」ですが、『晋書・載記第十三』では「俱難」としています。『資治通鑑』は「載記」に従っています)、彭超と合流して淮南を攻めました。

 

五月乙丑(十四日)、俱難、彭超が盱眙を攻略し、高密内史・毛璪之を捕えました(『資治通鑑』胡三省注によると、高密は僑国(移民のために建てられた国)です。毛璪之は内史として盱眙を守っていました)

 

秦兵六万が三阿で幽州刺史・田洛を包囲しました(『資治通鑑』胡三省注によると、晋は江北の三阿に幽・冀・青・并四州を僑置していました)。広陵から百里しか離れていないため、東晋の朝廷が大いに震撼し、江に臨んで守備を並べ、征虜将軍・謝石を派遣して舟師を率いて涂中に駐屯させました。謝石は謝安の弟です。

 

東晋の右衛将軍・毛安之等が四万の衆を率いて堂邑に駐屯しましたが、前秦の毛当と毛盛が騎兵二万を率いて堂邑を襲うと、毛安之等は驚潰(震撼・崩壊)しました。

 

東晋の兗州刺史・謝玄が広陵から三阿を救いに行きました。

丙子(二十五日)、俱難と彭超が敗戦し、退いて盱眙を守りました。

 

[十] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

六月、大旱に襲われました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

戊子(初七日)、東晋の謝玄と田洛が五万の衆を率いて盱眙に進攻しました。

俱難と彭超はまた敗れ、退いて淮陰に駐屯します。

 

謝玄が何謙等を派遣し、舟師を率いて潮に乗じて上らせました(原文「乗潮而上」。淮陰は盱眙よりも下流に位置するので、「潮に乗じて(淮水を)下らせた」とした方が分かりやすいと思われます。あるいは、「潮に乗じて北上させた」または「潮に乗じて攻め上がらせた(進攻させた)」という意味かもしれません)

夜、東晋軍が淮橋を焼きました(『資治通鑑』胡三省注によると、前秦は淮水に橋を造って兵を渡らせていました)

邵保は戦死し、俱難と彭超は退いて淮北に駐屯しました。

 

謝玄と何謙、戴𨔵、田洛が共に前秦軍を追撃し、君川で戦ってまた大破しました。

俱難と彭超は北に逃走して、その身一つでなんとか免れました(僅以身免)

『晋書・孝武帝紀』は「戊子(初七日)、征虜将軍・謝玄が超・難(彭超、俱難)と君川で戦い、これを大破した」と書いていますが、当時の征虜将軍は謝石のはずです(上述)。『晋書・列伝第四十九(謝玄伝)』を見ると、謝玄は兗州刺史になった時(東晋孝武帝太元二年・377年)、建武将軍に任命されています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

謝玄は広陵に還りました。

孝武帝が詔を発して謝玄の号を冠軍将軍に進め、領徐州刺史を加えました。

 

前秦天王(秦王・苻堅)は俱難等の敗戦を聞いて大いに怒りました。

秋七月、天王が檻車で彭超を召して廷尉に下そうとしましたが、彭超は自殺しました。

俱難は爵位を削られて庶民になりました。

 

天王は毛当を徐州刺史に任命して彭城を鎮守させ、毛盛を兗州刺史に任命して湖陸(『資治通鑑』胡三省注によると、湖陸は湖陵といいましたが、東漢章帝が改名しました。漢代の湖陸県は山陽郡に属しましたが、晋が山陽から分けて高平国に属させました)を鎮守させ、王顕を揚州刺史に任命して下邳を守らせました。

 

謝安が宰相になってから、秦人がしばしば入寇して辺兵が利を失いましたが、謝安は和静(友和・安静な態度)によって人々を鎮めました。また、謝安の為政は、務めて大綱(大要。重要なこと)を挙げて小察(小事に拘って精明を求めること)を為しませんでした。

そのため、時の人は謝安を王導と比し、しかもその文雅(風雅な姿)は王導を越えているとみなしました。

 

[十二] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月丁亥(初七日)、東晋が左将軍・王蘊を尚書僕射に任命し、間もなくして丹陽尹に遷しました。

しかし、王蘊は自分が国姻(帝王の姻戚、外戚。王蘊は王皇后の父です)なので、朝廷内にいることを願わず、苦心して外に出る許可を求めました。

そこで朝廷は、再び王蘊を都督浙江東五郡諸軍事・会稽内史に任命しました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。王蘊は以前、徐州を督しており、今回また浙東(浙江東)を督すことになりました)

 

[十三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

乙未(十五日)、暴風が吹き、沙石が舞い揚がりました。

 

[十四] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

九月、盗(賊)が東晋の建安太守・傅湛を殺しました。

 

[十五] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです(『資治通鑑』は採用していません)

冬十二月己酉朔(『二十史朔閏表』によると、この年十二月は「乙卯」が朔で、閏十二月の朔が「己酉」です。『晋書・天文志中』も「閏月己酉朔」としています)、日食がありました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

この年、前秦が大飢饉に襲われました(秦大饑)

 

 

次回に続きます。

東晋時代110 東晋孝武帝(九) 苻洛謀反 380年

東晋時代108 東晋孝武帝(七) 襄陽包囲 378年

今回は東晋孝武帝太元三年です。

 

東晋孝武帝太元三年 前秦天王建元十四年

戊申 378年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

春二月乙巳(十七日)、東晋が新宮の建築を開始しました。孝武帝は会稽王邸に移って起居することになりました。

 

[二] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

三月乙丑(初七日)、雷雨・暴風に襲われ、家屋が飛ばされて木が倒れました(雷雨暴風,発屋折木)

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が征南大将軍・都督征討諸軍事・守尚書令・長楽公・苻丕と武衛将軍・苟萇、尚書・慕容暐を派遣し、歩騎七万を率いて襄陽に侵攻させました。

更に、荊州刺史・楊安に樊鄧(春秋時代に樊国と鄧国があった地域)の衆を率いて前鋒とさせ、征虜将軍・始平の人・石越に精騎一万を率いて魯陽関(『資治通鑑』胡三省注によると、南陽郡の魯陽県に魯陽関がありました)から出させ、京兆尹・慕容垂と揚武将軍・姚萇に衆五万を率いて南郷から出させ、領軍将軍・苟池、右将軍・毛当、強弩将軍・王顕に衆四万を率いて武当から出させ、それぞれ合流して襄陽を攻撃させました。

 

夏四月、秦兵が沔北に至りました。

東晋の梁州刺史・朱序は、前秦に舟檝(船舶)がないため、備えを設けていませんでした(不以為虞)

しかし暫くして石越が騎兵五千を率いて漢水を渡りました(浮渡漢水)

朱序は惶駭(恐惶、驚愕)して中城(内城)の守りを固めます。

 

石越が外郭(外城)を攻略し、船百余艘を獲て残りの兵を渡らせました。

(全軍が漢水を渡ってから)長楽公・苻丕が諸将を監督して中城の攻撃を開始します。

 

朱序の母・韓氏は秦兵がもうすぐ至ると聞いて、自ら城壁に登って履行(巡行、巡視)しました。西北の隅(角)に来た時、堅固ではないと判断して、婢(女僕)と城中の女丁(成人女性)合わせて百余人を率いて内側に邪城(恐らく直角な城壁の内側に斜めに造られた城壁です)を築きます。

秦兵が至ると、果たして西北の隅が潰えましたが、衆人は新城(邪城)に移って守りました。襄陽の人はこれを「夫人城」と呼びました。

 

桓沖は上明で七万の衆を擁していましたが、秦兵の強盛を恐れて、敢えて前に進むことができませんでした。

 

苻丕が襄陽を急攻しようとしましたが、苟萇がこう言いました「我々の衆は敵の十倍もおり、糗糧(干糧、食糧)も山積みになっているので、徐々に漢・沔の民を許・洛に遷し、その運道(輸送路)を塞ぎ、援兵を絶つだけで、(彼等は)網の中の禽獣のようになります(譬如網中之禽)。なぜ(これを)獲られないことを患いて、多くの将士を殺し、急いで成功を求める必要があるのでしょう(何患不獲而多殺将士,急求成功哉)。」

苻丕はこの意見に従いました。

 

慕容垂が南陽を攻略して太守・鄭裔を捕え、襄陽で苻丕と会しました。

 

[四] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

夏五月庚午(十三日)、陳留王・曹恢(魏帝の子孫です。東晋哀帝興寧元年・363年参照)が死にました。

 

[五] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

六月、大水(洪水)がありました。

 

[六] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月、東晋の新宮が完成しました。

辛巳(二十五日)、孝武帝が新宮に入って居住しました。

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

乙酉(二十九日)、老人星(前年参照)が南方に現れました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

前秦の兗州刺史・彭超が彭城の沛郡太守・戴𨔵を攻撃する許可を求め、併せてこう言いました「更に重将(大将)を派遣して淮南諸城を攻めさせ、征南(征南大将軍・苻丕。襄陽を攻撃しています)と棊劫の勢を為すことを願います(原文「願更遣重将攻淮南諸城,為征南棊劫之勢」。『資治通鑑』胡三省注によると、「棊劫」は囲碁の戦術の一つです。囲碁の勝負で、相手の右を攻めて敵が応じたら、左を攻めて取ることを「劫」といいます)。東西が並進すれば、丹陽の平定も難しくありません(原文「丹陽不足平也」。『資治通鑑』胡三省注によると、晋都・建康は漢代の丹陽秣陵県の地に当たります)。」

天王(秦王・苻堅)はこの意見に従い、彭超を都督東討諸軍事に任命しました。更に後将軍・俱難(俱が姓です)、右禁将軍・毛盛、洛州刺史・邵保が歩騎七万を率いて淮陽と盱眙を侵します。

彭超は彭越の弟、邵保は邵羌の従弟です(彭越、邵羌とも東晋廃帝太和二年・367年参照)

『資治通鑑』胡三省注によると、本来、洛州刺史は洛陽を治所としていましたが、後に北海公・苻重が豫州刺史として洛陽を鎮守し、平原公・苻暉が豫州牧として洛陽を鎮守することになったため、洛州刺史の治所は豊陽に遷されます(二年後の太元五年・380年に洛州刺史の治所が豊陽に遷されます

「淮陽と盱眙」は、『晋書・載記第十三』では「淮陰と盱眙」としており、胡三省注は『晋書』が正しいと指摘しています。西漢時代は淮陰、盱眙とも臨淮郡に属しましたが、東漢と晋の淮陰は広陵に属しました。

 

本文に戻ります。

八月、彭超が彭城を攻めました。

 

東晋孝武帝が詔を発し、秦兵を防ぐために、右将軍・毛虎生に五万の衆を率いて姑孰を鎮守させました。

 

前秦の梁州刺史・韋鍾が西城(魏興郡に属す県です)で魏興太守・吉挹を包囲しました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

九月、前秦天王(秦王・苻堅)が群臣と飲酒し、祕書監・朱肜を正(『資治通鑑』胡三省注によると、この「正」は「酒正」を指します。酒宴を管理する官です)に任命して、群臣が泥酔するまで飲ませようとしました(人以極酔為限)

すると、祕書侍郎・趙整が『酒徳の歌』を作ってこう言いました「地には酒泉が並び、天は酒旗(『資治通鑑』の原文は「酒池」ですが、胡三省注が「酒旗」に訂正しています。「酒旗」は星座名です)を垂らす。杜康(古代の酒造の名人)は妙識(見識が深いこと、精通していること)で、儀狄(夏代、禹に仕えたの酒造の名人)は先知した(後世において、酒が原因で国や身を亡ぼす者が現れることになると予言した)(酒が原因で)紂は殷邦(殷国)を喪い、桀は夏国を傾けた。これを元に言うなら、前人の危難とは後人の教訓である(地列酒泉,天垂酒池。杜康妙識,儀狄先知。紂喪殷邦,桀傾夏国。由此言之,前危後則)。」

天王は大いに悦んで趙整にこれを書き留めるように命じ、酒戒としました。

この後、天王が群臣と宴を開いても、礼飲するだけになりました。

『資治通鑑』胡三省注によると、礼においては、臣下が主君の宴に侍っても、三爵(三杯)を越えてはならないと決められていました(礼,臣侍君宴不過三爵)。これが「礼飲」です。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

前秦の涼州刺史・梁熙が使者を派遣して西域に入らせ、前秦の威徳を顕揚しました。

冬十月、大宛が前秦に汗血馬を献上しました。

しかし前秦天王(秦王・苻堅)は「私はかねてから漢文帝の為人を慕っていた。千里の馬を使って何をするのだ(かつて西漢文帝は千里の馬を退けました。西漢文帝前元年・前179年参照。原文「吾嘗慕漢文帝之為人,用千里馬何為)」と言い、群臣に命じて『止馬之詩』を作らせ、馬を返しました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

巴西の人・趙寶が涼州(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「梁州」としています。趙寶は巴西の人で、巴郡太守を名乗るので、「梁州」が正しいようです)で挙兵し、自ら晋の西蛮校尉・巴郡太守を称しました。

『資治通鑑』胡三省注は「史書は蜀人が晋を思っていたことを語っている」と解説しています。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

前秦の豫州刺史・北海公・苻重が洛陽を鎮守していましたが、背反を謀りました。

 

前秦天王(秦王・苻堅)が言いました「長史・呂光は忠正なので、彼と一緒になるはずがない(必不与之同)。」

そこで天王は呂光に命じて苻重を逮捕させ、檻車で長安に送らせましたが、苻重を釈放して公の身分のまま家に帰らせました(以公就第)。苻重は苻洛(行唐公)の兄です。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

十二月、前秦の御史中丞・李柔が苻丕等を弾劾する上奏を行いました「長楽公・丕等は衆十万を擁して小城を攻囲(包囲攻撃)し、日に万金を費やしながら、久しく效(効果。成果)がありません。(彼等を)召して廷尉に下すことを請います(請徵下廷尉)。」

天王(秦王・苻堅)が言いました「丕等は大いに浪費しながら成果がないので、実に貶戮(処罰)されるべきだ(広費無成,実宜貶戮)。しかし、出師して既に時が経つので、功績なく還らせるわけにもいかない(但師已淹時,不可虚返)。よって、特別に彼等を赦し、功を成すことで贖罪とさせる(其特原之,令成功贖罪)。」

 

また、黄門侍郎・韋華を派遣し、符節を持って苻丕等を厳しく譴責させ(持節切譲丕等)、苻丕に剣を下賜してこう告げました「来春になっても勝てなかったら、汝は自裁せよ。再びその面をもって私に会う必要はない(来春不捷,汝可自裁,勿復持面見吾也)。」

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

周虓は前秦にいましたが(東晋孝武帝寧康元年・373年参照)、秘かに桓沖に書を送って秦の陰計を伝え、更に逃亡して漢中に奔りました。

秦人が周虓を獲ましたが、赦しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代109 東晋孝武帝(八) 謝玄の反撃 379年

東晋時代107 東晋孝武帝(六) 郗超 377年

今回は東晋孝武帝太元二年です。

 

東晋孝武帝太元二年/前秦天王建元十三年

丁丑 377年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

春正月、東晋が絶世(禄位が断たれた世家)を恢復して功臣の子孫に家を継がせました(継絶世,紹功臣)

 

[二] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月、東晋の桓豁が上表し、兗州刺史・朱序を南中郎将・梁州刺史・監沔中諸軍に任命して、襄陽を鎮守させました。

 

[三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

閏月壬午(『二十史朔閏表』によると、閏三月十九日です)、地震がありました。

甲申(二十一日)、暴風が吹き、木が倒れて家屋が飛ばされました(折木発屋)

 

[四] 『資治通鑑』からです。

この春、高句麗、新羅、西南夷がそれぞれ使者を派遣して前秦に入貢しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、新羅は弁韓の苗裔、または辰韓の種(族)で、三国・魏の時代に新盧国(または「斬新盧」)になり、晋・宋の時代に新羅と呼ばれました。胡三省注が新羅の位置について解説していますが、省略します。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

かつて趙で将作功曹だった熊邈がしばしば前秦天王(秦王・苻堅)に石氏(後趙)の宮室・器玩の盛(宮室や器物・玩具が盛大豪華な様子)について語りました。

天王は熊邈を将作長史に任命して将作丞を兼任させ(原文「以邈為将作長史,領将作丞」。『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「将作丞」を「尚方丞」としています。晋代の将作大匠は、丞はいましたが長史はいませんでした。この「将作長史」は前秦が置いたようです)、舟艦や兵器を大いに建造・修繕させました。それらのものは金銀で飾られて頗る精巧を極めます。

 

慕容農が秘かに慕容垂に言いました「王猛が死んでから、秦の法制は日に日に頽靡(頽廃・荒廃)しています。今、またこれに奢侈を重ねたので、間もなく殃(禍)が至るでしょう。図讖の言(慕容垂が燕を復興させるという予言)に験(効果、応験)があるはずです(図讖之言,行当有験)。大王は英傑を受け入れて交わりを結ぶことによって、天意を受け入れるべきです。時を失ってはなりません(大王宜結納英傑以承天意,時不可失)。」

慕容垂は笑って「天下の事とは、汝に及べるものではない(天下事非爾所及)」と言いました。

 

[六] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

夏四月己酉(十六日)、雹が降りました(雨雹)

五月丁丑(十四日)、地震がありました。

六月己巳(『二十史朔閏表』によると、この年六月の朔は「癸巳」なので、「己巳」はありません)、暴風が吹いて沙石が舞いあがりました。

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

林邑が東晋に方物(地方の産物)を貢納しました。

 

[八] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

秋七月乙卯(『二十史朔閏表』によると、この年七月の朔は「癸亥」なので、「乙卯」はありません)、老人星(寿星。長寿の象徴です)が現れました。

 

[九] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

八月壬辰(初一日)、東晋の車騎将軍・桓沖が来朝(入朝)しました。

 

[十] 『晋書・第九・孝武帝紀』と 『資治通鑑』からです。

丁未(十六日。『資治通鑑』は「秋七月丁未」としていますが、『晋書・孝武帝紀』では八月に入っています。ここは『晋書』に従いました。下の「丙辰」も同じです)、東晋が尚書僕射・謝安を司徒に任命しましたが、謝安は謙譲して拝命しませんでした。朝廷は改めて謝安に侍中・都督揚豫徐兗青五州諸軍事を加えました。

 

丙辰(二十五日)、征西大将軍・荊州刺史・桓豁(『資治通鑑』では「征西大将軍・荊州刺史・桓豁」、『晋書・孝武帝紀』では「使持節・都督荊梁寧益交広六州諸軍事・荊州刺史・征西大将軍・桓豁」です)が死にました。

 

冬十月辛丑(十一日)、車騎将軍・桓沖を都督江荊梁益寧交広七州諸軍事・領荊州刺史(『資治通鑑』では「都督江荊梁益寧交広七州諸軍事・領荊州刺史」、『晋書・孝武帝紀』では「都督荊江梁益寧交広七州諸軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史」です)に、桓沖の子・桓嗣を江州刺史に任命しました。

また、五兵尚書・王蘊を都督江南諸軍事・領徐州刺史(『資治通鑑』では「都督江南諸軍事・領徐州刺史」、『晋書・孝武帝紀』では「徐州刺史・督江南晋陵諸軍」です。『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の「江南諸軍」は「晋陵諸軍」を意味するので、『晋書・孝武帝紀』の「江南晋陵諸軍」は「江南の晋陵諸軍」と読むようです)に、征西司馬・領南郡相・謝玄(『資治通鑑』胡三省注によると、桓豁が征西将軍になった時、謝玄を司馬にしました)を兗州刺史・領広陵相・監江北諸軍事(『資治通鑑』では「兗州刺史・領広陵相・監江北諸軍事」、『晋書・第九・孝武帝紀』では「兗州刺史・広陵相・監江北諸軍」です)に任命しました。

 

桓沖は秦人が強盛だったので江南に遷って防備しようと欲し、上奏して鎮を江陵から上明(江南の地名です。『資治通鑑』胡三省注によると、桓沖は上明城を築きました。胡三省注が「上明」について詳しく解説していますが、省略します)に遷しました。冠軍将軍・劉波に江陵を守らせ、諮議参軍・楊亮に江夏を守らせます。

 

王蘊は徐州刺史の職を頑なに辞退しましたが、謝安が「卿は后父の重(皇后の父という重要な地位)に居るので、妄りに自分を貶めて、時遇(時代の恩遇)を損なうべきではない(不応妄自菲薄以虧時遇)」と言ったため、やっと命を受け入れました。

 

中書郎・郗超は父・郗愔の位遇(地位・待遇)が謝安の右(上)にあるべきだと考えていましたが、謝安が入朝して機権(中枢の大権)を掌握したのに対し、郗愔は散地で優遊とすることになったため(重要ではない地位で悠々と過ごすことになったため。『資治通鑑』胡三省注によると、郗愔が徐兗二州刺史から会稽に遷されたことを指します。東晋廃帝太和四年・369年参照)、常に憤邑(憤懣鬱憤)を辞色(言葉や表情)に表していました。こうして謝氏との間に対立が生まれるようになります。

 

当時、朝廷は秦寇を憂いとしていたため、孝武帝が詔を発して、文武の良将で北方を鎮禦できる者を求めました。

謝安は兄の子・謝玄を挙げて詔に応じさせました。

それを聞いた郗超は嘆息してこう言いました「謝安の明(賢明、明才)があるからこそ、衆人に違えて親族を挙げることができた(常人なら敢えて親族を推挙しようとはしないが、謝安には明才があり、その明才によって謝玄を見込んだから、親族でも推挙した)。謝玄の才は(謝安に見込まれたのだから)推挙の期待を裏切ることがないだろう(安之明乃能違衆挙親。玄之才足以不負所挙)。」

衆人は皆、そう思いませんでしたが、郗超はこう言いました「私はかつて謝玄と共に桓公府にいたことがある(桓公は桓温です。東晋哀帝興寧元年・363年参照)。その使才(才能を発揮する姿)を見たところ、履屐の間の事(「履屐」は靴です。「履屐間」は些細な事を意味します)でも、その任をおろそかにすることがなかった。だから(私には)分かるのだ(見其使才,雖履屐間未嘗不得其任,是以知之)。」

 

謝玄は驍勇の士を募り、彭城の人・劉牢之等、数人を得ました。

そこで、劉牢之を参軍に任命し、常に精鋭を統領して前鋒にさせました。その結果、戦えば勝てないことがなく、時の人は謝玄の軍を「北府兵」と号し、敵人がこれを畏れました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。謝玄は二年後の孝武帝太元二年(379年)に俱難等を破って徐州刺史を兼任することになり、その兵が「北府兵」と称されます。晋代の北府は京口を指します。『資治通鑑』はここで謝玄について書いているので、併せて「北府兵」にも触れていますが、実際に「北府兵」として畏れられるのは後の事です。

 

[十一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

壬寅(十二日)、東晋の護軍将軍・散騎常侍・王彪之(『資治通鑑』では「護軍将軍・散騎常侍・王彪之」、『晋書・孝武帝紀』では「散騎常侍・左光禄大夫・尚書令・王彪之」です)が死にました。

 

以前、謝安が宮室を増築しようとしましたが、王彪之がこう言いました「中興の初めは東府を宮とし、ことさら倹陋でした(殊為倹陋)(後に)蘇峻の乱に際して、成帝が蘭台の都坐に留まり、寒暑を防ぐこともほとんどできなかったので、やっと改めて新宮を築営しました(殆不蔽寒暑,是以更営)(こうして造られた新宮は)漢・魏と比べたら倹素でしたが、江(長江)を渡ったばかりの頃よりは奢侈でした(比之漢魏則為倹,比之初過江則為侈矣)。今、寇敵がまさに強盛なのに、どうして功役(労役)を大いに興して、百姓を労擾(労苦)させることができるでしょう(今寇敵方強,豈可大興功役,労擾百姓邪)。」

『資治通鑑』胡三省注によると、「東府」は建康台城の東にありました。「蘭台」は御史台、「都坐」は官員が討議する場所です。

 

謝安が言いました「宮室が弊陋(古くて粗末なこと)だったら、後人が人(我々)を無能とみなすだろう(宮室弊陋,後人謂人無能)。」

王彪之が言いました「天下の重責を担う者とは、皆、国を保全して家を安寧にし、政事を光り輝かせるものです。なぜ室屋を修築することを有能とみなすのですか(凡任天下之重者,当保国寧家,緝熙政事,乃以脩室屋為能邪)。」

謝安は王彪之の意見を変えさせることができなかったため(不能奪其議)、王彪之が生きている間は、営造(築営・建造)することがありませんでした。

 

[十二] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

十二月庚寅(初一日)、東晋が尚書・王劭を尚書僕射に任命しました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

東晋の臨海太守・郗超(『資治通鑑』胡三省注によると、臨海は会稽東部都尉が治めていましたが、呉の孫亮(廃帝)が郡にしました)が死にました。

 

かつて郗超は桓氏(桓温)の党羽になりましたが、父の郗愔が王室に対して忠心を抱いていたため、父に知られないようにしていました。

郗超は自分の病がひどくなると、一箱の書を取り出して門生に授け、こう言いました「公(父)は年尊(高齢)だ。私が死んだ後、もし哀惋(悲傷・悲痛)によって寝食が害されるようなら、この箱を献上せよ。そうならないようなら焼き棄てよ(公年尊,我死之後,若以哀惋害寝食者,可呈此箱。不爾,即焚之)。」

郗超の死後、果たして郗愔は哀惋によって病を患いました。

そこで門生が箱を献上しました。全て桓温との間でやりとりされた密計に関する内容です。

郗愔は大いに怒って「小子め、死ぬのが晩すぎたくらいだ(小子,死已晚矣)」と言い、二度と哀哭しなくなりました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代108 東晋孝武帝(七) 襄陽包囲 378年

東晋時代106 東晋孝武帝(五) 拓跋氏の内争 376年(2)

今回で東晋孝武帝太元元年が終わります。

 

[十二] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

冬十月、東晋が淮北の民(『資治通鑑』では「淮北の民」、『晋書・孝武帝紀』では「淮北の流人(流民)」です)を淮南に遷しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、前秦を畏れたため、民を遷しました

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

劉衛辰が代に逼迫されたため、前秦に救援を求めました。

前秦天王(秦王・苻堅)は幽州刺史・行唐公・苻洛を北討大都督に任命し、幽・冀の兵十万を率いて代を撃たせました。

また、并州刺史・俱難、鎮軍将軍・鄧羌、尚書・趙遷、李柔、前将軍・朱肜、前禁将軍・張蚝、右禁将軍・郭慶に歩騎二十万を率いさせ、東は和龍から出させ、西は上郡から出させ、皆、苻洛と合流させました。劉衛辰を郷導(先導)にします。

苻洛は苻菁(東晋穆帝時代参照)の弟です。

 

苟萇が涼州を伐った時、揚武将軍・馬暉と建武将軍・杜周を派遣し、張天錫を走路(退路)で邀撃させるために八千騎を率いて西の恩宿から出させ、期日を決めて姑臧で合流することにしました。

ところが、馬暉等は沢の中を行軍している時に、ちょうど大水に遭ったため、期日に間に合いませんでした(値水失期)。法に基づけば斬首に当たるので、有司(官員)が馬暉等を召して獄に下すように上奏します。

しかし天王はこう言いました「水とは春冬に耗竭(枯渇)して秋夏に盛漲(膨脹)するものだ。これは苟萇の量事(計算、計画)が宜(道理)を失ったのであって、馬暉等の罪ではない。(それに)今、天下はまさに有事なので、過失に対しては寛大に対処して、(彼等に)功績を立てさせるべきだ(宜宥過責功)。」

こうして天王は馬暉等に引き返して北軍に赴くように命じ、索虜(『資治通鑑』胡三省注によると、代は本来、鮮卑の索頭種なので、索虜と呼ばれました)を撃つことで自ら贖罪させました。

衆人は皆、万里から将を招いたら迅速に応じることができないと考えましたが、天王はこう言いました「馬暉等は死から免れられることを喜んでいる(喜於免死)。常事(常識)を用いて疑ってはならない(不可以常事疑也)。」

果たして、馬暉等は二倍の速度で疾駆し(倍道疾駆)、東軍に追いつきました。

 

[十四] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

十一月己巳朔(『晋書・孝武帝紀』『資治通鑑』とも「十一月己巳朔」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年十一月の朔は「丁酉」です)、日食がありました。

孝武帝が太官に詔を発して御膳を少なくさせました(徹膳)

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋什翼犍が白部と独孤部を南下させて前秦の兵を防ごうとしましたが、どちらも勝てませんでした(『資治通鑑』胡三省注によると、白部は鮮卑に属します。東漢時代、鮮卑の中で白山に住む者が最も強盛になり、白部と呼ばれるようになりました。独孤部に関しては、魏氏(拓跋氏。後に北魏を開くので、魏氏といいます)の初期に三十六部があり、その中で伏留屯という者が魏と共に興起して部落の大人となり、独孤部を形成しました)

拓跋什翼犍は改めて南部大人・劉庫仁を送り、十万騎を率いて前秦を防がせました。しかし、劉庫仁は秦兵と石子嶺(『資治通鑑』胡三省注によると、石子嶺は雲中盛楽の西南に位置します)で戦って大敗しました。

劉庫仁は劉衛辰と同族で、什翼犍の甥にあたります。

 

什翼犍は病を患っており、自ら兵を指揮することができなかったため、諸部を率いて陰山の北に奔りました。

ところが、高車(東晋哀帝興寧元年・363年参照)の雑種(各部族)がことごとく叛して四面から寇鈔(侵犯略奪)しました。

什翼犍は芻牧(放牧)ができなくなり、更に漠南に移動しました。

十二月、什翼犍は秦兵が徐々に退いたと聞いて、雲中に還りました。

 

以前、什翼犍は国の半分を分けて弟の拓跋孤に授けました(東晋成帝咸康四年・338年参照)

拓跋孤の死後、子の拓跋斤は失職したため怨望(怨恨)を抱いていました(『資治通鑑』胡三省注によると、拓跋斤は拓跋孤が授かった領地を継承できなかったため、什翼犍を怨みました)

 

当時、什翼犍の世子・拓跋寔(東晋廃帝太和六年・371年参照)とその弟・拓跋翰は早くに死に、拓跋寔の子・拓跋珪はまだ幼く、慕容妃(『資治通鑑』胡三省注によると、東晋康帝建元二年・344年に前燕から娶った女性です)の子・閼婆、寿鳩、紇根、地干、力真、窟咄は皆、成長していましたが、継嗣(後継者)がまだ決まっていませんでした。

 

この時、秦兵がまだ君子津(『資治通鑑』胡三省注によると、河水(黄河)が南に流れて雲中楨陵県の西北に入り、また南に流れて赤城の東を通り、定襄桐過県の西を通りました。河水は二県の間を流れ、その津(渡口)に「君子」の名がありました。かつて東漢桓帝が西の楡中を行幸し、東に向かって代の地を行幸した時、洛陽の大賈(大商人)が金貨を携えて桓帝の後に従いました。夜、賈人が道に迷って津長を頼りました。この津長を子封といいます。子封は賈人を送って渡河させましたが、賈人が突然死んでしまったため埋葬しました。賈人の子が父の喪(霊柩)を求めて、墓を発掘して屍を取り出したところ、資貨(資財、金銭)が一切損なわれていませんでした。そこで、子が金銭を全て津長に与えようとしましたが、津長は受け取りませんでした。この事を聞いた帝が「君子だ」と言ったため、この津は「君子津」と命名されました)にいたため、諸子が毎晩、武器を持って警衛していました。

 

拓跋斤がこれを機に什翼犍の庶長子・拓跋寔君を説得してこう言いました「王は慕容妃の子を立てようとしており、先に汝を殺そうと欲しています。だから最近、諸子が每夜、戎服(軍服)を着て、兵を率いて廬帳(帳幕の住居)を囲んでいるのです(故頃来諸子每夜戎服以兵遶廬帳)。便を伺ってもうすぐ行動するでしょう(伺便将発耳)。」

拓跋寔君はこれを信じて諸弟を殺し、併せて什翼犍も弑殺しました。『魏書・卷一・序紀』によると、什翼犍は五十七歳でした。

 

尚、『晋書・第九・孝武帝紀』は「十二月、苻堅がその将・苻洛に代を攻めさせ、代王・渉翼犍(什翼犍)を捕えた」と書いています。

しかし、『魏書・卷一・序紀』は「十二月、(什翼犍が)雲中に至り、十二日後に死んだ(旬有二日帝崩)」と書いており、『魏書・昭成子孫列伝(列伝第三)』にも「寔君が(略)その属を率いて諸皇子を全て害した。昭成(什翼犍)も暴崩(突然死)した」とあるので、什翼犍は前秦に捕えられたのではなく、死亡したようです。

 

『資治通鑑』に戻ります。

什翼犍が死んだ夜、諸子の婦人および部人が秦軍に奔って内情を報告しました。

前秦の李柔と張蚝が兵を率いて雲中に向かうと、拓跋氏の部衆は逃走潰滅しました。国中が大乱に陥ります。

拓跋珪の母・賈氏は拓跋珪を連れて逃走し、賀訥を頼りました。賀訥は賀野干(東晋廃帝太和六年・371年参照)の子です。

 

前秦天王(秦王・苻堅)が代の長史・燕鳳を召して乱をもたらした原因を問いました。

燕鳳が答えて詳しく状況を述べると、天王は「天下の悪は一つである(天下が憎む者は共通している。原文「天下之悪一也」)」と言って拓跋寔君と拓跋斤を捕えさせ、長安に至ってから車裂に処しました。

 

天王が拓跋珪を長安に遷そうとしました。しかし燕鳳が頑なにこう請いました「代王は亡んだばかりで、群下が叛散(離反・四散)して、遺孫(残された孫)も沖幼(幼少)なので、統摂(統轄、統領)する者がいません。別部の大人・劉庫仁は勇猛で智略もあり(勇而有智)、鉄弗の衛辰は狡猾多変なので(『資治通鑑』胡三省注によると、劉衛辰は匈奴の鉄弗種(族)に属しました。鉄弗は南単于の苗裔で、劉衛辰は左賢王・去卑の玄孫に当たります。北人は父が胡(匈奴)、母が鮮卑の者を鉄弗とよんだため、それが氏になりました)、どちらかの一人に任せるべきではありません(皆不可独任)。諸部を二つに分けて、この両人に統領させるべきです。両人は元から深讎があるので、今の形勢では、どちらも敢えて先に発しようとはしないでしょう(互いに牽制しあうので、どちらも前秦に対して兵を用いることができない、という意味だと思います。原文「両人素有深讎,其勢莫敢先発」)。その孫(拓跋氏の孫。拓跋珪)がもう少し長じるのを待って、招いてこれを立てれば、陛下は代に対して存亡継絶の徳(亡んだ国を復興させて、絶たれた家系を継続させた徳)ができ、その子子孫孫を永く不侵不叛の臣とすることができます。これが安辺の良策(辺境を安定させる良策)です。」

天王はこの意見に従い、代の民を二部に分けました。河から東は劉庫仁に属させ、河から西は劉衛辰に属させ、それぞれに官爵を与えてその衆を統率させます。

 

賀氏は拓跋珪を連れて独孤部に帰附し、南部大人・長孫嵩(『資治通鑑』胡三省注によると、かつて拓跋鬱律が二子を生み、長子は沙莫雄といいました。次子が什翼犍です。沙莫雄は南部大人となり、後に名を仁に改め、拔拔氏と号しました。拔拔仁の子が嵩です。北魏建国後、嵩は宗室の長という立場だったので、道武帝(拓跋珪)が、長孫氏に改めました。尚、長孫氏の由来は諸説があり、今回の胡三省の解説は以前紹介した内容と少し異なります。東晋康帝建元二年・344年参照)、元佗等と共にそろって劉庫仁を頼りました。

 

拓跋什翼犍の子・窟咄は既に年長だったので、行唐公・苻洛が窟咄を長安に遷しました。

天王は窟咄を太学に入れて読書させました。

 

天王が詔を下しました「張天錫は祖父の資(資本、業績)を継承し、百年の業(功業)を借りて、勝手に河右に命を発し、偏隅(辺鄙な地域)で叛換(叛乱跋扈)した(張天錫承祖父之資,藉百年之業,擅命河右叛換偏隅)。索頭(拓跋氏)は代々朔北を跨いで領有し、中(前秦国内)では区域(領土)を分裂させ、東は穢貊(濊貊)を迎え入れ、西は烏孫を招き、控弦(戦士)は百万を数えて雲中で虎視した(索頭世跨朔北,中分区域,東賓穢貊,西引烏孫,控弦百万,虎視雲中)。そこで、両師(苟萇と苻洛の軍です)に命じ、分かれて黠虜(狡猾な賊)を討たせたところ、役が歳を満たすことなく、二凶を徹底的に殲滅して、俘降(捕虜や投降した者)は百万に上り、開いた土地は九千(恐らく「九千里」です)に及んだ(爰命両師,分討黠虜,役不淹歳,窮殄二兇,俘降百万,闢土九千)。五帝でも接したことがなく、周・漢でも至らなかったような地においても、通訳を重ねて天子に朝見しない者はなく、風気に懐いて職責を尽くしている(遥か遠くから通訳を重ねて朝貢に来ている。原文「五帝之所未賓,周漢之所未至,莫不重訳来王,懐風率職」)。有司(官員)は速やかに功績の序列に従って爵位を授けよ(有司可速班功受爵)。戎士(将士)は全て五年の賦役を免除し、爵位三級を下賜する(戎士悉復之五歳,賜爵三級)。」

天王は行唐公・苻洛に征西将軍を加え、鄧羌を并州刺史に任命しました。

 

陽平国常侍・慕容紹が秘かに兄の慕容楷に言いました「秦はその強大な力に頼り、勝利を追究して休むことがありません。北は雲中を守り、南は蜀・漢を守り、転運(物資の輸送)が万里に及び、道殣(道中で餓死した者)が望みあい、兵は外で疲弊し、民は内で困窮しています。危亡は近いでしょう(秦恃其強大,務勝不休,北戍雲中,南守蜀漢,転運万里,道殣相望,兵疲於外,民困於内,危亡近矣)。冠軍叔仁(慕容垂を指します。『資治通鑑』胡三省注が「叔仁」は「叔父」とすべきだ、と指摘しています。慕容垂は慕容楷と慕容紹の叔父に当たり、冠軍将軍に任命されました)は智度(智略と度量)が傑出しているので、必ず燕祚(燕の国統)を恢復することができます(冠軍叔仁智度英抜,必能恢復燕祚)。我々はただこの身を愛して(この身を大切にして)時を待つだけです(吾属但当愛身以待時耳)。」

 

以前、秦人が涼州を攻略してから、西障(西辺)の氐・羌討伐について商議しましたが、天王はこう言いました「彼等種落(部落)は雑居しており、互いに統一していないので、中国の大患にはなれない。まずは撫諭(宣撫・慰諭)してその租税を徴収し、もし命に従わなかったら、その後にこれを討つべきだ。」

天王は殿中将軍・張旬を派遣し、西に進んで宣慰させました。庭中将軍・魏曷飛にも騎兵二万七千を率いて後に従わせます(『資治通鑑』胡三省注によると、庭中将軍は前秦が置きました。武器を持って殿庭の中に立つ者(立仗殿庭中者)という意味のようです)

ところが、氐・羌が険阻な地に頼って帰服しなかったため、魏曷飛は憤慨して兵を放ち、氐・羌を撃って大掠(大略奪)してから帰りました。

天王は魏曷飛が命に違えたことに怒って鞭で二百回打ち、前鋒督護・儲安を斬って氐・羌に謝りました。

氐・羌は大いに悦び、降附・貢献した者が八万三千余落(戸)に上りました。

 

雍州の士族で、これ以前に禍乱のため河西に流寓(流亡・移住)していた者がいましたが、天王は全て故郷に還ることを許可しました。

 

劉庫仁は離散した者(代の民)を招撫して恩信を甚だ顕著にし、拓跋珪に奉事して恩勤周備(恩愛があって勤勉かつ周到なこと)で、廃興(拓跋氏が滅んで劉庫仁が諸部を任されたこと)によって意を変えることもなく、常に諸子にこう言っていました「この子(拓跋珪)には天下を覆う志があるので(此児有高天下之志)、必ず祖業を恢隆(恢復・興隆)させることができる。汝等は謹んで彼を遇せ(汝曹当謹遇之)。」

天王は劉庫仁の功を賞して広武将軍を加え、幢麾(旗の一種)・鼓蓋(戦鼓と車蓋)を与えました。

 

すると劉衛辰が劉庫仁の下にいることを恥じとして憤怒し、前秦の五原太守(『資治通鑑』胡三省注によると、五原は漢代の郡で、魏・晋は廃しましたが、前秦がまた郡を置きました。隋・唐は豊・鹽二州にします)を殺して叛しました。

しかし劉庫仁が劉衛辰を撃って破り、陰山の西北千余里まで追撃してその妻子を獲ました。

また、劉庫仁は西に向かって庫狄部を撃ち、その部落を遷して桑乾川に置きました(『資治通鑑』胡三省注によると、かつて拓跋力微が南諸部に駐留し、そこに庫狄部がいました。後に狄氏に改めます。桑乾県は、漢代は代郡に属しましたが、晋代になって廃されました。拓跋魏(北魏)が後に桑乾郡を置きます。唐代は朔州善陽県界内に属します)

 

久しくして、天王が劉衛辰を西単于に任命し、河西の雑類(諸族)を督摂(監督統治)して代来城(『資治通鑑』胡三省注によると、代来城は北河の西にありました。「代から来た者が住む城」という意味で、前秦が劉衛辰を住ませるために築いたようです)に駐屯させました

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

この年、乞伏司繁(南単于。東晋簡文帝咸安元年・371年参照)が死んで子の国仁が立ちました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代107 東晋孝武帝(六) 郗超 377年

東晋時代105 東晋孝武帝(四) 前涼滅亡 376年(1)

今回は東晋孝武帝太元元年です。二回に分けます。

 

東晋孝武帝太元元年

前涼沖王太清十四年/前秦天王建元十二年

丙子 376年

 

[一] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月壬寅朔、東晋孝武帝が元服して、太廟を参拝しました。孝武帝はこの時十五歳です。

皇太后(褚氏)が詔を下して政権を返還し、再び崇徳太后と称しました。

 

甲辰(初三日)、大赦して太元元年に改元しました。

丙午(初五日)、孝武帝が始めて臨朝しました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

東晋が会稽内史・郗愔を鎮軍大将軍・都督浙江東五郡諸軍事(『資治通鑑』胡三省注によると、浙江東五郡は会稽、東陽、臨海、永嘉、新安を指します)に任命しました。

 

謝安は王蘊(王皇后の父)を方伯(地方の長)にさせたいと欲していたので、まず桓沖から徐州刺史の任を解くことにしました。そこで、徐州刺史・桓沖を車騎将軍・都督豫江二州之六郡諸軍事(豫州の歴陽、淮南、廬江、安豊、襄城および江州の尋陽、合わせて六郡です)に任命し、京口から戻って姑孰を鎮守させました。

 

乙卯(十四日)、朝廷が謝安に中書監・録尚書事を加えました。

 

『晋書・第九・孝武帝紀』は丙午(初五日)に孝武帝が臨朝した後、「征西将軍・桓豁を征西大将軍に、領軍将軍・郗愔を鎮軍大将軍に、中軍将軍・桓沖を車騎将軍に任命し、尚書僕射・謝安に中書監・録尚書事を加えた」と書いています。

このうち郗愔に関しては、『晋書・列伝第三十七(郗愔伝)』を見ると、「領軍将軍」ではなく「冠軍将軍」から「鎮軍(大将軍)」を加えられています。

また、桓沖の将軍号は、『晋書・孝武帝紀』では前年に「中軍将軍・揚州刺史・桓沖を鎮北将軍・徐州刺史にした」と書いているのに、本年また「中軍将軍・桓沖を車騎将軍に任命した」と書いています。『晋書・列伝第四十四(桓沖伝)』では、桓沖は前年に「中軍将軍」から「車騎将軍」になっています。いずれかの記述に誤りがあるようです(前年参照)

 

[三] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

甲子(二十三日)、東晋孝武帝が建平等の四陵を参拝しました。

 

[四] 『資治通鑑』からです。

二月辛丑(二十一日)、前秦天王(秦王・苻堅)が詔を下しました「朕が聞くに、王とは賢才を求めることに辛労し、士を得たら安逸になるという(王者労於求賢,逸於得士)。この言葉はどれだけ験(実績、効果)があることだろう(斯言何其験也)。以前、丞相(王猛)を得た時は、常に帝王の事は容易に為せると思っていた。(ところが)丞相が世を違えてからは(逝去してからは)、鬚や髪の半分が白くなり、彼を思念する度に、思わず酸慟(悲痛・心痛)している(往得丞相常謂帝王易為。自丞相違世鬚髮中白,每一念之不覚酸慟)。今、天下には既に丞相がいなくなったので、あるいは政教が淪替(衰落)してしまっただろう。よって、侍臣を分遣して郡県を周巡させ、民の疾苦を問わせることにする(今天下既無丞相,或政教淪替,可分遣侍臣周巡郡県,問民疾苦)。」

 

[五] 『資治通鑑』からです。

三月、前秦の兵が南郷を侵して攻略しました。山蛮三万戸が前秦に降ります。

『資治通鑑』胡三省注によると、襄陽以西や中廬、宜城の西山には蛮人が住んでおり、これを「山蛮」といいました。胡三省注が更に詳しく解説していますが、省略します。

 

[六] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

夏五月癸丑(十四日)、地震がありました。

 

[七] 『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲寅(十五日)、東晋孝武帝が詔を発しました「最近、上天が監(警告)を垂らし、譴告(譴責・警告)がしばしば明らかになっているので、朕は懼れを抱き、心中で震惕(震え畏れること)している(頃者上天垂監,譴告屢彰,朕有懼焉,震惕于心)。思うに、獄を議して死罪を緩め、過ちを赦して罪に寛大であれば、それによって大きな変化が起こり、新たに始めることができるかもしれない(思所以議獄緩死赦過宥罪,庶因大変與之更始)。」

こうして大赦を行い、文武百官の位をそれぞれ一等増やしました。

 

[八] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです。

六月、東晋が河間王・司馬欽の子・司馬範之を章武王に封じました(東晋哀帝隆和元年・362年参照)

 

[九] 『晋書・第九・孝武帝紀』からです(『資治通鑑』は九月乙巳に書いています。再述します)

秋七月乙巳(初七日)、東晋が度田收租の制(田地面積を測って税を納めさせる制度)を除き、王公以下、一人当たりの税を米三斛と決めて、労役・兵役に就いている者は免除することにしました(王公以下,口税米三斛,蠲在役之身)

 

[十] 『資治通鑑』からです。

以前、張天錫が張邕を殺した時(東晋穆帝升平五年・361年参照)、劉粛や安定の人・梁景に功があったため、二人は張天錫に寵信されるようになりました。張天錫は二人に張氏の姓を下賜して自分の子とみなし、政事に関与させます。

 

張天錫は酒色に溺れて自ら諸政務を行うことがなく(荒于酒色不親庶務)、世子・張大懐を廃し、嬖妾・焦氏の子・張大豫を立てて焦氏を左夫人にしたため、人情(人心)が憤怨しました。

従弟の従事中郎・張憲が棺を携えて切諫しましたが(輿櫬切諫)、張天錫は聴きませんでした。

 

前秦天王(秦王・苻堅)が詔を下しました「張天錫は藩を称して(秦の)位を受けたが、臣道が未純(不純)である。よって、使持節・武衛将軍・苟萇、左将軍・毛盛、中書令・梁熙、歩兵校尉・姚萇等を派遣し、兵を率いて西河(黄河の西。涼州を指します)に臨ませる。尚書郎・閻負と梁殊は詔を奉じ、天錫を召して入朝させよ。もし王命に違えるようなら、すぐに師を進めて撲討(討伐)する(若有違王命,即進師撲討)。」

この時、前秦には歩騎十三万がいました。

軍司・段鏗が周虓(東晋孝武帝寧康元年・373年に東晋から前秦に降りました)に言いました「この大軍で戦えば、誰が敵対できるだろう(以此衆戦,誰能敵之)。」

周虓はこう言いました「戎狄の歴史においては、(これほどの大軍に敵対できた者は)今まで存在したことがない(戎狄以来,未之有也)。」

 

『晋書・列伝第二十八(周虓伝)』では、呂光が西域を征した時、苻堅(天王)が餞別して周虓に「朕の衆力(兵力)は如何だ(朕衆力何如)」と問い、周虓が「戎狄の歴史においては、(これほどの兵力は)今まで存在したことがありません(戎狄已来,未之有也)」と答えています。

しかし周虓は前秦天王建元十八年(382年)二月に謀反して朔方に遷され、翌十九年(383年)正月に呂光が長安を発して西域に出征します。『資治通鑑』は『十六国春秋』に従って涼州討伐時に周虓の言葉を書いています(胡三省注参照)

 

本文に戻ります。

天王は更に秦州刺史・苟池、河州刺史・李辯、涼州刺史・王統に三州の衆を統率させ、苟萇の後継にしました。

 

秋七月、閻負と梁殊が姑臧に至りました。

張天錫が官属と会して謀り、こう言いました「今、入朝したら、必ず還れなくなる。しかしもし従わなかったら、秦兵が必ず至る。どうすべきだ(今入朝必不返,如其不従秦兵必至,将若之何)。」

禁中録事・席仂(『資治通鑑』胡三省注によると、禁中録事は張氏が置いた官で、禁中の事を総監しました)が言いました「愛子を質(人質)にして、重宝を贈ることでその師(軍)を退かせ、その後、ゆっくり計を立てるべきです。これは屈伸の術というものです(以愛子為質,賂以重宝,以退其師,然後徐為之計。此屈伸之術也)。」

衆人が皆、怒って言いました「我々は代々晋朝に仕え、忠節が海内で明らかになっています(吾世事晋朝,忠節著於海内)。今、一旦にして賊庭に身を委ねたら、辱(恥辱)が祖宗にまで及んでしまいます。これ以上の醜(羞恥)はありません(醜莫大焉)。そもそも、河西は天険なので、百年にわたっても患いがありません(百年無虞)。もし、悉く境内の精兵を動員し、右は西域を招き、北は匈奴を引き入れてこれに対抗すれば、なぜ勝てないと分かるのですか(若悉境内精兵,右招西域北引匈奴以拒之,何遽知其不捷也)。」

張天錫が袖をめくって大言しました(攘袂大言曰)「孤(私)の計は決した。投降を語る者は斬る(言降者斬)!」

 

張天錫は人を送って閻負と梁殊にこう問いました「君等は生きて帰ることを欲するか、死んで帰ることを欲するか(君欲生帰乎,死帰乎)?」

しかし、閻負等の辞気が屈しなかったため、張天錫は怒って二人を軍門に縛り、軍士に交射(乱射)するように命じて、「矢を射ても中らなかったら、私と心を同じくする者ではない(射而不中,不与我同心者也)」と言いました。

 

(閻負と梁殊が殺されると)張天錫の母・厳氏が泣いて言いました「秦主は一州の地を元に天下を横制(広い地を制御すること)し、東は鮮卑を平らげ、南は巴・蜀を取り、兵が行軍を留めることがありません(向かうところ敵なしです。原文「兵不留行」)。汝がもしこれに降っていれば、なお数年の命を延ばすこともできたはずです。しかし今、微細な一隅をもって大国に抗衡(対抗)し、しかもその使者を殺したので、滅亡まで日がないでしょう(若降之猶可延数年之命。今以蕞爾一隅抗衡大国,又殺其使者,亡無日矣)。」

 

張天錫は龍驤将軍・馬建に命じ、衆二万を率いて前秦に抵抗させました。

 

張天錫が閻負と梁殊を殺したことを秦人が聞きました。

八月、梁熙、姚萇、王統、李辯が清石津から(黄河を)渡り、前涼の驍烈将軍・梁濟(『資治通鑑』胡三省注によると、驍烈将軍も張氏が置いたようです)を河会城で攻めて降しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、湟河が允吾に至って大河(黄河)と合流し、允吾県には青巖山がありました。胡三省注は「清石津は青巖山の下にあり、河会城は二河が合流する場所ではないか」と書いています。

 

甲申(十七日)、苟萇が石城津(『資治通鑑』胡三省注によると、石城津は金城の西北にありました)から(黄河を)渡り、梁熙と合流して纏縮城を攻め、攻略しました。

懼れた馬建は楊非(地名)から退却して清塞に駐屯しました(『資治通鑑』胡三省注によると、逆水が允吾県の参街谷から出て、東南に流れて街亭城の南を通り、更に東南に流れて陽非亭の北を通り、広武城の西を通りました。楊非は支陽の東北三百余里の地にありました)

 

張天錫が改めて征東将軍・掌據(「掌據」は「常據」とするのが正しいようです。東晋廃帝太和二年・367年に李儼を平定した時は「常據」としています)を派遣し、三万の衆を率いて洪池に駐軍させました。張天錫も自ら余衆五万を率いて金昌城に駐軍します(『資治通鑑』胡三省注によると、洪池は山嶺の名で、姑臧の南にありました。金昌城は赤岸の西北にありました。赤岸については下述します)

 

安西将軍・敦煌の人・宋皓が張天錫に進言しました「臣は昼に人事を察し(観察し)、夜に天文を観ていますが、秦兵には敵いません。投降すべきです(秦兵不可敵也,不如降之)。」

張天錫は怒って宋皓の位を宣威護軍に落としました。

 

広武太守・辛章(『資治通鑑』胡三省注によると、張寔が金城の令居と枝陽を分けて広武郡を置きました)が言いました「馬建は隊伍の出身なので、必ず国家の用にはなりません(国のために役に立つはずがありません。原文「馬建出於行陳,必不為国家用」。馬建は兵隊出身なので、品徳がなくて信用できないという意味だと思います)。」

 

苟萇が姚萇に甲士三千を率いて前駆にさせました。

庚寅(二十三日)、馬建が一万余人を率いて秦兵を迎え入れ、投降しました。残った兵は皆、四散逃走します。

辛卯(二十四日)、苟萇が掌據(常據)と洪池で戦い、掌據の兵が敗れました。

掌據の馬が乱兵に殺されたため、属(属下、属官)の董儒が馬を授けましたが、掌據はこう言いました「私は三回諸軍を監督し、二回節鉞を持ち、八回禁旅を指揮し、十回禁兵(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては、「禁兵」を「外兵」としています)を総領して、寵任が極まった(吾三督諸軍,再秉節鉞,八将禁旅,十総禁兵,寵任極矣)。今、ついにここで困窮することになったが、ここは私の死地だ。どこに行くというのだ(卒困於此,此吾之死地也,尚安之乎)。」

掌據は帳に入って冑を脱ぎ、西を向いて稽首(叩頭)してから、剣に伏して死にました。

前秦の兵が軍司・席仂を殺しました。

 

癸巳(二十六日)、前秦の兵が清塞に入りました。

 

張天錫が司兵・趙充哲(『資治通鑑』胡三省注によると、河西の張氏が官僚を置く時は、王者(朝廷の制度)に則りながら微妙に官名を異ならせました。「司兵」は晋の五兵尚書の職に当たるようです)を派遣して、衆を率いて抵抗させましたが、秦兵が趙充哲と赤岸(『資治通鑑』胡三省注によると、河水が左南(地名)から東に流れ、赤岸の北を流れました。この地は河夾岸ともいい、枹罕にありました)で戦って大破しました。俘斬が三万八千級に上り、趙充哲は戦死します。

 

張天錫が城(金昌城)を出て自ら戦おうとしましたが、城内が叛したため、数千騎と共に奔って姑臧に還りました。

 

甲午(二十七日)、前秦の兵が姑臧に至りました。

張天錫は素車(白車)・白馬を準備し、手を後ろに縛って棺を携え(投降の姿です)、前秦の軍門に降りました(素車素馬,面縛輿櫬,降于軍門)

苟萇は張天錫の縄を解いて棺を焼き、張天錫を長安に送りました。

涼州の郡県も全て前秦に降りました。

 

こうして前涼が滅びました。

『資治通鑑』胡三省注が「(西晋)恵帝永寧元年(301年)に張軌が涼州刺史になってから、張氏が涼土を有した。合わせて九主、七十五年で亡んだ」と解説しています。

『晋書・第九・孝武帝紀』は「秋七月、苻堅の将・苟萇が涼州を落として刺史・張天錫を虜にし、その地を全て有した」と書いていますが、『資治通鑑』では八月になっています。

前涼が滅亡して、中国は北の前秦と南の東晋が対峙するようになりました。

 

九月、前秦天王(秦王・苻堅)が梁熙を涼州刺史に任命して姑臧を鎮守させました。

豪右(豪強、豪族)七千余戸を関中に遷しましたが、他の者は全て今まで通り安居させました(余皆按堵如故)

 

前秦は張天錫を帰義侯に封じて北部尚書に任命しました(『資治通鑑』胡三省注によると、前秦は北部尚書を置いて北蕃(北部の封国)を管理させました)

前秦の兵が出征した時、あらかじめ長安に張天錫が住むための邸宅を築いていたため、張天錫が長安に至ると、そこに住むことになりました。

 

前秦は、張天錫が任命した晋興太守・隴西の人・彭和正を黄門侍郎に、治中従事・武興の人・蘇膺と敦煌太守・張烈を尚書郎に、西平太守・金城の人・趙凝を金城太守に、高昌の人・楊幹を高昌太守に任命し、その他の者も全て能力に応じて抜擢・任用しました(余皆隨才擢敍)

『資治通鑑』胡三省注によると、張軌が西平を分けて晋興郡を置き、秦・雍の移民を姑臧西北に集めて武興郡を置きました。高昌は漢代車師国の高昌壁(高昌塁)です。張氏が始めて郡を置きました。後には高昌国が建てられ、唐代になってこの地に西州が置かれます。

 

梁熙は清倹で民を愛したため、河右が安定しました。

張天錫が任命した武威太守・敦煌の人・索泮が別駕に、宋皓が主簿に任命されました。

 

西平の人・郭護が兵を挙げて前秦を攻めましたが、梁熙が宋皓を折衝将軍に任命して討平させました。

 

東晋の桓沖は前秦が涼州を攻めたと聞いて、兗州刺史・朱序と江州刺史・桓石秀を派遣し、荊州督護・桓羆と共に沔・漢で遊軍(流動部隊。遊撃部隊)を組織させて、涼州の声援(後援)にしました。また、豫州刺史・桓伊を派遣して、衆を率いて寿陽に向かわせ、淮南太守・劉波を派遣して淮・泗に舟を浮かべさせ、前秦を攪乱することで前涼を救おうとしました。

しかし涼州が敗没したと聞いて、全て撤兵しました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

以前、東晋哀帝が田租を減らして、一畝から二升を納めさせることにしました(東晋哀帝隆和元年・362年)

乙巳(初八日。『晋書・第九・孝武帝紀』は七月乙巳に書いています。既述)、東晋が度田收租の制(田地面積を測って税を納めさせる制度)を廃止し、王公以下、一人当たりの税を米三斛と決めて、労役・兵役に就いている者は免除することにしました(王公以下,口税米三斛,蠲在役之身)

 

 

次回に続きます。

東晋時代106 東晋孝武帝(五) 拓跋氏の内争 376年(2)