東晋時代93 東晋廃帝(七) 慕容令 370年(1)

今回は東晋廃帝太和五年です。三回に分けます。

 

東晋廃帝太和五年

前涼沖王太清八年/前燕幽帝建熙十一年/前秦天王建元六年

庚午 370年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月己亥(二十四日)、梁国内史・沛郡の人・朱憲と弟の汝南内史・朱斌が秘かに大司馬・桓温と通じたため、袁真が二人を殺しました(袁真は前年、東晋に叛して前燕に降りました。『南史・列伝第六(朱齢石伝)』によると、朱憲と朱斌は袁真の将佐でしたが、東晋の桓温と通じたため殺されました)

『晋書・第八・海西公紀』はこう書いています「春正月己亥(二十四日)、袁真の子・袁雙之と袁愛之が梁国内史・朱憲と汝南内史・朱斌を害した。」

 

[二] 『資治通鑑』からです。

前秦の王猛が前燕の荊州刺史・武威王・慕容筑(『資治通鑑』胡三省注によると、前燕の荊州は洛陽を治所にしました。慕容筑は洛陽にいます)に書を送り、こう伝えました「国家(秦国)は今、既に成皋の険を塞ぎ、盟津の路を杜絶し、大駕虎旅(秦王の精鋭)百万が軹関から鄴都を取りに向かった。金墉(洛陽)は窮戍して(守備が困窮し)、外には救援がいない。城下の師(洛陽を包囲する前秦軍)は将軍が視たとおりである(城下之師,将軍所監)。どうして三百の弊卒(弱兵)で支えることができるのだ(豈三百弊卒所能支也)。」

慕容筑は懼れを抱き、洛陽を挙げて降りました。王猛は兵を連ねてそれを受け入れます(陳師受之)

 

この頃、前燕の衛大将軍・楽安王・慕容臧が新楽に城を築き、石門で秦兵を破って秦将・楊猛を捕えました(『資治通鑑』胡三省注によると、石門と新楽城は滎陽界内にありました)

 

以前、王猛が長安を発つ時、慕容令を自分の軍事に参与させて郷導(先導)にする許可を請いました。

出発の際、王猛が慕容垂を訪ねて酒を飲み、従容(平然とした態度)として慕容垂にこう言いました「今、遠くに離別することになりましたが、何か私に贈る物がありませんか。私に物を見て人(あなた)を思い出させてください(今当遠別,何以贈我。使我覩物思人)。」

慕容垂は佩刀をはずして王猛に贈りました。

王猛は洛陽に至ると佩刀を慕容垂が親しくしていた金熙という者に贈り、慕容垂の使者を偽らせ、慕容垂の言葉として慕容令にこう伝えさせました「我々父子(慕容垂と慕容令)がここ(前秦)に来たのは、死から逃れるためだ。しかし今、王猛が人(我々)を讎のように憎んでおり、讒言誹謗が日に日に深くなっている(疾人如讎,讒毀日深)。秦王は外見は仁厚友善だが、その心を知るのは難しい(雖外相厚善,其心難知)。丈夫が死から逃れようとしたのに、結局逃れられなかったら、天下の笑い者になってしまう(丈夫逃死而卒不免,将為天下笑)。私が聞くに、東朝(前燕)は最近、悔悟し始めて、主后(前燕幽帝と可足渾后)が互いに譴責しあっているようだ(吾聞東朝比来始更悔悟,主后相尤)。私はこれから東に還るので、使者を派遣してこれを汝に告げる(吾今還東故遣告汝)。私は既に行動を開始した。(汝も)速やかに出発せよ(吾已行矣,便可速発)。」

慕容令はこの内容を疑い、躊躇したまま終日を過ごしましたが、審覆(調査・確認)することもできません。そこで、旧騎(『資治通鑑』胡三省注によると、前燕から前秦に奔った時に従った者です)を従えて、偽って狩猟のために外出するふりをし、そのまま、石門にいる楽安王・慕容臧に奔りました。

 

王猛が上表して慕容令の叛状を報告したため、慕容垂も懼れて出走(出奔、逃走)し、藍田に至りましたが、追手の騎兵に捕えられました。

前秦天王(秦王・苻堅)は東堂で慕容垂を引見し、労ってこう言いました「卿は家国(家と国)が和を失ったので、身を委ねて朕に投じた(委身投朕)。賢子(慕容令)は心が本(根本)を忘れることなく、なお首丘(故郷)を思っていた。それぞれに志があるのだ。深く咎めるには足りない(賢子心不忘本,猶懐首丘,亦各其志,不足深咎)。しかし、燕が近く亡びるのは、(慕容)令によって助けられることではない。彼がいたずらに虎口に入ってしまったことを惜しむだけだ(然燕之将亡,非令所能存,惜其徒入虎口耳)。そもそも、父子兄弟の間で罪が互いに及ぶことはないのに(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。父が不慈、子が不祗(不敬)、兄が不友、弟が不共(不恭)であったら、互いに罪が及ぶことはありませんでした。また、太古では鯀が治水に失敗して誅殺されましたが、子の禹が抜擢されて治水に成功し、後に夏王朝を築きました)、卿はなぜ過度に懼れてそのように狼狽するのだ(且父子兄弟,罪不相及,卿何為過懼而狼狽如是乎)。」

天王は以前と同じように慕容垂を遇しました。

 

燕人は慕容令が離叛したのにまた帰還し、しかもその父が前秦に厚遇されているため、慕容令は反間(間諜)になったのではないかと疑い、龍都から東北に六百里離れた沙城に遷しました(『資治通鑑』胡三省注によると、沙城は沙野(恐らく地名)にありました。龍都は龍城です)

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前燕の楽安王・慕容臧が兵を進めて滎陽に駐屯しましたが、前秦の王猛が建威将軍・梁成と洛州刺史・鄧羌を派遣してこれを撃たせ、慕容臧を走らせました。

王猛は鄧羌を留めて金墉を鎮守させ、輔国司馬・桓寅を弘農太守に任命して、鄧羌の代わりに陝城を守備させてから帰還しました(『資治通鑑』胡三省注によると、王猛は輔国将軍になってから、桓寅を司馬にしていました。秦初は洛州刺史が陝を鎮守しましたが、今回、鄧羌が金墉に駐屯することになったので、桓寅が代わりに陝を守りました)

 

前秦天王(秦王・苻堅)が王猛を司徒・録尚書事に任命して平陽郡侯に封じましたが、王猛は固く辞退してこう言いました「今は燕と呉がまだ平定されておらず、まさに戎車(戦車)を駕している時でありながら、一城を得たばかりなのに、三事(『資治通鑑』胡三省注によると、この「三事」は「三公」を指します)の賞を受けることになりました(今燕呉未平戎車方駕,而始得一城即受三事之賞)。もし二寇を克殄(殲滅)したら、何を加えるのでしょう。」

天王が言いました「とりあえず朕の心を抑えなかったら(朕を意志を曲げなかったら)、どうして卿の謙光の美を明らかにすることができるだろう(苟不蹔抑朕心,何以顕卿謙光之美)。既に有司(官員)に詔して、暫定的に(卿が)守る所を聴くことにした(官位については、現状の職務を維持することに同意した。原文「已詔有司権聴所守」)(但し)封爵は功績に報いることなので、無理にでも朕の命に従え(封爵酬庸,其勉従朕命)。」

 

[四] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

二月癸酉(二十八日)、袁真が死にました。

陳郡太守・朱輔が袁真の子・袁瑾を立てて後事を継がせ、建威将軍・豫州刺史にして寿春を守らせました。同時に、自分の子・朱乾と司馬・爨亮を派遣し、鄴(前燕の都)に入って命を請わせました。

燕人は袁瑾を揚州刺史に、朱輔を荊州刺史に任命しました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

三月、前秦天王(秦王・苻堅)が吏部尚書・権翼を尚書右僕射に任命しました。

夏四月、再び王猛を司徒・録尚書事に任命しましたが、やはり王猛が固辞したので、中止しました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

前燕と前秦がそれぞれ兵を派遣して袁瑾を助けました。

東晋の大司馬・桓温は督護・竺瑤等を派遣してこれを防がせました。

 

前燕の兵が先に至りましたが、竺瑤等が武丘(『資治通鑑』胡三省注によると、武丘はかつての丘頭です。晋文王・司馬昭が諸葛誕を平定してから武丘に改名して、武功を顕揚しました)で戦って破りました。

南頓太守・桓石虔も南城を攻略しました(『資治通鑑』胡三省注によると、西晋恵帝が汝南を分けて南頓郡を置きました。この「南城」は寿春南城を指します)。桓石虔は桓温の弟の子です。

 

『晋書・第八・海西公紀』は「夏四月辛未(二十七日)、桓温の部将・竺瑤が武丘で袁瑾を破った」と書いています。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が再び王猛を派遣し、鎮南将軍・楊安等の十将と歩騎六万を督して前燕を伐たせることにしました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

前燕に奔った慕容令は、結局は禍から免れられなくなると予測し、秘かに起兵を謀りました。沙城の中に讁戍の士(流刑に遭って辺境を守備している士)が数千人いたため、皆を厚く撫します(慰撫、懐柔しました)

 

五月庚午(『二十史朔閏表』によると、この年五月は「甲戌」が朔なので、「庚午」はありません)、慕容令が牙門・孟嬀を殺しました。城大・渉圭(「城大」は城主で、「渉圭」は渉が氏です。『資治通鑑』胡三省注が「(春秋時代)晋に大夫・渉佗がいた」と解説しています)は懼れて自ら慕容令のために力を尽くす機会を請います(請自效)。慕容令はこれを信じ、渉圭を招いて左右に置きました。

こうして慕容令は讁戍の士を指揮し、東に向かって威徳城(『資治通鑑』胡三省注によると、威徳城はかつて宇文渉夜干(南羅大・渉夜干)の居城だった地で、燕王・慕容皝が威徳城に改名しました。東晋康帝建元二年・344年参照)を襲いました。城郎(城主)・慕容倉を殺し、城を占拠して(官員や将兵の)部署を決めます(拠城部署)

その後、人を派遣して東西の諸戍(各地の守備兵)を招くと、皆、一斉に呼応しました(翕然皆応之)

 

当時、鎮東将軍・勃海王・慕容亮が龍城を鎮守していました。

慕容令が龍城を襲おうとしましたが、慕容令の弟・慕容麟がそれを慕容亮に告げたため、慕容亮は城門を閉じて拒守(抵抗固守)しました。

 

癸酉(この年五月は「癸酉」もないはずです)、渉圭が侍直(宿直)の機会を利用して慕容令を撃ちました。慕容令は単馬で逃走し、その党は全て潰滅します。

渉圭は慕容令を追って薛黎沢に至り、捕えて殺してから、龍城を訪ねて慕容亮に報告しました。

しかし慕容亮は慕容令のために渉圭を誅殺し、慕容令の遺体を回収して埋葬しました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

六月乙卯(十二日)、前秦天王(秦王・苻堅)が灞上で王猛を東に送り出して、こう言いました「今、卿に関東の任を委ねる。まず壺関(『資治通鑑』胡三省注によると、秦が上党郡を置いて壺関城を治所にしました。西漢は長子城を治所にしましたが、董卓がまた壺関城を治所とし、慕容氏も安民城を治所にしてから、後に壺関城に遷しました)を破り、上党を平定してから、長駆して鄴を取れ。これはいわゆる『疾雷(速雷、迅雷)は耳をおおう余裕もない(疾雷不及掩耳)』というものだ。私は自ら万衆を監督し、卿に継いで星発(夜が明ける前に出発すること)して、舟車で食糧を輸送し、水陸から共に進もう。卿が後ろを考慮する必要はない(吾当親督万衆,継卿星発,舟車糧運,水陸俱進,卿勿以為後慮也)。」

王猛が言いました「臣が威霊に頼って成算(成功が決まっている計画)を奉じ、残胡を盪平(掃蕩平定)するのは、風で葉を掃くようなものです。(陛下におかれては)鑾輿(皇帝の車)を煩わせて自ら塵霧(塵土・煙霧)を犯すようなことはしないように願います。ただ、速やかに所司(有司。関係部署の官員)に勅令して、(投降した)鮮卑を置く場所を配置するように願うだけです(願不煩鑾輿親犯塵霧,但願速敕所司部置鮮卑之所)。」

天王は大いに悦びました。

 

[十] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月癸酉朔、日食がありました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

前秦の王猛が壺関を攻めて、楊安が晋陽を攻めました。

八月、前燕幽帝(燕主・慕容暐)は太傅・上庸王・慕容評に命じ、中外の精兵三十万を率いて秦軍に抵抗させました(『晋書・載記第十一』は「中外精卒四十余万」としていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、『晋春秋』は「三十万」としており、『資治通鑑』はこれに従っています)

 

幽帝は秦寇を憂いとし、散騎侍郎・李鳳、黄門侍郎・梁琛、中書侍郎・楽嵩を召してこう問いました「秦兵の衆寡は如何だ?今、(燕の)大軍が既に出発したが、秦は戦うことができるか(秦は敢えて戦おうとするだろうか。原文「秦能戦乎」)?」

李鳳が言いました「秦は国が小さくて兵が弱いので、王師の敵ではありません。また、景略(王猛の字です)は常才(凡才)なので、太傅の比でもありません。憂いるには足りません。」

梁琛と楽嵩が言いました「勝敗とは謀にかかっているのであり、衆寡にかかっているのではありません(勝敗在謀,不在衆寡)。秦は遠くから来て寇を為しました。どうして戦わずにいられるでしょう(安肯不戦)。そもそも、我々は謀を用いて勝利を求めるべきです。どうして戦わないことを願うだけでいいのでしょうか(且吾当用謀以求勝,豈可冀其不戦而已乎)。」

幽帝は不快になりました。

 

王猛が壺関を攻略して上党太守・南安王・慕容越を捕えました。

『晋書・第八・海西公紀』は九月に「苻堅の将・王猛が慕容暐を伐って上党を落とした」と書いています(『資治通鑑』ではまだ八月です)

 

王猛が通過した郡県が全て動静を聞いて投降・帰順したため(望風降附)、燕人が大いに震撼しました。

 

黄門侍郎・封孚が司徒長史・申胤に問いました「事態はどうなるのでしょう(事将何如)?」

申胤が嘆息して言いました「鄴は必ず亡び、我々は今年、秦虜になるでしょう(鄴必亡矣,吾属今茲将為秦虜)。しかし、越が歳(歳星)を得たのに呉がこれを伐ったので、最後は(呉が)禍を受けました(『資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代、呉が越を伐った年、歳星が星紀にありました。星紀は呉越の分野に当たり、歳星が位置する国には福があるとされました。呉は先に兵を用いたため、一度は越を滅ぼしたものの、最後は復興した越に滅ぼされました)。今、福徳は燕にあります(『資治通鑑』胡三省注によると、この年、歳星は燕の分野にありました。後に苻堅が「昔、私は燕を滅ぼしたが、それも歳(歳星)を犯して勝ったのだ」と発言します)(今回は)秦が志を得るとはいえ、燕の復建まで一紀(十二年)も必要としないでしょう(燕之復建不過一紀耳)。」

 

[十二] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の大司馬・桓温が広陵から衆二万を率いて袁瑾を討ちました。襄城太守・劉波を淮南內史に任命し、五千人を率いて石頭を鎮守させます。劉波は劉隗(東晋元帝の末年、王敦の乱に遭い、敗戦して後趙に奔りました)の孫です。

 

癸丑(十一日)、桓温が寿春(「寿春」としているのは『資治通鑑』で、『晋書・海西公紀』では「寿陽」です)で袁瑾を敗り、そのまま包囲しました。

前燕の左衛将軍・孟高が騎兵を率いて袁瑾の救援に向かい、淮北に至りましたが、渡河する前にちょうど前秦が前燕を伐ったため、前燕は孟高を召して還らせました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

広漢の妖賊(恐らく方術等を使って民衆の支持を集めた指導者です)・李弘が漢(成漢)の帰義侯・李勢の子を詐称して一万余人の衆を集め、自ら聖王と称して年号を鳳凰としました。

 

隴西の人・李高も成主・李雄(成漢武帝)の子を詐称しました。涪城を攻めて破り、梁州刺史・楊亮を駆逐します。

 

九月、東晋の益州刺史・周楚が子の周瓊を派遣して李高を討たせ、また、周瓊の子に当たる梓潼太守・周虓を派遣して李弘を討たせ、どちらも平定しました。

 

『晋書・第八・海西公紀』には李高に関する記述がなく、こう書かれています「広漢の妖賊・李弘と益州の妖賊・李金根が衆を集めて反した。李弘は聖王を自称し、衆が一万余人に上ったが、梓潼太守・周虓がこれを討平した。」

『晋書・列伝第二十八(周楚伝)』にはこうあります「太和中、蜀盗・李金銀(『海西公紀』の「李金根」)と広漢の妖賊・李弘が並んで衆を集めて寇を為し、偽って李勢の子を称した。」「また、隴西の人・李高が李雄の子を詐称して涪城を破った。梁州刺史・楊亮が失守したが、周楚がその子を派遣してこれを討平した。」

 

 

次回に続きます。

東晋時代92 東晋廃帝(六) 前秦と前燕 369年(3)

今回で東晋廃帝太和四年が終わります。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

以前、前秦天王(秦王・苻堅)は前燕の太宰・慕容恪が死んだと聞いて、秘かに燕を図る志を抱きましたが、慕容垂の威名を畏れたため、敢えて実行することができませんでした。

その慕容垂が至ったと聞くと、天王は大いに喜んで郊外まで迎えに行き、慕容垂の手をとってこう言いました「天が賢傑を生んだら、必ず一緒になって共に大功を成すものであり、これは自然の数(道理)である(天生賢傑,必相与共成大功,此自然之数也)(今はまず)卿と共に天下を定めて岱宗(泰山)に成果を報告し、その後、卿を本邦(本国。故郷)に還して、代々、幽州に封じよう(要当与卿共定天下,告成岱宗,然後還卿本邦,世封幽州)(幽州に封じることで)卿が国を去ってからも子としての孝を失わせないようにし、朕に帰してからも主君に対する忠を失わせないようにする、これもまた素晴らしいことではないか(使卿去国不失為子之孝,帰朕不失事君之忠,不亦美乎)。」

慕容垂が感謝して言いました「羇旅の臣(異郷に客居する臣)にとっては、罪から免れられただけでも幸いです。本邦の栄(故郷に封じられる栄誉)は敢えて望めることではありません(羇旅之臣,免罪為幸。本邦之栄,非所敢望)。」

 

天王は世子・慕容令と慕容楷の才も愛したため、どちらも厚く礼遇しました。二人に対する賞賜は鉅万(巨万)にのぼり、二人が進見(謁見)する度に、天王は属目(注目、注視)して観察しました。

 

関中の士民はかねてから慕容垂父子の名を聞いていたため、皆、嚮慕(思慕、仰慕)しました。

王猛が天王に言いました「慕容垂の父子は、譬えるなら龍虎のようであり、手なずけられるものではありません(譬如龍虎,非可馴之物)。もし(彼等が)風雲を借りたら、二度と制御できなくなるので、早く除くべきです(若借以風雲,将不可復制,不如早除之)。」

天王はこう言いました「私はまさに英雄を収攬して四海を清めようとしている。それなのに、なぜ彼等を殺すのだ(柰何殺之)。そもそも彼等が来たばかりの時、私は既に誠意を示して(彼等を)受け入れた(吾已推誠納之矣)。匹夫でも言(約束の言葉)を棄てないものだ。万乗(帝王)ならなおさらではないか(況万乗乎)。」

天王は慕容垂を冠軍将軍に任命して賓徒侯(『資治通鑑』胡三省注によると、賓徒は漢代の県名で遼西郡に属しました)に封じ、慕容楷を積弩将軍に任命しました。

 

前燕では、魏尹・范陽王・慕容徳が以前から慕容垂と友善な関係にあったため、車騎従事中郎・高泰と共に罪に坐して免官されました(『資治通鑑』胡三省注によると、慕容垂は前燕で車騎大将軍になり、高泰を従事中郎にしていました)

尚書右丞・申紹が太傅・慕容評に進言しました「今は呉王が出奔して外口(世論)が籍籍(紛糾、混乱の様子)としているので、王(呉王)僚屬の賢者を召して顕進(顕貴進達。任用して位を高くすること)すべきです。(そうすれば)おおよその誹謗は消すことができます(粗可消謗)。」

慕容評が問いました「誰が相応しいか(誰可者)?」

申紹が言いました「高泰は彼等の領袖(指導者。突出した者)です。」

そこで慕容評は高泰を尚書郎に任命しました。高泰は高瞻の従子(甥、または自分より一世代下の親族。高瞻は東晋元帝太興(大興)二年・319年参照)、申紹は申胤の子(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「兄」としているものもあります)です。

 

前秦は梁琛を一月余留めてから送り帰しました。

梁琛は兼程して進みましたが(「程」は駅程(駅と駅の間の距離)です。「兼程」は通常の二倍の速度で移動するという意味です)、鄴に至った時、呉王・慕容垂が既に前秦に奔っていました。

梁琛が太傅・慕容評に言いました「秦人は日々、軍旅を閲し(閲兵・点検し)、多くの食糧を陝東に集めています。琛(私)がこれを観るに、和を為しても久しくできるはずがありません(為和必不能久)(そのうえ)今、呉王も去って(秦に)帰したので、秦には必ず窺燕の謀(前燕の隙を窺う謀)があります。これを防ぐために早く備えを為すべきです(宜早為之備)。」

しかし慕容評はこう言いました「秦はどうして敢えて叛臣を受け入れ、和好を破壊することがあるだろう(秦豈肯受叛臣而敗和好哉)。」

梁琛が言いました「今は二国が中原を分拠しており、常に相吞の志(互いに併呑しようとする志)があります。桓温が入寇した時は、彼等は計(自国のための計策)によって(我々を)救ったのであって、燕を愛したからではありません(桓温之入寇,彼以計相救,非愛燕也)。もし燕に釁(隙)があったら、彼等がどうしてその本志を忘れるでしょう。」

『資治通鑑』胡三省注は「苻堅や王猛が謀を為したことを、梁琛は既に窺い見ていた」と解説しています。

 

慕容評が問いました「秦主とはどのような人だ(秦主何如人)?」

梁琛が言いました「英明なうえに決断を善くします(明而善断)。」

慕容評が王猛について問うと、梁琛は「その名声はいたずらに得たものではありません(名不虚得)」と答えました。しかし慕容評はどの意見にも賛同しませんでした(皆不以為然)

 

梁琛は幽帝(燕主・慕容暐)にも報告しましたが、幽帝も賛同しませんでした(暐亦不然之)

 

梁琛がこの事を皇甫真に告げると、皇甫真は深く憂いて上書しました「苻堅は聘問が相継いでいるとはいえ、実は上国(前燕)を窺う心があり、(我が国の)徳義を慕って喜ぶことはできず、久要(旧約。かつての約束。虎牢以西を割いて前秦に贈ること)を忘れてもいません(苻堅雖聘問相尋,然実有窺上国之心,非能慕楽徳義,不忘久要也)。以前、(苻堅は)洛川に出兵して(『資治通鑑』胡三省注によると、苟池と鄧羌が前燕を援けた時の事です)、しかも使者が連続して至ったので、我が国の険易虚実(燕国の地形が険阻かどうか等の実情)を彼は全て得ています(前出兵洛川,及使者継至,国之険易虚実,彼皆得之矣)。今、呉王・垂も去って彼に従い、その謀主となりました。伍員の禍に備えないわけにはいきません(伍員は春秋時代の伍子胥です。伍子胥は楚王に父と兄を殺されて呉に奔ってから、呉の兵を使って楚に報復しました)。洛陽、太原、壺関は全て将を選んで兵を増やし、そうすることで(禍を)未然に防ぐべきです(以防未然)。」

 

皇甫真の上書を受けて、幽帝は太傅・慕容評を召して謀りました。ところが慕容評はこう言いました「秦は国が小さくて力が弱いので、我々の援けを恃みとしています(恃我為援)。そもそも苻堅は善道の近くにいるので(原文「苻堅庶幾善道」。『資治通鑑』胡三省注が解説しています。苻堅は純粋に善道によって隣国と交わることはできないものの、ほぼそれに近い状態にあるという意味です)、叛臣の言を採用して二国の好を絶つようなことをするはずがありません(終不肯納叛臣之言,絶二国之好)。軽率に自ら驚擾(騒擾)して寇心(敵の侵略の心)を開かせてはなりません(不宜軽自驚擾以啓寇心)。」

結局、前燕は備えを設けませんでした。

 

前秦が黄門郎・石越を派遣して前燕を聘問させました。

太傅・慕容評は豪奢な様子を示して燕の富盛を誇示しようとしましたが、高泰と太傅参軍・河間の人・劉靖が慕容評にこう進言しました「石越は言葉が荒唐で視線が遠かったので、好を求めに来たのではありません。隙を観に来たのです(越言誕而視遠,非求好也,乃観釁也)。よって、兵威を誇示することでその謀を挫くべきです。今、逆に豪奢を示したら、ますます軽視されることになるでしょう(宜耀兵以示之用折其謀。今乃示之以奢,益為其所軽矣)。」

慕容評はこの意見に従いませんでした。

高泰は病を理由に辞職して帰りました(謝病帰)

 

当時は太后・可足渾氏が国政を侵橈(侵犯・攪乱)しており、太傅・慕容評は貪婪で際限がなく(貪昧無厭)、貨賂(貨財、賄賂)は上に流れ、官員は才に応じて推挙されなかったため(貨賂上流,官非才挙)、群下が怨憤していました。

尚書左丞・申紹が上書してこう主張しました「守宰(郡県の長。地方の官員)とは、致治の本(治世をもたらす根本)です。(ところが)今の守宰はほとんどがその人(相応しい人材)ではなく(率非其人)、ある武臣は行伍(軍隊)から出ており、ある貴戚は綺紈(華美な織物。富貴な家の比喩です)で生まれ育ち、郷曲(郷里)で選ばれた人材でもなく、朝廷の職を経歴した者でもありません(既非郷曲之選,又不更朝廷之職)。このような状況に加えて、黜陟(官吏の昇降)に法がないので、貪惰な者(貪婪怠惰な者)にも刑罰の懼れがなく、清修の者(清廉で身を修めている者)にも旌賞の勧(表彰による激励)がありません(加之黜陟無法,貪惰者無刑罰之懼,清修者無旌賞之勧)。その結果、百姓が困弊し、寇盗が充斥(充満)し、綱紀が頽廃混乱しているのに(綱頽紀紊)、糾摂(監督・修正)する者もいません。また、官吏が猥多(繁多)で前世(前代)の状態を越えており、公私が紛然(雑乱の様子)としていて煩擾(雑乱、混乱)に堪えられません(官吏猥多踰於前世,公私紛然不勝煩擾)。大燕の戸口は数が二寇を兼ね(晋・秦二国の人口を合わせた数に匹敵し。原文「数兼二寇」)、弓馬の勁(強さ)は四方に及ぶ者がいないのに、最近は戦えば繰り返し敗北しています(比者戦則屢北)。これは全て、守宰の賦調(徴税)が不公平で、侵漁(他者を侵して財物を奪うこと。「漁」は魚を獲ることですが、ここでは財物を奪うという意味で使われています)が止むことなく、行留(出征する者と留まる者)ともに困窮して、敢えて命を棄てようとする者がいないからです(皆由守宰賦調不平,侵漁無已,行留俱窘,莫肯致命故也)

(また)後宮の女は四千余人を数え、僮侍・廝役(童僕・奴僕)を外しても、一日の費用は万金に値しており(僮侍廝役尚在其外,一日之費厥直万金)、士民もその気風を受けて、競って奢靡を為しています。我々の相手である秦呉は僭僻しながらも(原文「彼秦呉僭僻」。『資治通鑑』胡三省注によると、「僭僻」は、秦が帝号を僭称し、晋(呉)が一隅に退避していることを指します)、なおその部(領地)を條治(治理)できており、兼并の心を抱いています。それなのに我々は上下が惰性に任せて日々秩序を失っています(而我上下因循,日失其序)。我々が(政治を)修めないのは、彼等が願っていることです(我之不修,彼之願也)。思うに、守宰を精選し、(繁多になった)官を合併して(不要な)職を省き、士兵の家族を安撫し、公私ともに満足させ、浪費を節約して抑え、費用を愛惜し、賞は必ず功績と釣り合うようにし、罰は必ず罪過と釣り合うようにするべきです(謂宜精択守宰,併官省職,存恤兵家,使公私両遂,節抑浮靡,愛惜用度,賞必当功,罰必当罪)。このようにすれば、桓温と王猛に対してはその首を斬ることができ、(晋・秦の)二方も取ることができます(如此則温猛可梟,二方可取)。ただ国境を保って民を安んじられるだけのことではありません(豈特保境安民而已哉)

また、索頭(鮮卑。拓跋氏)の什翼犍は疲弊していて暗昏なので(疲病昏悖)、たとえ貢御(進貢、貢物)が乏しくても、患いを為すことはできません。それなのに(我が国は)兵を労して遠くを守っています。これでは、損はあっても益はありません(原文「労兵遠戍,有損無益」。『資治通鑑』胡三省注によると、前燕は雲中に守備兵を置いて代に備えていました)。それよりも、(兵を)并土(并州)に移して西河を制御し、南は壺関を堅め、北は晋陽(の守り)を重ね、西寇(前秦)が来たら拒守(抵抗、防守)し、通過したら後ろを断てるようにするべきです(不若移於并土,控制西河,南堅壺関,北重晋陽,西寇来則拒守,過則断後)。このようにするのは、孤城に守備兵を置いて無用の地を守るよりも勝っています(猶愈於戍孤城守無用之地也)。」

申紹の上書が提出されましたが、省みられませんでした。

 

[十] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

辛丑(二十五日)、東晋の大司馬・桓温が山陽から移動して涂中(地名)で丞相・会稽王・司馬昱と会し、後挙(今後の行動)について謀りました。

桓温の世子・桓熙を豫州刺史・假節にしました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

以前、燕人は虎牢以西を割いて前秦に贈ることに同意しましたが、晋兵が退くとこれを後悔し、秦人にこう言いました「(前回の約束は)行人(使者)の失言だ。国をもち家をもつ者にとって、災害の負担を分け合って禍患から救うのは、理の常である(秦が燕を救ったのは当然な道理である。原文「行人失辞。有国有家者,分災救患,理之常也」)。」

 

前秦天王(秦王・苻堅)は大いに怒って輔国将軍・王猛、建威将軍・梁成、洛州刺史・鄧羌を派遣し、歩騎三万を率いて前燕を伐たせました。

十二月、前秦軍が洛陽に進攻しました。

 

『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『燕少帝紀』ではこの年十二月に王猛が洛陽を攻めて翌年正月に攻略しています。『十六国』『秦春秋』では十一月に王猛が燕を攻めて慕容紀に書を送り、慕容紀が投降を請うたので、十二月に王猛が投降を受け入れて帰還しています(慕容紀は洛陽を守っていたようです。但し、『資治通鑑』本文には慕容紀に関する記述はなく、慕容筑が翌年、王猛の書を受け取って、洛陽を挙げて投降します)

『献荘紀』では、前燕幽帝建熙元年二月に慕容令が前秦から奔って鄴に還っており(本年は幽帝建熙十年・359年なので、『燕少帝紀』の「建熙元年」は「十一年」の誤りではないかと思われます。慕容令は建熙十一年・360年に前秦を去って前燕に還ります)、当時、王猛はまだ洛陽にいて、慕容紀に送った投降を勧める書にも「去年、桓温が師(兵)を起こした」と書かれています。よって、『資治通鑑』は『燕書(『燕少帝紀』)』に従っており、本年十二月に王猛が洛陽を攻めて、翌年正月に攻略します。

 

[十二] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の大司馬・桓温が徐・兗二州の民を動員して広陵城を築き、鎮を遷しました。

 

当時は征役が頻繁に行われており、更に疫癘(疫病)が加わったため、死者が十分の四五に上り、百姓が嗟怨(怨嗟。嘆息・怨恨)しました。

祕書監・孫盛(『資治通鑑』胡三省注が祕書監について解説していますが、省略します)が『晋春秋』を著作して、時事についてありのままに書き記しました。

それを見た大司馬・桓温は怒って孫盛の子にこう言いました「枋頭では確かに利を失うことになった(誠為失利)。しかしどうして尊君(『資治通鑑』胡三省注によると、晋代の人は、人の子の前ではその父を「尊君」「尊公」と称しました)が言うほどだっただろう(それほどひどくはなかった。原文「何至乃如尊君所言」)。もしこの史書が行き渡るようなら、自然に君の門戸が閉じられることになるだろう(家門を滅ぼすことになるだろう。原文「若此史遂行,自是関君門戸事」)。」

孫盛の子は急いで拝謝し、史書を改める機会を請いました。

当時、孫盛は老齢のため家に住んでおり、性格は方正厳格で、軌度(法度、軌範)があり、子孫が斑白になっても(髪の一部が白くなっても)、ますます厳しく接していました(待之愈峻)。この時も諸子が共に号泣・稽顙(叩頭)して、百口(家族)のために考えを改めるように請いましたが(請為百口切計)、孫盛は大いに怒って同意しませんでした。そこで、諸子は勝手に内容を改めました。ところが、孫盛はあらかじめ別の本を書写しており、それが外国に伝わることになりました。

後に東晋孝武帝が異書(珍書)を買い求めた時、遼東の人からこの書を得て、当時、東晋に存在していた本とは違う内容だったため、両方が保存されることになりました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代93 東晋廃帝(七) 慕容令 370年(1)

東晋時代91 東晋廃帝(五) 慕容垂離反 369年(2)

今回は東晋廃帝太和四年の続きです。

 

[四] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

冬十月、大星が西に流れ、雷のような音が鳴りました(大星西流,有声如雷)

 

[五] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

己巳(二十二日)、東晋の大司馬・桓温が散卒(四散した兵)を収めて山陽(『資治通鑑』胡三省注によると、山陽は漢代の射陽県の地で、晋が山陽郡を置いて山陽県に改めました。唐代には楚州の治所になります)に駐屯しました。

桓温は喪敗(失敗、敗戦)を深く恥じました。そこで、罪を豫州刺史・袁真に帰す上奏をし(石門の水路を開くことができず、食糧が続かなくなったからです)、袁真を罷免して庶人に落としました。また、冠軍将軍・鄧遐の官も免じました。

 

袁真は桓温が自分を誣告したとみなして不満を抱き(真以温誣己不服)、桓温の罪状を上表しましたが、朝廷は回答しませんでした(不報)

そのため袁真は寿春(『資治通鑑』では「寿春」、『晋書・海西公紀』では「寿陽」です)を占拠して東晋に叛し、前燕に投降して、併せて救援を請いました。また、前秦にも使者を派遣しました。

 

桓温は毛虎生に淮南太守を兼任させて(領淮南太守)、歴陽を守らせました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。本来、淮南太守は寿春を治所にしていましたが、袁真が寿春を占拠して叛したため、毛虎生に歴陽を守らせ、外は寿春に備えて内は江南の守備にしました)

 

[六] 『資治通鑑』からです。

前燕と前秦が好を結んだため、使者が頻繁に往来するようになりました。前燕の散騎侍郎・郝晷と給事黄門侍郎・梁琛も相継いで前秦に入ります。

 

郝晷と王猛は旧交があったため、王猛は平生(通常の友人に対する態度)によって郝晷に接し、東方の事を問いました。

郝晷は前燕の政事が正されていないのに前秦は大いに治まっているのを見て(見燕政不修而秦大治)、秘かに王猛に自分を託そうと欲して、多くの実情を漏らしました(陰欲自託於猛,頗泄其実)

 

梁琛が長安に至った時、前秦天王(秦王・苻堅)はちょうど万年(『資治通鑑』胡三省注によると、万年は秦代の櫟陽で、西漢高帝が改名しました。漢代は馮翊に属し、晋代は京兆に属しました)で狩りをしていました。天王が梁琛を引見しようと欲しましたが、梁琛はこう言いました「秦使が燕に至ったら、燕の君臣は朝服を着て礼を備え、宮廷を灑掃(掃除)し、そうした後にやっと(使者に)会おうとします(然後敢見)。今、秦王は野(郊外)で会おうと欲していますが、使臣(私)には敢えて命を聞くことができません(今秦王欲野見之,使臣不敢聞命)。」

尚書郎・辛勁が梁琛に言いました「賓客が入境したら、ただ主人が処すところ(主人が居る場所。または主人の処置)に従うものだ(惟主人所以処之)。なぜ君にその礼を専制することができるのだ(君が主人の礼を勝手に決めることはできない。原文「君焉得専制其礼」)。そもそも、天子は『乗輿』と称し、至った場所は『行在所』というではないか。なぜ一定の居場所あるのだ(何常居之有)。また、『春秋』にも遇礼(の記述)がある。なぜ(郊外で会うのが)相応しくないのだ(何為不可乎)。」

「遇礼」について『資治通鑑』胡三省注が解説しています。『春秋』の「隠公四年」に、魯の隠公と宋の殤公が清邑で会見したという記述があります。この時、両国の君主は道中で遭遇した時のように簡略した礼を用いたため、これを「遇礼」といいました。

 

梁琛が言いました「晋室が綱紀を失って混乱したので、霊祚(神明による福)が徳に帰して、二方(燕と秦)が国運を継承し、共に明命を受けました(晋室不綱,霊祚帰徳,二方承運,俱受明命)。ところが桓温が猖狂(欲のままに振る舞うこと)して、我が王略(帝王の領土)を窺いました。燕が危うくなったら秦は孤立し、単独では立てなくなるので、秦主は時の患いを共に憂慮して、好を結んで援助したのです(燕危秦孤,勢不独立,是以秦主同恤時患,要結好援)(その結果)東朝(前燕)の君臣は首を延ばして西を望み、(自分達が桓温と)競えなかったために隣国の憂いを為してしまったことを慚愧して、西使(前秦の使者)が来た際には、恭敬を加えて待遇しています(東朝君臣引領西望,愧其不競以為隣憂,西使之辱敬待有加)。今、強寇が既に退き、交聘(使者の往来)がまさに始まったところなので、礼を崇めて義を厚くすることによって、二国の歓(交流による歓び、友誼)を固めるべきだと考えます(謂宜崇礼篤義以固二国之歓)。もしも使臣(私)に対して忽慢(軽視・軽慢)な態度をとるのなら、それは燕を軽視することであり、どうして修好の義(道理)なるでしょう(若忽慢使臣,是卑燕也,豈修好之義乎)

天子とは四海を家とするものなので、移動している時は(天子がいる場所を)『乗輿』といい、止まったら『行在』といいます(故行曰乗輿,止曰行在)(しかし)今は海県(神州。中国)が分裂して、天光が曜(輝き)を分けています(四海を家としているのではありません)。どうして『乗輿』『行在』を言い訳にすることができるのでしょう(安得以乗輿行在為言哉)

礼においては、約束をせずに会うことを『遇』といいます(礼不期而見曰遇)。思うに、(魯隠公と宋殤公は)事情に応じて臨機応変な行動をとったから、その礼が簡略だったのであって、どうして平時の従容としている時に、そのようにすることができるでしょう(蓋因事権行,其礼簡略,豈平居容与之所為哉)。客使が単独で訪問したら、確かに主人に屈する必要があります。しかしもし(主人が)礼に則らないようなら、やはり従うわけにはいきません(客使単行,誠勢屈於主人。然苟不以礼,亦不敢従也)。」

天王は梁琛のために行宮を設けて、百僚を陪位(参列、同席)させ、その後、客を招き入れて、燕朝の儀(前燕が使者を接見する時の儀礼)と同等にしました。

 

(接見)が終わってから、天王が梁琛のために私宴を開きました。

天王が問いました「東朝(前燕)の名臣とは誰だ(東朝名臣為誰)?」

梁琛が答えました「太傅・上庸王・評は明徳が盛んな皇族で、多方面で王室を輔佐しています(明徳茂親,光輔王室)。車騎大将軍・呉王・垂は雄略が世に冠しており、敵を撃退して侵攻を防ぎました(雄略冠世,折衝禦侮)。その他の者も、あるいは文によって(官位を)進められ、あるいは武によって用いられ、それぞれの官が全てその職責に釣り合っており、野には取り残された賢才がいません(其余或以文進或以武用,官皆称職,野無遺賢)。」

 

梁琛の従兄・梁奕は前秦で尚書郎になっていました。

天王は梁奕を典客(来客の担当)にして、梁琛を梁奕の舍(家)に泊まらせました。

しかし梁琛はこう言いました「昔、諸葛瑾(諸葛亮の兄)が呉のために蜀を聘問した時、諸葛亮とは公朝(公の朝廷)だけで会い、退いたら私面(個人的に会うこと)がありませんでした。余(私)は心中でこれを慕っています(余竊慕之)。今回、(私が秦への)使者になったところ、私室(私人の家)に置かれることになりましたが、そのようにはできません(今使之即安私室,所不敢也)。」

結局、梁琛は梁奕の舎に泊まりませんでした。

 

梁奕がしばしば梁琛の邸舍(館舎)に来て臥起(起居)を共にし、時間があれば東国の事について問いましたが(間問琛東国事)梁琛はこう答えました「今は二方が分拠して、兄弟が並んで(各国で)栄龐を蒙っているので、その本心(本意、本音)を論じるとしても、それぞれに所属する場所があります(「それぞれに所属する場所があり、立場が異なるので、私が本心を述べたいと思っても、あなたがそれを聞くことはできない」という意味だと思います。原文「論其本心,各有所在」)。琛(私)が東国の美を言おうと欲しても、恐らくそれは西国が聞きたいと欲することではなく、(私が)その悪を言おうと欲しても、それは使臣に論じられることではありません。兄はなぜ質問するのですか(兄何用問為)。」

 

天王は太子に梁琛を招かせて会見させました。

秦人は梁琛に太子を拝させようと欲し、あらかじめ示唆してこう言いました「隣国の君とは、自分の君のようなものである(猶其君也)。隣国の儲君(後嗣、太子)も、どうして(自国の太子と)異なるだろう(亦何以異乎)。」

梁琛はこう言いました「天子の子は元士(天子の士)とみなされます。これは(太子が)卑賎から高貴に登ることを欲するからです(原文「天子之子視元士,欲其由賎以登貴也」。『資治通鑑』胡三省注によると、『礼記・郊特牲』の「天子の長子は士である。天下には生まれながらに尊貴な者はいないからである(天子之元子,士也,天下無生而貴者也)」という言葉が元になっています)(天子の士にすぎない太子は)父の臣すら自分の臣とみなすことができないのですから、他国の臣ならなおさらではありませんか(尚不敢臣其父之臣,況他国之臣乎)。たとえ純敬(純粋に敬う心)がなくても、礼に則った往来があったら、情(心中)においてどうして恭敬を忘れることがあるでしょう。(太子に拝礼しないのは)ただ、(いたずらに自分の)身を落として屈した結果、面倒を招くことを恐れるからです(苟無純敬,則礼有往来,情豈忘恭,但恐降屈為煩耳)。」

結局、梁琛は太子に対して拝礼を行いませんでした。

 

王猛が梁琛を留めるように勧めましたが、天王は同意しませんでした。

 

[七] 『資治通鑑』からです。

前燕幽帝(燕主・慕容暐)が大鴻臚・温統を派遣し、袁真を使持節・都督淮南諸軍事・征南大将軍・揚州刺史に任命して宣城公に封じました。

しかし温統は淮水を越える前に死にました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

前燕の呉王・慕容垂が襄邑から鄴に還りました。威名が更に振るうようになったため、太傅・慕容評がますます慕容垂を嫌います。

 

慕容垂が上奏しました「(朝廷が)募った将士は自分の身を忘れて効(功)を立て(所募将士忘身立効)、将軍・孫蓋等は敵の鋭鋒を打ち砕いて陣を落としました(椎鋒陥陳)(彼等は)殊賞(特別な褒賞)を蒙るべきです。」

しかし慕容評が全ての上奏を抑えて実行しなかったため、慕容垂はしばしばこの事に言及して、慕容評と朝廷で争いました。こうして二人の怨隙がますます深くなります。

 

太后・可足渾氏はかねてから慕容垂を嫌っていました(東晋穆帝升平二年・358年参照)

そこで、慕容垂の戦功を貶めて(毀其戦功)、慕容評と共に慕容垂誅殺について密謀しました。

太宰・慕容恪の子・慕容楷と慕容垂の舅(母の兄弟)・蘭建がこの事を知り、慕容垂にこう告げました「先に行動すれば人を制すことができます(先発制人)(慕容)評および楽安王・臧を除きさえすれば、残った者には何もできません(余無能為矣)。」

しかし慕容垂はこう言いました「骨肉で害しあい、国に対して率先して乱を起こしたら、私には死があるだけだ。そのようにするのは忍びない(骨肉相残而首乱於国,吾有死而已,不忍為也)。」

暫くして二人がまたこう告げました「内意(可足渾后の意志)は既に決しました。早く行動しないわけにはいきません(不可不早発)。」

慕容垂はやはりこう言いました「どうしても間隙を補うことができないのなら、私はむしろ外に出てそれを避けよう。その他の方法は、議論することではない(必不可彌縫,吾寧避之於外,余非所議)。」

 

慕容垂は内心で憂いを抱きましたが、諸子に告げることはできませんでした。

すると世子・慕容令が恭しくこう問いました(請曰)「尊(尊父。慕容垂)は最近、憂色がありますが、主上(陛下)が幼沖(幼少)で、太傅が賢才を妬み、(あなたの)功績が高くて声望が重くなればなるほど、猜疑されるからではありませんか(尊比者如有憂色,豈非以主上幼沖,太傅疾賢,功高望重,愈見猜邪)?」

慕容垂が言いました「その通りだ(然)。私が力を尽くして命をかけることで強寇(強敵。東晋)を破ったのは、本来、家国(家と国。国家)を保全したいと欲したからだ(吾竭力致命以破強寇,本欲保全家国)。どうして功が成った後に、かえってこの身を容れる場所を無くならせてしまうことになると想像できただろう(豈知功成之後,返令身無所容)。汝は既に私の心を知った。何をもって私のために謀るか(汝が思うに、私は如何すべきだ。原文「何以為吾謀」)?」

慕容令が言いました「主上は闇弱で太傅に委任しているので、一旦に禍が発したら、疾(痛苦、または憂患)は駭機にあります(ある日、禍が発したら、対処する間もなく大きな憂患となります。原文「一旦禍発,疾於駭機」。「駭機」は弩が突発的に矢を放つことで、「突然おとずれる災難」の比喩です)。今、家族を保って自分の身を守り、大義も失いたくないと欲するなら、龍城に逃げて、辞を低くして謝罪することで、主上が察するのを待つしかありません(今欲保族全身不失大義,莫若逃之龍城,遜辞謝罪,以待主上之察)(そのようにすれば)周公が東に住んだ時と同じように、あるいは(主上が)感寤して(あなたは)還ることができるかもしれません(西周初期、即位したばかりの成王が周公を疑ったため、周公は東征に出ました。後に成王が誤りを悟って周公を迎え入れました)。これは最も幸運なことです(若周公之居東,庶幾感寤而得還,此幸之大者也)。もしそうならなかったら、内は燕・代を慰撫し、外は群夷を懐柔し、肥如の険を守ることで自分を保つべきです。これは次の方法です(原文「如其不然,則内撫燕代,外懐群夷,守肥如之険以自保,亦其次也」。『資治通鑑』胡三省注によると、「肥如の険」は盧龍の塞を指します)。」

慕容垂は「善し」と言いました。

 

十一月辛亥朔(『二十史朔閏表』によると、この年十一月は「丁丑」が朔なので、「辛亥」を「朔」とするのは誤りです)、慕容垂が大陸(『資治通鑑』胡三省注によると、かつて鉅鹿を大鹿といい、大陸沢がありました。広阿沢ともいいます)で狩猟をする許可を請い、その機に微服(庶民の服。おしのび)で鄴を出て、龍城に向かおうとしました。しかし邯鄲(『資治通鑑』胡三省注によると、邯鄲県は、漢代は趙国に属し、晋代は広平郡に属しました。後に東魏が廃しますが、隋が再び置き、唐代は磁州に属します)に至った時、少子・慕容麟がかねてから慕容垂に愛されていなかったため、逃げ還って告発しました。慕容垂の左右から多くの者が亡叛(逃亡離反)します。

 

太傅・慕容評が幽帝(燕主・慕容暐)に報告し、西平公・慕容強を派遣して、精騎を率いて慕容垂を追撃させました。

慕容強は范陽で追いつきましたが、慕容垂の世子・慕容令が後ろを断ったため(原文「世子令断後」。慕容令が慕容垂の殿軍になったという意味だと思います)、慕容強は敢えて逼ることができなくなりました。

 

ちょうど日が暮れました。

慕容令が慕容垂にこう言いました「本来は東都(龍城)を保って自分を守ろうと欲しましたが、今は事が既に漏れてしまい、計謀を設ける時間がありません(本欲保東都以自全,今事已泄,謀不及設)。秦主はまさに英傑を招き入れているので、これに帰すべきです(秦主方招延英傑,不如往帰之)。」

慕容垂が言いました「今日の計は、これを捨ててどこに行けるだろう(そうするしかない。原文「今日之計,舍此安之」)。」

慕容垂は騎兵を分散させて足跡を消し(散騎滅迹)、南山に沿って再び鄴に還り、趙の顕原陵に隠れました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。范陽から南山に沿って還ったというのは、中山と常山の山谷の間を通って南に還ったという意味のようです。顕原陵は後趙武帝・石虎の陵墓です)

すると俄かに数百騎の猟者が四面から接近して来ました。慕容垂は抵抗しても敵うはずがなく、逃げようとしても逃げ道がないため、為す術がなくなります(抗之則不能敵,逃之則無路,不知所為)。その時、ちょうど猟者の鷹が全て飛颺(飛翔)したため、衆騎(多数の騎馬)は分散して去って行きました。

慕容垂は(天に感謝して)白馬を殺して天を祭り、それを機に従った者達とも盟を結びました。

 

世子・慕容令が慕容垂に進言しました「太傅は賢人を嫌って能力がある者に嫉妬しており(忌賢疾能)、事を謀ってから(慕容垂誅殺の密謀を指します)、人々が更に忿恨(憤怒怨恨)しています(搆事以来,人尤忿恨)。今、鄴城の中では、尊(あなた)の居場所を知る者がなく、まるで嬰児が母を思うようであり、夷夏(異民族と漢族)がこれ(このような心情)を同じくしています(莫知尊処,如嬰児之思母,夷夏同之)。もしも衆心に順じてその無備(不備)を襲えば、これを取るのは掌を指さすように簡単でしょう(取之如指掌耳)。事が定まった後、弊害を除いて能力がある者を選び、大いに朝政を正し、そのようにして主上を輔佐し、国を安んじて家を存続させれば、大きな功績となります(事定之後,革弊簡能,大匡朝政,以輔主上,安国存家,功之大者也)。今日の便(利。機会)は誠に失うべきではありません。騎兵数人を与えられることを願います。そうすれば、これを成すに足ります(今日之便誠不可失,願給騎数人足以辦之)。」

しかし慕容垂はこう言いました「汝の謀のようにしたら、事が成功したら誠に大福となるが、成功しなかったら後悔しても及ばなくなる(如汝之謀,事成誠為大福,不成悔之何及)。西に奔ることで、万全としたほうがいい(不如西奔,可以万全)。」

 

子の馬奴(原文「子馬奴」。慕容垂の子に仕える馬夫だと思います。あるいは、慕容垂の子で、名を「慕容馬奴」というのかもしれません)が秘かに謀って逃げ帰ろうとしましたが、(慕容垂が)これを殺しました。

慕容垂が出発して河陽に至った時、津吏に(渡河を)禁じられましたが、津吏を斬って渡りました。

その後、洛陽を経由して西に向かい、段夫人、世子・慕容令、慕容令の弟・慕容宝、慕容農、慕容隆、兄の子・慕容楷、舅(母の兄弟)・蘭建、郎中令・高弼と共に前秦に奔りました。妃の可足渾氏は鄴に残されます(段夫人は慕容垂の前妃の妹で、可足渾妃は可足渾太后の妹です。東晋穆帝升平二年・358年参照。『資治通鑑』胡三省注によると、高弼は慕容垂の国卿です)

 

乙泉戍の主・呉帰が追撃して閺郷で追いつきましたが、世子・慕容令が撃退しました『資治通鑑』胡三省注によると、乙泉戍は魏該が守っていた乙泉塢のようです。宜陽県西南、洛水の北原にありました。閺郷は弘農湖県にありました)

 

 

次回に続きます。

東晋時代92 東晋廃帝(六) 前秦と前燕 369年(3)

東晋時代90 東晋廃帝(四) 桓温の北伐失敗 369年(1)

今回は東晋廃帝太和四年です。三回に分けます。

 

東晋廃帝太和四年

前涼沖王太清七年/前燕幽帝建熙十年/前秦天王建元五年

己巳 369年

 

[一] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

春三月、東晋の大司馬・桓温が徐兗二州刺史・郗愔、江州刺史・桓沖、豫州刺史・袁真等と共に前燕を伐つ許可を請いました。

 

郗愔が北府(『資治通鑑』胡三省注によると、晋は建康に都を置いてから、京口を北府、歴陽を西府とし、姑孰を南州としました)にいた時、桓温は常にこう言っていました「京口は酒を飲むことができて、兵を用いることができる(京口は酒も兵も優れている。原文「京口酒可飲,兵可用」)。」

桓温は郗愔が北府に居ることを甚だ望んでいませんでしたが(深不欲愔居之)、郗愔は事機(時勢、情勢)に対して暗かったため、桓温に牋(書信)を送り、共に王室を輔佐することを欲して、自身の兵を監督して河上に出る許可を請いました(欲共獎王室,請督所部出河上)

当時、郗愔の子・郗超は桓温の参を勤めていました。郗超は父の牋を受け取って中身を視てから、粉々に破り棄て(寸寸毀裂)、改めて郗愔の牋を書き直しました。その内容は、自分は将帥の才ではないので軍旅に堪えることができず、しかも老病(老齢病弱)なので、閒地(空地。または閑職)を求めて自分を養うことを乞い、桓温に自分が統括する部衆も併せて統領するように勧める、というものでした。

牋を得た桓温は大いに喜び、すぐに郗愔を冠軍将軍・会稽内史(『資治通鑑』胡三省注によると、会稽は王国になったので、太守を内史に改めました)に遷して、自ら徐兗二州刺史を兼任しました(自領徐兗二州刺史)

 

夏四月庚戌(初一日)、桓温が歩騎五万を率いて姑孰を発しました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

甲子(十五日)、前燕幽帝(燕主・慕容暐)が可足渾氏を皇后に立てました。可足渾皇后は太后の従弟に当たる尚書令・豫章公・可足渾翼の娘です。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

東晋の大司馬・桓温が兗州から出兵して前燕を伐ちました。

郗超が「道が遠く、汴水も浅いので(『資治通鑑』胡三省注によると、汴水には泥が溜まっていましたが、兵乱のため水利を修める者がなく、水が浅くなっていました)、恐らく漕運(水運)を通すのが困難です」と言いましたが、桓温は従いませんでした。

 

六月辛丑(『二十史朔閏表』によると、この年六月は「庚戌」が朔なので、「辛丑」はありません)、桓温が金郷(金郷県は、東漢は山陽郡に属し、晋は高平郡に属しました。隋は済陰郡に、唐は兗州に、宋は済州に属します)に至りました。

この時、旱害に襲われたため、水道が絶たれました(天旱水道絶)

そこで桓温は冠軍将軍・毛虎生に鉅野で三百里を穿たせ(鑿鉅野三百里)、汶水を引いて清水に合流させました(『資治通鑑』胡三省注が汶水と清水について解説していますが、省略します)。毛虎生は毛寶の子です(毛寶は薊峻の乱で功を立てました)

桓温は舟師を率いて清水から黄河に入りました。舳艫(船舶。または船頭と船尾)が数百里に連なります。

郗超が言いました「清水から河に入ったら、通運(物資の輸送)が難しくなります(『資治通鑑』胡三省注によると、清水から黄河に入る時は逆流になっており、しかも遠回りなので、輸送が困難でした)。もしも寇(賊)が戦おうとせず、運道(輸送路)も絶たれたら、敵の物資を利用しようとしても得る物が無くなってしまうので、これは危道となります(若寇不戦,運道又絶,因敵為資,復無所得,此危道也)。それよりも、現有の衆を全て挙げて直接、鄴城に向かうべきです(不若尽挙見衆直趨鄴城)(そうすれば)彼等は公の威名を畏れて、必ず動静を聞いただけで逃走・潰滅し(望風逃潰)、北の遼・碣(遼東・碣石)に帰るでしょう。もし(彼等が)出て来て戦えるようなら、(我々は)事をすぐに決することができます(若能出戦則事可立決)。もし(彼等が)鄴の城を修築してこれを守ろうとしても、盛夏に当たる時なので、功力を為すのは難しく(労役の成果を得るのは難しく)、百姓が(労役のために)野に分布するので、全て官(東晋)が有すことになり、易水以南は必ず交臂(拱手)して命を請うようになるでしょう(若欲城鄴而守之,則当此盛夏難為功力,百姓布野尽為官有,易水以南必交臂請命矣)。ただ恐れるのは、明公がこの計を軽鋭(軽率・性急)とみなし、勝敗を判断するのは難しいので、持重(慎重)に務めようと欲することです(但恐明公以此計軽鋭,勝負難必,欲務持重)。もしそのように欲するなら、兵を河・済(黄河・済水一帯)で止めて、漕運を制御下に置き、資儲(物資の蓄え)が充備(充実)するのを待って、来夏になってから兵を進めるべきです(則莫若頓兵河済,控引漕運,俟資儲充備,至来夏乃進兵)。これでは賖遲(延期、先延ばし)するようなものですが、成功を確実にするためにそうするのです(雖如賖遅,然期於成功而已)。もしこの二策を捨てて、軍を連ねて北上したら、進んでも(積極的な態度を採っても)速決できず、退いたら(消極的になったら)必ず愆乏(失敗によって窮乏すること)することになります(進不速決,退必愆乏)。賊はこの勢(形勢、情勢)を利用して、日月を使って引き延ばすので(時間をかせぐので)、徐々に秋冬に及び、水が更に澀滞(滞留)します(賊因此勢以日月相引,漸及秋冬,水更澀滞)。しかも北土は早く寒くなるのに、(我が)三軍で裘褐の者(防寒の服を着た者)は少ないので、恐らくその時に憂いるのは、食糧がないことだけではすまないでしょう(恐於時所憂,非独無食而已)。」

桓温はこの意見にも従いませんでした。

『資治通鑑』胡三省注によると、鄴城に直接向かって一戦で勝負を決する策は危険なので、桓温はその策に従うことができませんでした。また、河・済に兵を留めて翌年を待つ策は、前燕に準備をさせてしまうことになるので、やはり採用しませんでした。

 

桓温が建威将軍・檀玄を派遣して湖陸(『資治通鑑』胡三省注によると、湖陸県は、西漢は湖陵といい、山陽郡に属しました。東漢章帝が湖陸に改名し、晋が山陽郡から分けて高平郡に属させました)を攻めさせ、攻略しました。前燕の寧東将軍・慕容忠を捕えます。

 

『晋書・第八・海西公紀』は「秋七月辛卯(十三日)、慕容暐の将・慕容垂が衆を率いて桓温に抵抗したが、桓温がこれを敗った」と書いています。中華書局『晋書・海西公記』校勘記は、「慕容垂」は恐らく「慕容忠」の誤り、と解説しています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

前燕幽帝(燕主・慕容暐)が下邳王・慕容厲を征討大都督に任命し、歩騎二万を率いて黄墟(『資治通鑑』胡三省注によると、外黄県の東に黄城があり、兵乱によって城邑が丘墟(廃墟)になっていたため、「黄墟」と呼ばれました)で逆戦(迎撃)させましたが、慕容厲は兵が大敗し、単馬で奔って帰還しました。

 

高平太守・徐翻が郡を挙げて東晋に投降しました。

 

東晋の前鋒・鄧遐と朱序も林渚(地名。『資治通鑑』胡三省注が解説していますが、省略します)で前燕の将・傅顔を敗りました(『晋書・海西公紀』は九月に書いています。再述します)

 

前燕幽帝は新たに楽安王・慕容臧を派遣し、諸軍を統率して桓温を防がせました。しかし慕容臧では東晋軍に対抗できなかったため、更に散騎常侍・李鳳を派遣して、前秦に救援を求めました。

 

秋七月、桓温が武陽(『資治通鑑』胡三省注によると、この「武陽」は東武陽です。漢代は東郡に属し、魏晋は陽平郡に属しました。唐代には朝城県に改められて魏州に属します)に駐屯しました。

 

前燕の元兗州刺史・孫元がその族党を率いて兵を起こし、桓温に応じました。

桓温は枋頭に至ります。

 

前燕幽帝と太傅・慕容評は大いに懼れ、和龍に奔ることを謀りました。しかし呉王・慕容垂がこう言いました「臣がこれを撃つことを請います。もし勝てなかったら、それから走っても晩くはありません(若其不捷,走未晚也)。」

幽帝は慕容垂を楽安王・慕容臧に代えて使持節・南討大都督とし、征南将軍・范陽王・慕容徳等の衆五万を率いて桓温を防がせました。

慕容垂は上表して司徒左長史・申胤、黄門侍郎・封孚、尚書郎・悉羅騰(悉羅が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、悉羅騰は夷人で、部落名を氏にしたようです)を従軍させました。申胤は申鍾の子、封孚は封放の子です(申鍾は、東晋成帝咸和九年・334年の記述では「申鐘」、成帝咸康六年・340年の記述では「申鍾」と書かれています。封放は東晋穆帝永和七年・351年に登場しました)

 

幽帝は更に散騎侍郎・楽嵩を派遣して前秦に救援を請い、報いとして虎牢以西の地を譲ることに同意しました(許賂以虎牢以西之地)

前秦天王(秦王・苻堅)が群臣を招いて東堂で討議すると、皆こう言いました「昔、桓温が我々を伐ち、灞上に至った時(東晋穆帝永和十年・354年)、燕は我々を救いませんでした。今、桓温が燕を伐ちましたが、なぜ我々が(彼等を)救うのですか(我何救焉)。そのうえ、燕は我々に対して藩を称していません。我々は何のためにこれを救うのですか(我何為救之)。」

王猛が秘かに天王に言いました「燕は強大ですが、慕容評は桓温の敵ではありません。もし桓温が山東を挙げて、進んで洛邑に駐屯し、幽・冀の兵を収め、并・豫の粟(食糧)を引き入れ、崤・澠(崤山と澠池)で観兵(閲兵。武威を示すこと)したら、陛下の大事が去ってしまいます。今は燕と兵を合わせて桓温を退けた方がいいでしょう。桓温が退いた時には、燕も病んでいます(燕も疲弊しています。原文「温退,燕亦病矣」)。その後、我々が彼等の疲弊に乗じてそれを取るというのも、良計ではありませんか(然後我承其弊而取之,不亦善乎)。」

天王はこの意見に従いました。

 

八月、天王が将軍・苟池と洛州刺史・鄧羌を派遣し、歩騎二万を率いて前燕を救わせました。前秦軍は洛陽を出て潁川(『資治通鑑』胡三省注によると、潁川郡の治所は許昌です)に至ります。また、散騎侍郎・姜撫を使者として派遣し、前燕に連絡しました。

王猛を尚書令に任命しました。

 

前燕の太子太傅・封孚が申胤に問いました「桓温は衆が強くて士が整っており、(川の)流れに乗じて直進しているのに、今、大軍をいたずらに高岸で逡巡(停留、徘徊)させて、兵器が刃を接していません(戦いが起きていません。原文「兵不接刃」)。いまだに克殄の理(戦勝の道理)が見えませんが、この事はこれからどうなるでしょう(未見克殄之理,事将何如)?」

申胤が言いました「桓温の今日の声勢をもってしたら、何かを為すことができそうですが、私が観たところでは、功を成せるはずがありません(以温今日声勢似能有為,然在吾観之必無成功。)。それはなぜでしょうか(何則)。晋室が衰弱して桓温がその国を専制していますが、晋の朝臣が全て彼と同心であるとは限りません(晋之朝臣未必皆与之同心)。よって、桓温が志を得るのは、多くの人が願わないことであり、(彼等は)必ず乖阻(違反、妨害)してこの事を失敗させるはずです(故温之得志衆所不願也,必将乖阻以敗其事)。また、桓温は驕慢なうえ衆(多勢)を恃みとしていますが、臨機応変に動くことには消極的になっています(驕而恃衆,怯於応変)。大衆(大軍)が深く進入したら、まさに(その勢いに)乗じる時であるのに、逆に中流で逍遥としており、出撃して利に赴こうとせず、持久を望んで坐したまま全勝しようと欲しています(大衆深入,値可乗之会,反更逍遙中流,不出赴利,欲望持久,坐取全勝)。もしも糧廩(食糧)が予定通り入らず、情況に勢いの衰えが現れたら、必ず戦わずに自ら敗れます。これは自然の数(道理)です(若糧廩愆懸,情見勢屈,必不戰自敗,此自然之數)。」

 

桓温が前燕の降人・段思を郷導(先導)にしましたが、悉羅騰が桓温と戦って段思を生捕りにしました。

また、桓温が元趙将・李述に趙・魏を攻略させようとしましたが、悉羅騰が虎賁中郎将・染干津と共に李述を撃って斬りました(染干津は染干が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、悉羅と同じく夷人の姓です)

桓温の軍が士気を奪われます。

 

これ以前に桓温は豫州刺史・袁真に譙・梁(『資治通鑑』胡三省注によると、譙郡と梁国です)を攻撃させ、石門(地名)の水路を開いて水運を通じさせようとしました。

袁真は譙・梁を攻略しましたが、石門を開くことができず、水運の路が塞がれました。

 

九月、前燕の范陽王・慕容徳が騎兵一万を指揮し、蘭台侍御史・劉当(『資治通鑑』胡三省注によると、『資治通鑑』の版本によっては「蘭台侍御史」を「蘭台治書侍御史」としています)が騎兵五千を指揮して石門に駐屯し、豫州刺史・李邽(『資治通鑑』胡三省注によると、前燕の豫州刺史は許昌を治所にしました)が州兵五千を率いて桓温の糧道を断ちました。劉当は劉佩の子です(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。劉佩は慕容皝の将で、石虎を退けたり宇文氏を攻撃して功を立てました)

 

慕容徳は将軍・慕容宙に騎兵千人を率いさせて前鋒としました。

慕容宙は東晋の兵に遭遇するとこう言いました「晋人は軽剽(軽率・性急)で、敵陣を攻略する時は臆病だが、退く敵に乗じる時は勇敢だ(怯於陷敵,勇於乗退)。餌を設けてこれを釣るべきだ(宜設餌以釣之)。」

そこでまず二百騎に戦いを挑ませ、残りの騎兵は三方に分けて埋伏させました。戦いを挑んだ者が兵器を交える前に逃走したため、晋兵が追撃します。そこを慕容宙が伏兵を指揮して攻撃しました。晋兵の死者は甚だ多数に上りました。

 

桓温は戦ってもしばしば不利になり、糧儲(食糧の蓄え)も尽きたうえに、秦兵がもうすぐ至るという情報も聞きました。

丙申(十九日)、桓温は舟を焼き、輜重・鎧仗を棄てて、陸道から奔って還りました。毛虎生を督東燕等四郡諸軍事・領東燕太守(『資治通鑑』胡三省注によると、東燕郡は江左(東晋)が濮陽を分けて立てました。祖逖が豫州にいた時に置かれたようです)に任命します。

 

桓温は東燕から倉垣に出て、井戸を掘って水を飲み、七百余里を行軍しました(『資治通鑑』胡三省注によると、汴水も済瀆(済水?)も北から南に流れており、追手の兵が上流で毒を流す恐れがあるため、井戸を掘りました)

 

前燕の諸将が争って桓温を追撃しようと欲しましたが、呉王・慕容垂がこう言いました「それはならない(不可)。桓温は退却を始めたばかりで惶恐しているので、必ず厳しく警備を設け、精鋭を選んで後拒(殿軍)としているはずだ。これを撃っても志を得られるとは限らない。よって、(追撃を)緩めるべきだ(撃之未必得志,不如緩之)。我々が至らないことを彼が幸いとしたら、必ず昼夜をかけて疾駆する。その士衆が力尽きて気を衰えさせるのを待ち、その後に(我々が)彼等を撃てば、勝てないはずがない(彼幸吾未至,必昼夜疾趨,俟其士衆力尽気衰,然後撃之,無不克矣)。」

慕容垂は八千騎を指揮してゆっくりと桓温の後を追いました。

 

果たして桓温は兼道(昼夜兼行)して進みました。

数日後、慕容垂が諸将に「桓温を撃つことができる(温可撃矣)」と告げて急追しました。襄邑(『資治通鑑』胡三省注によると、襄邑県は漢代から陳留郡に属しました)で桓温に追いつきます。

范陽王・慕容徳が勁騎(精鋭騎兵)四千を襄邑東の澗中(山谷の中)に埋伏させてから、慕容垂と共に桓温を挟撃して大破しました。燕軍が斬首した数は三万級に上ります。

 

前秦の苟池も譙で桓温を邀撃して破りました。晋軍の死者はこの戦いでも万を数えます。

孫元が武陽を占拠して前燕を拒みましたが、前燕の左衛将軍・孟高がこれを討って捕えました。

 

『晋書・第八・海西公紀』は桓温の撤退についてこう書いています「九月戊寅(初一日)、桓温の裨将・鄧遐と朱序が林渚で慕容暐の将・傅末波と遭遇し、また大破した(『資治通鑑』は六月に置いており、「傅末波」は「傅顔」としています)。戊子(十一日)、桓温が枋頭に至った。丙申(十九日)、糧運が続かなくなったため、舟を焼いて帰った。辛丑(二十四日)、慕容垂が桓温の後軍を追って襄邑で敗った。」

 

 

次回に続きます。

東晋時代91 東晋廃帝(五) 慕容垂離反 369年(2)

東晋時代89 東晋廃帝(三) 前秦の内乱 368年

今回は東晋廃帝太和三年です。

 

東晋廃帝太和三年

前涼沖王太清六年/前燕幽帝建熙九年/前秦天王建元四年

戊辰 368年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月、前秦天王(秦王・苻堅)が後将軍・楊成世と左将軍・毛嵩を派遣し、それぞれ分かれて上邽(秦州)と安定(雍州)を討たせました。また、輔国将軍・王猛と建節将軍・鄧羌を派遣して蒲阪(并州)を攻めさせ、前将軍・楊安と広武将軍・張蚝を派遣して陝城(洛州)を攻めさせました。

但し、天王は蒲・陝の軍(蒲阪と陝城に派遣した軍)に対して命を下し、どちらも城から三十里離れた場所で塁壁を堅めるだけにして、戦うことは禁止し(堅壁勿戦)、秦・雍が平定されてから、力を合わせてこれらを取ることにしました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

以前、前燕の太宰・大司馬・慕容恪は、病を患った時慕容恪は前年に死にました。以下、生前の出来事です)、幽帝(燕主・慕容暐)が幼弱で自身では政権を掌握しておらず(政不在己)、太傅・慕容評は猜忌(猜疑・嫉妬)が多かったので、大司馬の任が相応しくない者に委ねられることを恐れ(恐大司馬之任不当其人)、幽帝の兄・楽安王・慕容臧にこう言いました「今、南には遺晋(晋の残り)がおり、西には強秦がおり、二国は常に進取の志を蓄えています。(我々を攻撃しないのは)ただ我々に隙が無いことを顧慮しているからです(顧我未有隙耳)。国の興衰とは輔相(輔政の宰相)に繋がっています。大司馬は六軍を総統するので、相応しくない人材に任せてはなりません(不可任非其人)。私が死んだ後、親疏に基いて言うなら、(大司馬に相応しい人選は)あなたと沖(慕容沖。下述)が当てはまります(以親疏言之,当在汝及沖)(しかし)あなた達は才識が明敏とはいえ、まだ年少なので、多難に堪えることができません(汝曹雖才識明敏,然年少,未堪多難)。呉王(慕容垂)は天資(天性の資質)が英傑で、智略が世の常人を超えているので(智略超世)、あなた達がもしも大司馬を辞退して彼に授けることができれば、必ず四海を混壹(統一)できます。外寇に至っては恐れるに足りません(汝曹若能推大司馬以授之,必能混壹四海,況外寇不足憚也)。利を冒して害を忘れ、国家を意としない(国家の事を考えない)というようなことは、くれぐれもあってはなりません(慎無冒利而忘害,不以国家為意也)。」

慕容恪は太傅・慕容評にも話をしました。

しかし慕容恪が死んでから、慕容評はその言葉を用いませんでした。

 

二月、車騎将軍・中山王・慕容沖を大司馬に任命しました。慕容沖は幽帝の弟です。

荊州刺史・呉王・慕容垂は侍中・車騎大将軍・儀同三司になりました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前秦の魏公・苻廋が陝城を挙げて前燕に降り、兵を出して応接(呼応)するように請いました。

秦人は大いに懼れ、兵を盛んにして(大集結させて)華陰(『資治通鑑』胡三省注によると、華陰県は陝城の西に位置し、潼関の険がありました)を守りました。

 

前燕の魏尹・范陽王・慕容徳(『資治通鑑』胡三省注によると、前燕は鄴に都を置いたため、魏郡太守を魏尹にしました)が上書してこう主張しました「先帝は天に応じて命を受け、六合(天地四方)の平定を志しました。陛下は纂統したので(皇統を継承したので)、それを継いで成就させるべきです。今、苻氏は骨肉が乖離し、国が分かれて五つになり(『資治通鑑』胡三省注によると、蒲阪、陝城、上邽、安定と長安の五つです)(苻廋が)誠意を投じて救援を請い、(使者が)前後して相継いでいます(投誠請援前後相尋)。これは天が秦を燕に下賜したのです(是天以秦賜燕也)。天が与えたのにそれを取らなかったら、逆に天の殃(禍)を受けることになます。呉・越の事は観るに足ります(教訓とするに足ります。原文「天与不取,反受其殃,呉越之事,足以観矣」。春秋時代、呉は越を滅ぼす好機を活かさなかったため、逆に越に滅ぼされました)。皇甫真に命じて、并・冀の衆を率いて直接、蒲阪に向かわせ、呉王・垂に命じて、許・洛の兵を率いて馳せて苻廋の包囲を解かせ、太傅(慕容評)に京師の虎旅(勇猛な軍隊)を統べて二軍の後継とさせ、三輔に檄を伝えて禍福を示し、購賞(懸賞・褒賞)を立てて明らかにするべきです(宜命皇甫真引并冀之衆徑趨蒲阪,呉王垂引許洛之兵馳解廋囲,太傅総京師虎旅為二軍後継,伝檄三輔,示以禍福,明立購賞)(そうすれば)彼等(三輔)は必ず動静を聞いてすぐに呼応します(望風響応)。渾壹の期(統一の時)はまさにここにあります(渾壹之期於此乎在矣)。」

 

当時、燕人の中には、陝を救ってそれを機に関中を図るように請う者が多数いました。

しかし太傅・慕容評はこう言いました「秦は大国である。今は確かに難があるが、まだ容易に図ることはできない。(また)朝廷(幽帝)は英明だが、まだ先帝には及ばず、我々の智略も太宰(慕容恪)の比ではない(秦大国也。今雖有難未易可図。朝廷雖明未如先帝,吾等智略又非太宰之比)。ただ関を閉じて国境を保つことができれば充分だ。秦の平定は我々の事ではない(但能閉関保境足矣,平秦非吾事也)。」

 

魏公・苻廋が呉王・慕容垂と皇甫真に牋(書信)を送りました「苻堅や王猛は皆、人傑であり、燕に患を為そうと謀って久しくなります。今、機に乗じてこれを取らなければ、恐らく異日(後日)、燕の君臣は甬東の悔を抱くことになるでしょう(原文「恐異日燕之君臣将有甬東之悔矣」。「甬東」は越に滅ぼされた呉王・夫差が住むように命じられた地です。夫差は自殺しました。「甬東の悔」は、機会を活かさなかったために亡国を招いた後悔の念を意味します)。」

慕容垂が皇甫真に言いました「今、人の患いになるのは、間違いなく秦です。しかし、主上(陛下)は春秋に富んでおり(まだ若く)、太傅の識度(見識・度量)を観ても、どうして苻堅や王猛と匹敵できるでしょう(原文「方今為人患者必在於秦,主上富於春秋,観太傅識度,豈能敵苻堅王猛乎」。前秦とまともに戦おうとしても敵わないので、この機会を利用するべきだ、という意味だと思います)。」

皇甫真が言いました「その通りです。しかし、私がそれを知っていても、進言したところで採用されないので、どうしようもありません(『資治通鑑』の原文は「然,吾雖知之,如言不用何」ですが、「如言不用何」の理解が困難なので、『晋書・載記第十一』の「謀之不従可如何」を参考にしました)。」

 

[四] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

三月丁巳朔、日食がありました

 

[五] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

癸亥(初七日)、東晋が大赦しました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

前秦の楊成世が趙公・苻雙の将・苟興に敗れ、毛嵩も燕公・苻武に敗れました。二人とも奔って帰還します。

前秦天王(秦王・苻堅)は更に武衛将軍・王鑒、寧朔将軍・呂光、将軍・馮翊の人・郭将、翟傉等を派遣し、三万の衆を率いて討たせました。

 

夏四月、苻雙と苻武が勝ちに乗じて楡眉に至りました。苟興を前鋒に任命します。

これに対して王鑒は速戦を欲しましたが、呂光がこう言いました「苟興は志を得たばかりで、気勢がまさに鋭くなっているので、持重(慎重な態度)によってこれに対応するべきです(興新得志,気勢方鋭,宜持重以待之)。彼等は食糧が尽きたら必ず退きます。退いてからそれを撃てば、成功しないはずがありません(彼糧尽必退,退而撃之,蔑不済矣)。」

 

果たして、二旬(二十日間)が経つと苟興が退却を始めました。

呂光が言いました「苟興を撃つことができます(興可撃矣)。」

こうして(王鑒等が)追撃して苟興を敗りました。これを機に苻雙と苻武も撃って大破し、斬獲(斬首・捕虜)が一万五千級に上ります。

苻武は安定を棄てて、苻雙と共に上邽に奔りました。

王鑒等が兵を進めてそれを攻めました。

 

[七] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

癸巳(初七日)、雹が降り、大風が吹いて木が倒れました(雨雹,大風折木)

 

[八] 『資治通鑑』からです。

晋公・苻柳がしばしば出撃して戦いを挑みましたが、王猛は応じませんでした。苻柳は王猛が畏れていると判断します。

五月、苻柳が世子・苻良を留めて蒲阪を守らせ、自ら二万の衆を率いて西の長安に向かいました。

しかし蒲阪から百余里離れた場所で、鄧羌が精騎七千を率いて夜襲し、苻柳を敗りました。

苻柳は軍を率いて還りましたが、王猛が邀撃してその衆を全て捕虜にしました。

苻柳は数百騎と共に入城し、王猛と鄧羌が兵を進めてこれを攻めました。

 

秋七月、王鑒等が上邽を攻略し、苻雙と苻武を斬りました。苻雙等の妻子は赦されました。

 

前秦が左衛将軍・苻雅を秦州刺史に任命しました。

八月、長楽公・苻丕を雍州刺史に任命しました。

 

[九] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

壬寅(十八日)、東晋の尚書令・衛将軍・藍田侯・王述が死にました。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

九月、王猛等が蒲阪を攻略し、晋公・苻柳およびその妻子を斬りました。

王猛は蒲阪に駐屯し、鄧羌を派遣して王鑒等と合流させ、共に陝城を攻撃させました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

前燕の王公・貴戚は多くが民を占有して蔭戸にしていました。

「蔭戸」というのは、王公・豪族が私有する民戸です。『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では、官品が第一から第九までの者は、それぞれの貴賎によって占田(占有地。私有地)の面積に差があり、また、官品の高低に則って親属が国から保護され(原文「蔭其親属」。「蔭」は功臣の子孫等を国が保護して官爵や特権を与えることです)、多い者は保護の対象が九族に及び、少ない者でも二世に及びました。宗室、国賓、先賢の後代および士人の子孫も同じです。また、彼等は蔭人(王公・豪族等に保護された人。国から課された賦役の免除等、特権を持ちます)を得て、衣食客(貴族・豪族に依附する者)や佃客(貴族・豪族に保護された農民)にしました。こうして「蔭戸」が形成されました。

 

王公・貴戚が蔭戸を有したため、国の戸口が私家よりも少なくなり、ついには倉庫が尽きて空になり、用度(費用)が不足するようになりました。

尚書左僕射・広信公・悦綰が言いました「今は三方(燕・晋・秦)が鼎峙(鼎立・対峙)し、それぞれに吞併の心があります。それなのに(我が国は)国家の政法が立たず(確立できず)、豪貴が恣横(放縦・専横)して、民戸を尽きさせるに至り(至使民戸殫尽)、そのため委輸(輸送した物資)(国庫に)入らず、吏が常俸(通常の俸禄)を断たれ、戦士が廩(食糧)を絶たれ、官(政府)は粟帛を貸し出して自身を救済しています(官貸粟帛以自贍給)(このような状況は)隣敵に聞かれてはならず、(国を)治める方法でもないので、諸蔭戸を一切罷断(廃除)して、全て郡県(の管理下)に戻すべきです(既不可聞於隣敵,且非所以為治,宜一切罷断諸蔭戸,尽還郡県)。」

幽帝(燕主・慕容暐)はこれに従い、悦綰に専属で蔭戸の事を治めて姦伏を糾擿(糾弾・摘発)させました。その結果、敢えて蔽匿(隠匿)しようとする者がいなくなり、二十余万戸が探し出されましたが、朝廷を挙げて悦綰を怨怒するようになりました。

悦綰は以前から疾病があり、戸籍の釐校(整理・校正)に尽力し始めてから、ますます重くなりました(疾遂亟)

冬十一月、悦綰が死にました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

十二月、前秦の王猛等が陝城を攻略し、魏公・苻廋を捕えて長安に送りました。

前秦天王(秦王・苻堅)が背反した理由を問うと、苻廋はこう応えました「臣には本来、反心がありませんでした。ただ、弟兄(兄弟)がしばしば逆乱を謀り、臣も併せて殺されるのではないかと懼れたので、謀反したのです(臣本無反心,但以弟兄屢謀逆乱,臣懼并死,故謀反耳)。」

天王が泣いて言いました「汝は元から長者(徳がある人)なので、汝の心(本意)ではないことは始めからわかっていた。それに、高祖(景明帝・苻健。苻廋の父です)の後代がいなくなるわけにはいかない(汝素長者,固知非汝心也。且高祖不可以無後)。」

天王は苻廋に死を賜りましたが、七人の子は赦し、長子に魏公を世襲させ、他の子も全て県公に封じて、越厲王(苻生。苻生は廃されてから越王になりました。「厲」は苻生の諡号です。東晋穆帝升平元年・357年参照)および諸弟で跡継ぎがいない者を継がせました。

 

苟太后が問いました「廋と雙は共に反したのに、雙は後継者を置くことができませんでした。何故ですか(雙独不得置後,何也)?」

天王が言いました「天下は高祖の天下です(天下者,高祖之天下)。高祖の子は後継者がいないわけにはいきません(高祖之子不可以無後)(しかし)仲群(苻雙の字です)に至っては、太后を顧みず、宗廟を危うくしようと謀りました。天下の法は、私情によって曲げることはできません(至於仲群,不顧太后,謀危宗廟,天下之法,不可私也)。」

 

天王は范陽公・苻抑を征東大将軍・并州刺史に任命して蒲阪を鎮守させ、鄧羌を建武将軍・洛州刺史に任命して陝城を鎮守させました。また、姚眺を抜擢して汲郡太守に任命しました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

東晋が大司馬・桓温に殊礼(特殊な礼遇)を加え、位を諸侯王の上にしました。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

この年、東晋が仇池公・楊世を秦州刺史に、楊世の弟・楊統を武都太守に任命しました。

楊世が前秦に対しても臣と称したため、前秦は楊世を南秦州刺史に任命しました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代90 東晋廃帝(四) 桓温の北伐失敗 369年(1)

 

 

東晋時代88 東晋廃帝(二) 李儼平定 367年

今回は東晋廃帝太和二年です。

 

東晋廃帝太和二年

前涼沖王太清五年/前燕幽帝建熙八年/前秦天王建元三年

丁卯 367年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

東晋の徐兗二州刺史・庾希は后族(皇后の家族)だったため、兄弟ともに貴顕になりました。大司馬・桓温がこれを嫌います(忌之)

 

春正月、庾希が魯と高平を救えなかった罪(前年参照)に坐して免官されました。

 

『晋書・第八・海西公紀』は「春正月、北中郎将・庾希に罪があり、走って(逃走して)海に入った」と書いています。しかし『晋書・列伝第四十三(庾希伝)』を見ると、庾希は海西公(東晋廃帝)が廃されてから海陵に逃走しているので、本年は免官されただけのようです(『資治通鑑』胡三省注参照)

 

[二] 『資治通鑑』からです。

二月、前燕の撫軍将軍・下邳王・慕容厲と鎮北将軍・宜都王・慕容桓が敕勒を襲いました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前秦の輔国将軍・王猛、隴西太守・姜衡、南安太守・南安の人・邵羌、揚武将軍・姚萇等が一万七千の衆を率いて斂岐(前年参照)を討ちました。

 

三月、張天錫も前将軍・楊遹を派遣して金城に向かわせ、征東将軍・常據を派遣して左南に向かわせ、游撃将軍・張統を派遣して白土に向かわせ、張天錫自ら三万人を率いて倉松に駐屯し、李儼(前年参照)を討ちました。

『資治通鑑』胡三省注によると、左南は張軌が置いた県で、晋興郡に属しました。白土県は金城郡に属しました。倉松県は漢代以来、武威郡に属しました。後涼の呂光によって昌松県に改められます。

 

斂岐の部落は以前、姚弋仲に属していたため、姚萇が至ったと聞いて、皆、投降しました。そこで、王猛が略陽を攻略し、斂岐は白馬(『資治通鑑』胡三省注によると、この白馬は武都白馬氐の地です)に奔りました。

前秦天王(秦王・苻堅)は姚萇を隴東太守にしました。

 

[四] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

夏四月、前燕の慕容塵が東晋の竟陵を侵しましたが、太守・羅崇が撃破しました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

張天錫が李儼の大夏、武始二郡を攻めて下しました(『資治通鑑』胡三省注によると、張駿が狄道県に武始郡を置き、武始、興晋、広武(の三郡)を分けて大夏郡を置きました)

更に常據が李儼の兵を葵谷で敗り、張天錫が兵を進めて左南に駐屯しました。

李儼は懼れて退き、枹罕を守りました。また、兄の子・李純を前秦に派遣して謝罪し、併せて救援を請いました。

前秦天王(秦王・苻堅)は前将軍・楊安と建威将軍・王撫に騎兵二万を率いさせ、王猛と合流して李儼を救わせました。

 

王猛は邵羌を派遣して斂岐を追撃させ、王撫に侯和を守らせ、姜衡に白石(『資治通鑑』胡三省注によると、白石県は、西漢は金城郡に属し、東漢は隴西郡に属し、張駿が永固県に改めました。ここでは「白石」としていますが、「永固」とするのが正しいはずです)を守らせてから、楊安と共に枹罕を救いに行きました。

 

張天錫が楊遹を派遣して枹罕東で前秦軍を逆戦(迎撃)させましたが、王猛がこれを大破しました。俘斬(捕虜・斬首)が一万七千級に上り、王猛が張天錫と枹罕城下で対峙します。

 

邵羌が白馬で斂岐を捕えて(王猛に)送りました。

 

王猛が張天錫に書を届けました「私は詔を受けて李儼を救ったが、涼州と戦うことは命じられていない(吾受詔救儼,不令与涼州戦)。今は壁を深くして(厚くして)塁を高くし、後の詔を聴こうとしている(今当深壁高塁,以聴後詔)。日を費やして持久したら、恐らく二家(秦と涼)共に疲弊してしまうので、良算(良計)ではない(曠日持久,恐二家俱弊,非良算也)。もし将軍が退舍(退却、退避)するなら、私は李儼を捕えて東に向い、将軍は(李儼の)民を遷して西に帰る。こうすることもできるのではないか(若将軍退舍,吾執儼而東,将軍徙民西旋,不亦可乎)。」

張天錫が諸将に言いました「王猛の書にはこのように書かれている(猛書如此)。私は元々叛した者を討伐しに来たのであって、秦と戦うために来たのではない(吾本来伐叛,不来与秦戦)。」

こうして張天錫は兵を率いて帰りました。

 

李儼は秦師を受け入れようとしませんでした。そこで王猛は白衣を着て輿に乗り(白服乗輿)、従者数十人を率いて李儼との会見を請いました。李儼は門を開いて王猛を招き入れます。すると、李儼が備えを為す前に、王猛の将士が続いて進入し、そのまま李儼を捕えました。

前秦は立忠将軍・彭越(『資治通鑑』胡三省注によると、立忠将軍は苻秦が置いた将軍号です)を平西将軍・涼州刺史に任命して枹罕を鎮守させました。

 

張天錫が西に帰った時(李儼が王猛に捕えられる前の事です)、李儼の将・賀肫が李儼を説得してこう言いました「明公の神武と将士の驍悍をもってして、なぜ人(王猛)に対して束手(抵抗を止めること。捕虜になること)するのですか(柰何束手於人)。王猛は孤軍で遠くに来ており、士卒が疲弊しています。しかも我々が救援を請うたので、必ず備えを設けていません(且以我請救,必不設備)。もしその怠(油断)に乗じてこれを撃てば、志を得ることができます。」

しかし李儼はこう言いました「難を免れるために人に救援を求めたのに、難を免れてからそれを撃ったら、天下が私をどうみなすだろう(求救於人以免難,難既免而撃之,天下其謂我何)。守りを固めて衰弱させるべきだ。そうすれば、彼は自ら退くだろう(不若固守以老之,彼将自退)。」

王猛は李儼を捕えてから、すぐに出迎えなかったことを譴責しました。すると李儼は賀肫の謀を王猛に告げました。

王猛は賀肫を斬り、李儼を連れて帰還しました。

 

李儼が長安に至ると、天王は李儼を光禄勲に任命して、帰安侯の爵位を下賜しました。

 

『晋書・第八・海西公紀』は『資治通鑑』と大きく異なり、こう書いています「苻堅(前秦)の将・王猛が涼州を寇したが(侵したが)、張天錫がこれを拒み、王猛の師が敗績(敗北)した。」

 

[六] 『資治通鑑』からです。

前燕の太原王・慕容恪(諡号は桓王です)が幽帝(燕主・慕容暐)に進言しました「呉王・垂は将相の才が臣の十倍もあります。しかし、先帝が長幼の次(序列)を用いたので、臣は彼に先んじること(彼の上になること)ができました(呉王垂将相之才十倍於臣,先帝以長幼之次,故臣得先之)。臣が死んだ後は、陛下が国を挙げて呉王(の言)を聴くことを願います(臣死之後,願陛下挙国以聴呉王)。」

 

五月壬辰(『二十史朔閏表』によると、この年五月は「壬戌」が朔なので、「壬辰」はありません)、慕容恪の病が重くなったため、幽帝が自ら見舞いに行き、後事について問いました。

慕容恪が言いました「臣が聞くに、恩に報いるには、賢人を推薦するに越したことはないと言います(臣聞報恩莫大於薦賢)。賢者ならたとえ板築にいたとしても、相になることができます(板築は土木工事です。商王・高宗が板築の人夫・傅説を抜擢して相に任命した故事を指します)。至親(極めて親しい者。近親、親族)ならなおさらでしょう(況至親乎)。呉王は文武の資質を兼ね備えており、(才が)管・蕭(管仲と蕭何)に次ぐので(文武兼資,管蕭之亜)、陛下がもし大政を任せるようなら、国家が安んじますが、(逆に)もしそうしなかったら、秦・晋が必ず窺窬の計(隙を窺って侵犯しようとする計)を抱きます。」

慕容恪は言い終ると死にました。

 

前秦天王(秦王・苻堅)は慕容恪が死んだと聞いて、秘かに前燕を図る計を抱き、可否を窺おうとしました。そこで、匈奴の曹轂(匈奴の右賢王です)に命じ、使者を発して前燕に朝貢させました(命匈奴曹轂発使如燕朝貢)。西戎主簿・郭辯を副(副使)に任命します(『資治通鑑』胡三省注によると、西晋武帝が長安に西戎校尉を置きました。前秦はこれを踏襲したようです。主簿は西戎校尉の属官です。『晋書・載記第十一』によると、前秦天王は西戎主簿・郭辯を派遣して秘かに匈奴左賢王(右賢王の誤りです)・曹轂と結び、曹轂から鄴へ使者を派遣させました。それを機に郭辯も曹轂の使者に従って前燕に入りました)

 

前燕の司空・皇甫真(『資治通鑑』胡三省注によると、皇甫真は安定の人ですが、前燕に仕えました。安定は雍州に属し、前秦の領土です)の兄に当たる皇甫腆および従子(甥、または自分より一世代下の親戚)の皇甫奮、皇甫覆は全て前秦に仕えており、中でも皇甫腆は散騎常侍になっていました。

郭辯は前燕に至ってから公卿を歴訪し、皇甫真にこう言いました「僕(私)は元々秦人でしたが、家が秦に誅されたので、曹王に命を寄せました。貴兄の常侍および奮・覆兄弟とは、かねてから互いに良く知った関係にあります(並相知有素)。」

すると皇甫真は怒ってこう言いました「臣下とは境外の交(国外の者との交流)がないものなのに、なぜそのような言を私に聞かせるのだ(臣無境外之交,此言何以及我)。君は奸人のようだが、これを機に知人のふりをしようとしているのか(または「何かを企んでいるのか」。原文「君似奸人,得無因縁假託乎」)。」

皇甫真が幽帝に報告して窮治(徹底的に追究)するように請いましたが、太傅・慕容評が同意しませんでした。

 

尚、『資治通鑑』胡三省注によると、『燕書』および『晋書・載記第十一』では、皇甫真が太尉になった後に郭辯が前燕に至っており(皇甫真は本年十二月に太尉になります。下述)、『晋春秋』では、前燕幽帝建熙十年(369年)八月の事としています。胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は、「恐らくこれらは誤りなので、曹轂が秦に降った下(皇甫真が太尉になる前)に置いた(恐皆非是,故附曹轂降秦下)」と解説しています(曹轂は東晋哀帝興寧三年・365年七月に前秦に叛しましたが、同年八月にまた前秦に降って雁門公に封じられました。『晋書・載記第十三』によると、曹轂は前秦に降ってから暫くして死にました)

 

『資治通鑑』本文に戻ります。

郭辯が帰国してから前秦天王にこう言いました「燕の朝政は綱紀がないので、実に図ることができます。時機を観て変化を識ることができるのは、皇甫真だけです(鑒機識変,唯皇甫真耳)。」

天王が言いました「六州の衆(『資治通鑑』胡三省注によると、六州は幽・并・冀・司・兗・豫州です)をもってして、どうして(燕に)一人の智士も有させずにいられるのだ(燕に智士がいないはずがない。原文「豈得不使有智士一人哉」。『晋書・載記第十一』はこう続けています。「皇甫真も秦人だが燕が用いた。ここから関西には君子が多いことがわかる(真亦秦人而燕用之,固知関西多君子矣)」)。」

 

間もなくして曹轂が死にました。前秦はその部落を二つに分けて、二人の子にそれぞれ統領させました。これを東曹・西曹と号します。

『晋書・載記第十三』によると、天王は曹轂の部落を二つに分けて、貳城以西の二万余落(戸)を曹轂の長子・曹璽に統領させ、貳城以東の二万余落を曹轂の小子・曹寅に統領させました。曹璽は駱川侯に、曹寅は力川侯に封じられました。

 

[七] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の右将軍・荊州刺史・桓豁と竟陵太守・羅崇が宛の趙億(趙憶。前年参照)を撃って攻略しました。

趙億は逃走し、前燕の将・趙盤(『資治通鑑』では「趙盤」、『晋書・海西公紀』では「趙槃」です)は退いて魯陽に帰りました。

 

桓豁が兵を進めて趙盤を追撃し、雉城(『資治通鑑』胡三省注によると、雉県は漢代以来、南陽郡に属しました)で捕えて京師に送りました。

桓豁は兵を残して宛を守らせてから還りました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

秋七月、前燕の下邳王・慕容厲等が敕勒を破り、馬・牛数千頭を獲ました。

 

これ以前に慕容厲の兵が代の地を通った時、穄田(「穄」は穀物の一種です)を侵したため、代王・拓跋什翼犍が憤怒しました、

八月、前燕の平北将軍・武強公・慕容埿が幽州の兵を率いて雲中を守っていたので、什翼犍が雲中を攻めました。慕容埿は城を棄てて逃走し、振威将軍・慕輿賀辛が戦没しました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

九月、東晋が会稽内史・郗愔を都督徐兗青幽揚州之晋陵諸軍事・徐兗二州刺史に任命し、京口を鎮守させました。

『資治通鑑』胡三省注によると、西晋の永嘉の大乱によって、幽・冀・青・并・兗州および徐州淮北の流民が相継いで淮水を渡り、ある者は長江を渡って晋陵界内に住みました。また、東晋成帝時代、郗鑒が淮南にいる流民を晋陵諸県に遷しました。東晋朝廷は江南に遷った者および江北に留まった者に対して、僑郡県を立てて司牧(管理・統治)しました。徐兗二州刺史は江北の一部も治めており、その地にも幽・冀・青・并四州が僑立(僑置)されていました。

 

尚、『晋書・第八・海西公紀』では、会稽内史・郗愔を「都督徐兗青幽四州諸軍事・平北将軍・徐州刺史」に任命しています。

『晋書・列伝第三十七(郗愔伝)』は『資治通鑑』とほぼ同じで、郗愔は「都督徐兗青幽揚州之晋陵諸軍事・領徐兗二州刺史・假節」になっています。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

前秦の淮南公・苻幼が反した時(東晋哀帝興寧三年・365年参照)、征東大将軍・并州牧・晋公・苻柳と征西大将軍・秦州刺史・趙公・苻雙も苻幼と通謀しました。しかし前秦天王(秦王・苻堅)は、苻雙は同母弟で至親(極めて近親なこと)であり、苻柳は苻健(景明帝)の愛子だったため、それを隠して不問にしました(隠而不問)

ところが、苻柳と苻雙はまた鎮東将軍・洛州刺史・魏公・苻廋や安西将軍・雍州刺史・燕公・苻武と乱を為そうと謀りました(『資治通鑑』胡三省注によると、前秦の并州刺史は蒲阪を治所に、秦州刺史は上邽を治所に、洛州刺史は陝を治所に、雍州刺史は安定を治所にしました。苻廋と苻武は苻健の子です)

鎮東主簿・南安の人・姚眺が苻廋を諫めてこう言いました「明公は周・邵の親(西周の周公や邵公のような親族関係)をもってして、方面の任を授かったので、国家に難があったら、力を尽くしてそれを除くべきです。自ら難を為すなど、もってのほかです(国家有難,当竭力除之,況自為難乎)。」

苻廋は諫言を聴きませんでした。

 

この事を聞いた天王は苻柳等を召して長安を訪ねさせました。

冬十月、苻柳が蒲阪を占拠し、苻雙が上邽を占拠し、苻廋が陝城を占拠し、苻武が安定を占拠し、皆、兵を挙げて反しました。

 

天王は使者を派遣してこう諭しました「私は卿等を遇して恩も至らせた。なぜ自ら苦難を求めて反すのだ(吾待卿等,恩亦至矣,何苦而反)。今、召喚を中止するので、卿等は兵を解散させて、それぞれ自分の地位を安定させるべきだ。そうすれば一切を今まで通りにしよう(今止不徵,卿宜罷兵,各定其位,一切如故)。」

天王は梨をかじってそれぞれに対する信物にしました(原文「各齧棃以為信」。「齧棃(梨をかじること)」は同心・協力を勧諭する行為です。『資治通鑑』胡三省注によると、棃は脆くて歯が容易に入るので、親戚が離叛したら国力が脆弱になり、敵に乗じられるということを意味しました。そのため、天王は棃をかじって使者に渡し、苻柳等に下賜して信物にしました)

しかし苻柳等は皆、従いませんでした。

 

[十一] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

乙巳(十七日)、東晋の彭城王・司馬玄が死にました。

 

司馬玄は司馬紘(司馬懿の弟に当たる司馬馗の子孫です。東晋成帝咸和五年・330年参照)の子です。司馬紘は東晋成帝咸康八年(342年)に死に、司馬玄が跡を継いでいました。

『晋書・列伝第七(宗室伝)』によると、司馬玄の跡は子の司馬弘之が継ぎました。

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋什翼犍が劉衛辰を撃ちました(『資治通鑑』胡三省注によると、代から朔方を撃つには大河(黄河)を西に渡る必要がありました。その津(渡場)を君子津といいます)

黄河がまだ氷結していなかったので(河冰未合)、什翼犍は葦絚(葦の縄)で流澌(川を流れる冰塊)を止めるように命じました。間もなくして河水が凍りましたが、まだ堅くなっていないため、更に葦をその上に散布させました。氷が草に付着して凍りつき、浮梁(浮橋)のようになります。代の兵はそれを利用して渡河しました。

 

劉衛辰は計らずも代の兵が突然至ったため、宗族と共に西に走りました。

什翼犍はその部落の十分の六七を収めて還りました。

 

劉衛辰は前秦に奔りました。

前秦天王(秦王・苻堅)は劉衛辰を送り出して朔方に還らせ、兵を派遣して守らせました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

十二月甲子(『二十史朔閏表』によると、この年十二月は「戊子」が朔なので、「甲子」はありません)、前燕の太尉・建寧公・陽騖(諡号は敬公です)が死にました。

司空・皇甫真を侍中・太尉に、光禄大夫・李洪を司空にしました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代89 東晋廃帝(三) 前秦の内乱 368年

東晋時代87 東晋廃帝(一) 366年

今回から東晋廃帝(海西公)の時代です。

 

廃帝

姓は司馬、名は弈、字は延齢といい、東晋成帝の子で、哀帝の同母弟です。

後に桓温に帝位を廃されて海西公になるので、皇帝としての諡号はありません。『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』は「海西公」としていますが、この「通史」では「東晋廃帝」と書きます。

 

以下、『晋書・第八・海西公紀』からです。

司馬奕は東晋成帝咸康八年(342年)に東海王に封じられました。

穆帝永和八年(352年)に散騎常侍になり、間もなくして鎮軍将軍を加えられました。

穆帝升平四年(360年)、車騎将軍に任命されました(『晋書・第八・穆帝紀』では、穆帝升平三年(359年)に車騎将軍に任命されています)

升平五年(361年。穆帝の死後)、琅邪王に改封されました。

哀帝隆和初年(362年)、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に転じました。

興寧三年(365年)二月丙申(二十二日)、哀帝が死にました。

丁酉(二十三日)、哀帝に後嗣がいなかったため、皇太后が詔を発して、司馬奕が皇帝の位に即きました。

 

哀帝興寧三年(365年)の出来事は既に書いたので、再述は避けます。

 

 

東晋廃帝太和元年

前涼沖王太清四年/前燕幽帝建熙七年/前秦天王建元二年

丙寅 366年

 

[一] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

春二月己丑(二十一日)、東晋が涼州刺史・張天錫を大将軍・都督隴右関中諸軍事・西平郡公にしました。

 

『資治通鑑』にはこの記述がなく、『晋書・列伝第五十六(張天錫伝)』では「大将軍・大都督・督隴右関中諸軍事・護羌校尉・涼州刺史・西平公」になっています。

 

[二] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

丙申(二十八日)、東晋が宣城内史・桓祕を持節・監梁益二州征討諸軍事に任命しました。

 

[三] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

三月辛亥(十三日)、東晋の新蔡王・司馬邈が死にました。

 

司馬邈は汝南王・司馬祐(威王)の子で、司馬祐は司馬矩(懐王)の子、司馬矩は司馬亮(八王の乱で殺された汝南文成王。司馬懿の子に当たります)の子です(東晋成帝咸和八年・333年参照)

『晋書・列伝第七・宗室伝』によると、司馬邈の跡は子の司馬晃が継ぎました。

 

[四] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の荊州刺史・桓豁が督護・桓羆に南鄭を攻撃させて、司馬勲を討ちました。

魏興の人・畢欽が兵を挙げて桓羆に応じました。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

前燕の太宰・大司馬・慕容恪と太傅・司徒・慕容評が叩頭して政権を奉還し(稽首帰政)、章綬を返上して、邸宅に帰ることを請いましたが、幽帝(燕主・慕容暐)は同意しませんでした。

幽帝は東晋穆帝升平四年(360年)に十一歳で即位したので、本年(366年)は十七歳です。

 

[六] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

夏四月、旱害に襲われました。

 

[七] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

五月戊寅(十二日)、東晋の皇后・庾氏が死にました。

 

[八] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の朱序と周楚が成都で司馬勲を撃ちました。司馬勲は部衆が潰えて破れ、その党と共に捕えられて大司馬・桓温に送られました。

桓温は司馬勲等を全て斬って首を建康に伝えました(送りました)

 

[九] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋什翼犍が左長史・燕鳳を派遣して、前秦に入貢させました。

 

[十] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月癸酉(初八日)、東晋が孝皇后(「孝」は庾皇后の諡号です)を敬平陵に埋葬しました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです(『晋書・第八・海西公記』は十月に置いています)

前秦の輔国将軍・王猛、前将軍・楊安、揚武将軍・姚萇等が二万の衆を率いて東晋の荊州を侵し、南郷郡を攻撃したたため、荊州刺史・桓豁が救援に向かいました。

 

八月、桓豁が新野に駐軍しました。

前秦の兵は安陽の民一万余戸を奪って還りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、漢代の安陽県は漢中郡に属しましたが、魏が魏興郡を置いて安陽を属させ、晋は安陽を廃しました。胡三省注は「秦は南郷を攻めてから退いたので、山阻(険阻な山中)に深入りして、安陽の民を奪えるはずがない」と解説しています。『晋書・載記第十三』では「漢陽(漢水の北)」としているので、「安陽」は「漢陽」が正しいようです。

 

[十二] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

九月甲午(二十九日)、東晋が梁・益二州で曲赦(特赦)しました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。東晋は司馬勲を平定したので、その支党や脅迫されて従った者の罪を赦しました。

 

[十三] 『晋書・第八・海西公紀』はここで「冬十月辛丑(初七日)、苻堅(前秦)の将・王猛と楊安が南郷を攻めた。東晋の荊州刺史・桓豁がこれを救い、師(軍)が新野に駐留したので、王猛と楊安は退いた」と書いています。『資治通鑑』は七月から八月の事としています(上述)

 

[十四] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

冬十月、東晋が司徒・会稽王・司馬昱に丞相・録尚書事を加え、「入朝不趨(入朝時に宮中で小走りになる必要がないこと)」「讚拝不名(入朝等の際に直接名を呼ばれないこと)」「剣履上殿(剣を帯びて靴を履いたまま上殿できること)」の特権を与えました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

前涼の張天錫が使者を派遣して前秦との国境上に至らせ、関係を絶つことを告げました(原文「告絶於秦」。前涼は東晋穆帝永和十二年・356年から前秦と通じていました)

 

[十六] 『資治通鑑』からです(『晋書・海西公紀』は年末に置いています)

前燕の撫軍将軍・下邳王・慕容厲が東晋の兗州を侵し、魯や高平等の数郡を攻略して、守宰(郡県の長官)を置いて還りました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

以前、隴西の人・李儼(東晋穆帝永和十一年・355年に隴西を占拠しました)が郡を挙げて前秦に降りましたが、暫くして張天錫とも通じました。

 

十二月、羌人の斂岐(『資治通鑑』胡三省注によると、斂は羌の姓です。尚、『晋書・載記第十三』と『資治通鑑』では「斂岐」ですが、『晋書・列伝第五十六(張天錫伝)』では「廉岐」としています)が略陽の四千家を率いて前秦に叛し、李儼に対して臣を称しました。

李儼は自ら牧守を拝置(任命・配置)し、秦・涼との関係を絶ちました。

 

[十八] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

南陽督護・趙億(これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・海西公紀』は「南陽の人・趙弘、趙憶等」としています)が宛城を占拠して東晋に叛し、前燕に降りました。東晋の太守・桓澹(『晋書・海西公記』『資治通鑑』とも「桓澹」ですが、『晋書・列伝第四十四(桓豁伝)』では「桓淡」です)は逃走して新野を守ります。

燕人は南中郎将・趙盤を魯陽から移動させて、宛を守らせました。

 

[十九] 『晋書・第八・海西公紀』はここで「慕容暐(前燕)の将・慕容厲が魯郡と高平を攻略した」と書いています。『資治通鑑』は十月に置いています(上述)

 

 

次回に続きます。

東晋時代88 東晋廃帝(二) 李儼平定 367年

東晋時代86 東晋哀帝(四) 洛陽陥落 365年

今回で東晋哀帝の時代が終わります。

 

東晋哀帝興寧三年

前涼沖王太清三年/前燕幽帝建熙六年/前秦天王甘露七年 建元元年

乙丑 365年

 

[一] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月庚申(十六日)、東晋の皇后・王氏が死にました。

 

[二] 『資治通鑑』からです。

匈奴の劉衛辰が代に叛しました(劉衛辰は東晋穆帝升平五年・361年に代に附きました)

そこで、代王・拓跋什翼犍が東に向かって河(黄河)を渡り,劉衛辰を撃って走らせました。

 

拓跋什翼犍は性格が寛厚でした。

郎中令・許謙が絹二匹を偸みましたが、什翼犍はそれを知っても隠して(知らないふりをして。原文「知而匿之」)左長史・燕鳳にこう言いました「私は許謙の顔を視るのが忍びない(原文「吾不忍視謙之面」。『資治通鑑』胡三省注によると、この後、什翼犍の言葉は「卿は慎重にしてこの事を漏らしてはならない(卿慎勿泄)」と続きますが、『資治通鑑』本文は省略しています)。もし許謙が慚愧して自殺したら、私は財物のために士を殺したことになる(若謙慙而自殺,是吾以財殺士也)。」

 

かつて西部で背叛した者を討った時、流矢が什翼犍の目に中りました。後に矢を射た者を獲たため、群臣が臠割(切り刻むこと)に処そうと欲しましたが、什翼犍は「彼等はそれぞれ自分の主のために闘っただけだ。何の罪があるのだ(彼各為其主闘耳,何罪)」と言って釈放しました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

東晋の大司馬・桓温が移動して姑孰を鎮守しました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。桓温は赭圻から東に向かって姑孰を鎮守しました)

 

二月乙未(二十一日)、桓温が弟の右将軍・桓豁を監荊州揚州之義城雍州之京兆諸軍事・領荊州刺史に任命し(『資治通鑑』胡三省注によると、義城郡(義成郡)は襄陽に置かれ(移民のために襄陽郡内に義城郡が置かれたのだと思います。下述参照)、襄陽郡は荊州に属していましたが、義城郡は「揚州淮南の平阿と下蔡を領した」とされています。かつて、桓宣が祖約に従い、退いて淮南に駐屯してから、襄陽を鎮守しました。陶侃が淮南の部曲(恐らく桓宣の部曲)を率いて穀城(襄陽北)に義成郡を置き、揚州の民(平阿と下蔡の民を指すと思われます)がいたので揚州僑県(移民の県)も穀城に住ませました。穀城は荊州領内の地なので、「荊州・揚州之義成」といいます。「義成」とは「義によって軍を成す(以義成軍)」という意味で、これが郡の名になりましたが、後の人が「成」の字に「土」を加えたため、郡を立てた時の意味が失われてしまいました。京兆郡は雍州に属しましたが、当時は同じく襄陽に僑立(僑置。移民のために、別の地に郡県等を置くこと)されていました)、江州刺史・桓沖に監江州及荊豫八郡諸軍事を加え(『資治通鑑』胡三省注によると、桓沖はもともと江州の刺史となり、西陽・譙二郡の太守を兼任していました(刺江州,領西陽・譙二郡太守)。今回、荊州に属す江夏と隨郡および豫州に属す汝南・西陽・新蔡・潁川の合わせて六郡が加えられ(西陽が重複しているので、西陽を抜いた「五郡」が正しいはずです)、鎮守している尋陽も合わせて八郡の諸軍事を監督することになりました)、共に符節を授けました(並假節)

 

『晋書・第八・哀帝紀』では、二月乙未(二十一日)に右将軍・桓豁を監荊州揚州之義城雍州之京兆諸軍事・領南蛮校尉・荊州刺史に任命し、桓沖を監江州荊州之江夏隨郡豫州之汝南西陽新蔡潁川六郡諸軍事・南中郎将・江州刺史・領南蛮校尉に任命し、共に符節を授けています(並假節)

このうち、桓豁については、「監荊州揚州之義城雍州之京兆諸軍事」は『資治通鑑』と同じですが、「領南蛮校尉・荊州刺史」が異なります。『晋書・列伝第四十四(桓豁伝)』は「監荊揚雍州軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史・假節とし、将軍(右将軍)の職そのままにした(将軍如故)」と書いています。

桓沖の官名は、「監江州荊州之江夏隨郡豫州之汝南西陽新蔡潁川六郡諸軍事」が『資治通鑑』の「監江州及荊豫八郡諸軍事」と大きく異なり、「南中郎将・江州刺史・領南蛮校尉」は『資治通鑑』にはありません。『晋書・列伝第四十四(桓沖伝)』を見ると、桓沖はこれ以前に「振威将軍・江州刺史・領鎮蛮護軍・西陽譙二郡太守」になっています。また、領南蛮校尉は桓豁が任命されており、『資治通鑑』胡三省注が「江左(東晋)は荊州だけが南蛮を領した」と解説しています。よって、「本紀」が本年に「江州刺史・領南蛮校尉」を置いているのは誤りです。『晋書・列伝第四十四』は、本年の桓沖の任官を「監江荊豫三州之六郡軍事・南中郎将・假節に進めて、州刺史と郡太守の職はそのままにした(州郡如故)」と書いています。

 

[四] 『晋書・第八・哀帝紀』『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の司徒・司馬昱は、陳祐が洛陽を棄てたと聞いて、洌洲で大司馬・司馬温と会し、共に征討について討議しました。

 

丙申(二十二日)、哀帝が西堂(『資治通鑑』胡三省注によると、太極殿西堂です。建康の太極殿には東西の堂があり、東堂は群臣を接見する場所で、西堂は即安(休憩)の場所でした)で死にました。二十五歳でした。

哀帝が死んだため、征討の事は一時中止になりました(事遂寝)

 

丁酉(二十三日)、哀帝には後嗣がいなかったため(哀帝興寧元年363年)九月に「皇子が生まれた」という記述がありました。この皇子がどうなったのかは分かりません)、皇太后(褚氏)が詔を発して、哀帝の同母弟に当たる琅邪王・司馬奕に大統を継承させました(『資治通鑑』胡三省注は「奕」は「弈」とすべき(奕当作弈)と解説していますが、『晋書』も『資治通鑑』本文も「司馬奕」としているので、この通史も「司馬奕」と書きます)

以下、皇太后の詔です「帝は遂にその疾(病)から救うことができず、艱禍が頻繁に至っているので、残された者の心情が消沈して、哀慟が心を切り刻んでいます(帝遂不救厥疾,艱禍仍臻,遺緒泯然,哀慟切心)。琅邪王・奕は明徳が盛んで近親なので、儲嗣(後継者)となるに相応しく、祖宗を奉じて大統を継承すべきです(明徳茂親,属当儲嗣,宜奉祖宗,纂承大統)。速やかに大礼(即位の礼)を正し、そうすることによって人と神を安寧にさせなさい(便速正大礼以寧人神)。」

 

こうして、百官が琅邪第(琅邪王の邸宅)に奉迎に行き、即日、司馬奕が皇帝の位に即いて、大赦を行いました。

 

司馬奕は後に廃されて海西公になるため、皇帝としての諡号がありません。『晋書』と『資治通鑑』は「海西公」としていますが、この通史では「廃帝」と書きます。

 

[五] 『資治通鑑』からです。

前秦が大赦を行い、甘露七年から建元元年に改元しました。

 

[六] 『資治通鑑』からです。

前燕の太宰・慕容恪と呉王・慕容垂が共に洛陽を攻めました。

慕容恪が諸将に言いました「卿等は常に私が攻撃を開始しないことを患いてきた(卿等常患吾不攻)。今、洛陽は城壁が高いが、兵は弱いので、容易に攻略できる(城高而兵弱,易克也)。これ以上、畏れ臆して怠惰になる必要はない(勿更畏懦而怠惰)。」

こうして攻撃が開始され、三カ月で洛陽を攻略して東晋の揚武将軍・沈勁を捕えました。

 

沈勁の神気(精神、意気)が自若としていたため、慕容恪は(殺すのを惜しんで)釈放しようとしました。しかし中軍将軍・慕輿虔が「沈勁は奇士ですが、その志度(志気・気度)を観るに、最後まで人に用いられることはありません(燕に仕えることはありません。原文「終不為人用」)。今これを赦したら、必ず後患となります」と言ったため、殺しました。

 

慕容恪が各地を攻略して崤澠(『資治通鑑』胡三省注によると、崤谷と澠池です)に至りました。関中が大いに震撼します。

前秦天王(秦王・苻堅)は前燕に備えるため、自ら兵を率いて陝城に駐屯しました。

 

燕人は左中郎将・慕容筑を洛州刺史に任命して金墉(洛陽)を鎮守させました。

また、呉王・慕容垂を都督荊揚洛徐兗豫雍益涼秦十州諸軍事・征南大将軍・荊州牧とし、兵一万を配して魯陽を鎮守させました。

 

太宰・慕容恪が鄴に還って僚属にこう言いました「私は以前、広固を平定した時、辟閭蔚を救うことができなかった(東晋穆帝永和十二年・356年参照)。今回も洛陽を平定したが、沈勁を殺戮させてしまった。どちらも本情(本意)ではなかったが、元帥として、実に四海に対して慚愧している(雖皆非本情,身為元帥,実有愧於四海)。」

 

東晋の朝廷は沈勁の忠を嘉して東陽太守を追贈しました。

 

太宰・慕容恪は将になっても威厳を重要なこととはみなさず、専ら恩信を用いていました(不事威厳,専用恩信)。士卒を安撫し、務めて大要を治め、苛令(苛酷な命令)を為さず、人人に便安(利便・安定)を得させます。

平時の営中は寛縦(寛容放縦。自由な様子)で、(外の者には)侵犯できるように見えましたが(似若可犯)(実際には)警備が厳密だったので、敵が至っても接近できた者はなく、そのため慕容恪は負敗(失敗・敗北)したことがありませんでした。

 

[七] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

三月壬申(二十九日)、東晋が哀帝と静皇后(王皇后)を安平陵に埋葬しました。

『資治通鑑』は「静皇后」としていますが、『晋書・列伝第二(后妃伝下)』では「静」が「靖(哀靖王皇后)」になっています。

 

[八] 『晋書・第八・海西公紀』からです。

癸酉(三十日)、東晋の散騎常侍・河間王・司馬欽(東晋成帝咸和五年・330年参照)が死にました。

『晋書・列伝第二十九(司馬顒伝)』には、司馬欽の後嗣について書かれていませんが、『晋書・第九・孝武帝紀』の東晋孝武帝太元九年(384年)十月の記述に、「河間王・曇之が死んだ」とあるので、司馬欽の子は曇之というようです。

 

[九] 『晋書・第八・海西公紀』はここで「丙子、慕容暐(前燕)の将・慕容恪が洛陽を落とした。寧朔将軍・竺瑤が襄陽に奔り、冠軍長史・揚武将軍・沈勁が死んだ」と書いています。但し、『二十史朔閏表』によると、この年三月は甲辰が朔なので、「丙子」はありません。『資治通鑑』は洛陽陥落を二月に置いており、「二月丙子」だとしたら「初二日」に当たります。

 

[十] 『資治通鑑』からです。

夏四月壬午(初九日)、前燕の太尉・武平公・封奕(諡号は匡公です)が死にました。

 

司空・陽騖を太尉に、侍中・光禄大夫・皇甫真を司空・領中書監に任命しました。

 

陽騖は歴代の四朝(慕容廆、慕容皝、慕容儁、慕容暐を指します)に仕え、老齢で声望が重かったため(年耆望重)、太宰・慕容恪以下、皆が拝礼しました。しかし陽騖の謙恭謹厚な態度は、若い頃よりもますます顕著になっていました(過於少時)

陽騖は子孫を戒束(厳しく教育して行動を正しくさせること)しました。そのため、(一族に)朱紫(赤や紫の服。高官の服)が連なっても、敢えてその法度(陽騖が定めた規則。または前燕の法度)に違反しようとする者はいませんでした(無敢違犯其法度者)

 

[十一] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

六月戊子(十六日)、東晋の益州刺史・建城公・周撫(諡号は襄公です。尚、『資治通鑑』は「益州刺史・建城襄公・周撫」としていますが、『晋書・海西公紀』では「使持節・都督益寧二州諸軍事・鎮西将軍・益州刺史・建城公・周撫」としています)が死にました。

周撫は益州にいた三十余年の間、甚だ威恵(威信・恩恵)がありました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。東晋穆帝永和三年・347年に桓温が蜀を平定し、周撫を留めて鎮撫させました。そこから本年(365年)までは、足掛けで十九年しかありません。但し、東晋は蜀を得る前に、巴東に益州刺史を置いて周撫を刺史に任命していました。「益州にいた三十余年」というのは、巴東を鎮守した時から通算した年数のようです)

 

東晋は詔を発し、周撫の子に当たる犍為太守・周楚を周撫の代わりにしました。

 

[十二] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月己酉(初七日)、東晋が会稽王・司馬昱を再び琅邪王に改封しました。

 

司馬昱は東晋元帝の子で、元帝永昌元年(322年)に琅邪王に封じられましたが、成帝咸和二年(327年)に会稽王に遷されました。

成帝の跡を継いだ康帝、哀帝と、本年即位した司馬奕(廃帝)は全て琅邪王の身から大統を継承しました。司馬奕が帝位に即いて琅邪王の家系が途絶えたため、司馬昱がまた琅邪王に戻されました。

 

[十三] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

壬子(初十日)、東晋が妃・庾氏を皇后に立てました。庾后は庾冰の娘です。

 

[十四] 『晋書・第八・海西公紀』『晋書・第九・孝武帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲申(『晋書・孝武帝紀』と『資治通鑑』は「甲申」としていますが、『二十史朔閏表』によると、この年七月は「癸卯」なので、「甲申」はありません。『晋書・海西公紀』は日付を書いていません)、琅邪王・司馬昱の子・司馬昌明を会稽王に立てました。

しかし司馬昱は固く辞退して、自ら会稽王を称し続けました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

匈奴の右賢王・曹轂と左賢王・劉衛辰がそれぞれ前秦に叛しました。

 

曹轂が衆二万を率いて杏城を侵したため、前秦天王(秦王・苻堅)が自ら兵を指揮してこれを討ち、衛大将軍・李威と左僕射・王猛に太子・苻宏を輔佐して長安を留守させました。

 

『晋書・第八・海西公紀』は「秋七月、匈奴の左賢王・衛辰と右賢王・曹穀が衆二万を率いて苻堅の杏城を侵した」と書いています。『晋書・載記第十三』は「曹穀」を「曹轂」としており、『資治通鑑』は「載記」に従っています。

 

『資治通鑑』に戻ります。

八月、天王が曹轂を撃って破り、その弟・曹活を斬りました。曹轂は投降を請います。

前秦は曹轂の豪傑(豪族)六千余戸を長安に遷しました。

 

建節将軍・鄧羌が劉衛辰を討ち、木根山(『資治通鑑』胡三省注によると、木根山は朔方にありました)で捕らえました。

 

九月、天王が朔方に入って諸胡を巡撫しました。

 

冬十月、征北将軍・淮南公・苻幼(『資治通鑑』胡三省注によると、秦主・苻生(前秦帝)の弟です)が杏城の衆を指揮し、虚に乗じて長安を襲いましたが、李威がこれを撃って斬りました。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

鮮卑の禿髪椎斤が死にました。百十歳でした。

子の思復鞬が代わりにその衆を統領しました。

椎斤は樹機能の従弟・務丸の孫です(樹機能はかつて西晋の涼州を侵しました。西晋武帝咸寧五年・279年参照)

 

[十七] 『晋書・第八・海西公紀』と『資治通鑑』からです。

東晋の梁州刺史・司馬勲は為政が酷暴(苛酷・暴虐)で、治中・別駕や州の豪右(豪族)が意に逆らう言葉を発すと(言語忤意)、すぐにその席で梟斬(首を斬って曝す刑)に処し、あるいは自ら矢を射て殺してしまいました(即於坐梟斬之,或親射殺之)

司馬勲は常に拠蜀の志(蜀で割拠する志)を抱いており、今までは周撫を畏れて発する(実行する)ことができませんでしたが、本年、周撫が死んだため、遂に兵を挙げて反しました。

別駕・雍端と西戎司馬・隗粹(『資治通鑑』胡三省注によると、西戎司馬は西戎校尉の属官です)が切諫しましたが、司馬勲はどちらも殺して自ら梁益二牧・成都王を称しました。

 

十一月、司馬勲が兵を率いて剣閣に入り、涪を攻めました。

西夷校尉・毌丘暐は城を棄てて逃走しました(『資治通鑑』胡三省注によると、晋初に西夷校尉が置かれて汶山を治所にしましたが、当時は涪城が治所だったようです)

 

乙卯(十五日)、司馬勲が成都で益州刺史・周楚を包囲しました。

大司馬・桓温が上表して、鷹揚将軍・江夏相・義陽の人・朱序を征討都護に任命し、周楚を救援させました。

 

[十八] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が長安に還り、李威に太尉の職を代行させて侍中を加えました(守太尉加侍中)

また、曹轂を雁門公に、劉衛辰を夏陽公にして、それぞれの部落を統率させました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

十二月戊戌(二十九日)、東晋が尚書・王彪之を僕射に任命しました。

『晋書・第八・海西公紀』は「十二月戊戌(二十九日)、会稽内史・王彪之を尚書僕射にした」と書いていますが、『晋書・列伝第四十六(王彪之伝)』を見ると、王彪之はまず鎮軍将軍・会稽内史になり、散騎常侍を加えられてから、会稽内史等の官を免じられて尚書に降格となり、その後、改めて尚書僕射になっているので、「尚書・王彪之を僕射に任命した」とする『資治通鑑』の記述が正しいようです。

 

 

次回に続きます。

東晋時代87 東晋廃帝(一)  366年

 

 

 

東晋時代85 東晋哀帝(三) 沈勁 364年

今回は東晋哀帝興寧二年です。

 

東晋哀帝興寧二年

前涼沖王太清二年/前燕幽帝建熙五年/前秦天王甘露六年

甲子 364年

 

[一] 『資治通鑑』からです。

春正月丙辰(初六日)、前燕が大赦しました。

 

[二] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。
二月庚寅(初十日)、江陵で地震がありました。

 

[三] 『資治通鑑』からです。

前燕の太傅・慕容評と龍驤将軍・李洪が河南攻略に向かいました(略地河南)

 

『晋書・第八・哀帝紀』はこう書いています「慕容暐の将・慕容評が許昌を襲い、潁川太守・李福が死んだ。慕容評はそのまま汝南を侵し、太守・朱斌が寿陽(寿春)に遁走した。(慕容評は)更に進んで陳郡を囲んだ。太守・朱輔は城に籠って守りを固めた(嬰城固守)。桓温が江夏相・劉岵を派遣してこれ(慕容評)を撃退させた。」

『資治通鑑』はほぼ同じ内容を四月に置いています。但し、劉岵が前燕を撃退したという記述はありません。

 

[四] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

東晋が左軍将軍を遊撃将軍とし、右軍・前軍・後軍将軍、五校三将の官を廃しました(罷右軍前軍後軍将軍五校三将官)

「五校」は五校尉(屯騎・歩兵・越騎・長水・射声校尉)、「三将」は右軍・前軍・後軍の三将軍を指すと思われます。

 

[五] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

癸卯(二十三日)、東晋哀帝が自ら藉田(農業を奨励するために帝王が耕作する田地)を耕しました。

 

[六] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月庚戌朔、東晋が戸口を大閲(大調査)して、所在地で土断させ、法制(『資治通鑑』では「法制」、『晋書・哀帝紀』では「法禁」です)を厳しくしました。これを『庚戌制(庚戌の法制)』といいます(「土断」に関しては、東晋成帝咸康七年・341年参照)

 

[七] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋哀帝はかねてから黄老(道家の思想)を好み、方士の言を信じていたため、穀物を断って薬を服食することで長生を求めました。

侍中・高崧が諫めて「これは万乗(帝王)が為すべきことではありません(此非万乗所宜為)。陛下のこの事は、実に日月の食です(原文「陛下茲事,実日月之食」。「日月の食」は日食や月食を指し、君子の過失を意味します。『論語』の子貢の言葉が元になっています。子貢はこう言いました「君子の過失とは、日月の食のようなものです。過ちを犯したら、人々が皆それを見ます。過ちを改めたら、人々が皆それを仰ぎ慕います(君子之過也,如日月之食焉。过也,人皆见之。更也,人皆仰之)」)」と言いましたが、哀帝は聴き入れませんでした。

 

辛未(二十二日)、哀帝が長生の薬を過度に服食したため、毒に中って薬発(薬物による発作)し、自ら万機に臨むことができなくなりました。

崇徳太后(褚太后です。崇徳宮に住んでいます)が再び朝廷に臨んで摂政するようになります。

 

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。かつて、東晋穆帝が幼少で即位したため、褚太后が朝廷に臨んで称制(皇帝に代わって命令を出すこと)しましたが、升平元年(357年)に穆帝が元服したため、太后は政権を奉還しました。哀帝は年長になってから即位しましたが、病のため親政できなくなったため、太后が再び朝政に臨むことになりました。

 

[八] 『資治通鑑』からです。

夏四月甲辰(二十五日)、前燕の李洪が許昌と汝南を攻め、懸瓠(『資治通鑑』胡三省注によると、懸瓠城は汝南郡の治所です。城の西北で汝水が分かれて左に出て、西北に流れ、西から屈して東に転じ、更に西南に流れて汝水と合流しました(城之西北,汝水枝別左出,西北流,又屈西東転,又西南会汝)。その形が垂瓠(垂らした瓢箪)のようだったので、懸瓠が城の名になりました)で晋兵を敗りました。潁川太守・李福が戦死し、汝南太守・朱斌は寿春に奔り、陳郡太守・朱輔は退いて彭城を守りました。

 

大司馬・桓温が西中郎将・袁真等を派遣して前燕を防がせ、桓温自らも舟師を率いて合肥に駐屯しました。

 

燕人はそのまま許昌、汝南、陳郡を攻略し、一万余戸を幽・冀二州に遷しました。また、鎮南将軍・慕容塵を派遣して許昌に駐屯させました。

 

『晋書・第八・哀帝紀』は「夏四月甲申(初五日)、慕容暐がその将・李洪を派遣して許昌を侵した。王師が懸瓠で敗績(敗北)した。朱斌は淮南に奔り、朱輔は退いて彭城を守った」と書いています。しかし『哀帝紀』は二月にも「太守・朱斌が寿陽(寿春。淮南です)に遁走した」と書いています(上述)

また、『哀帝紀』は四月の記述に続けてこう書いています「桓温が西中郎将・袁真、江夏相・劉岵等を派遣し、楊儀道を穿って通運させた。桓温は舟師を率いて合肥に駐軍した。慕容塵がまた許昌に駐屯した。」

「楊儀道」は地名のようですが、詳細はわかりません。

 

[九] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

五月、東晋が陳の人を安陸に遷して前燕の進攻から避けさせました。

『晋書・哀帝紀』の原文は「遷陳人于陸以避之」ですが、意味が通じません。中華書局『晋書・哀帝紀』校勘記が「陸」の前に「安」を補って「遷陳人于安陸」としています。安陸は陳郡南にありました。

 

[十] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

戊辰(二十日)、東晋が揚州刺史・王述を尚書令・衛将軍に任命し、大司馬・桓温に揚州牧・録尚書事を加えました。

壬申(二十四日)、侍中を派遣して桓温を諭し、入朝して政事に参与させようとしましたが、桓温は従わず、辞退して入相(入朝して政事を輔佐すること)しませんでした。

 

王述が官職を授かった時は、いつも虚譲(虚飾による謙譲)することなく、一度辞退したら必ず受け入れませんでした。

尚書令に任命されると、子の王坦之が王述にこう告げました「故事(前例)によるなら、謙譲するべきです(故事当譲)。」

王述が問いました「汝は私が(尚書令の任に)堪えられないと思うのか?」

王坦之が答えました「違います(非也)。ただ、謙譲できるというのは、元々美事だからそうするのです(但克譲自美事耳)。」

王述はこう言いました「(任に)堪えられると判断しながら、なぜまた謙譲するのだ(既謂堪之,何為復譲)。人は汝が私より優れていると言うが、間違いなく(汝は私に)及ばない(人言汝勝我,定不及也)。」

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

六月、前秦天王(秦王・苻堅)が大鴻臚を派遣し、前涼の張天錫を大将軍・涼州牧・西平公にしました。

 

[十二] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

秋七月丁卯(二十日)、東晋が詔を発し、再び大司馬・桓温を召還して入朝させました。

 

八月、桓温が赭圻(『資治通鑑』胡三省注によると、赭圻は宣城郡界内にありました。胡三省注が更に詳しく解説していますが、省略します)に至りましたが、朝廷は尚書・車灌に詔して桓温を止めさせました。桓温は赭圻に築城してそこに住み、内録の任(『資治通鑑』胡三省注によると、内録は録尚書事を指します)は固く謙譲して、揚州牧を遥領(官位だけ拝命して実際の任務には就かないこと)しました。

 

[十三] 『資治通鑑』からです。

前秦の汝南公・苻騰が謀反して誅に伏しました。

苻騰は秦主・苻生(故前秦帝)の弟です。当時、苻生の弟は晋公・苻柳等、まだ五人いました。

そこで王猛が天王(苻堅)に「五公を除かなければ、最後は必ず患いとなります(不去五公,終必為患)」と進言しましたが、天王は従いませんでした。

 

[十四] 『資治通鑑』からです。

前燕の侍中・慕輿龍が龍城に入り、宗廟および龍城に留めていた百官を全て鄴に遷しました。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

前燕の太宰・慕容恪が洛陽を取ろうとしました。まず人を派遣して士民を招納(帰順を受け入れること)します。

その結果、遠近の諸塢が皆、帰順したので、司馬・悦希を盟津に駐軍させ、豫州刺史・孫興を成皋に駐軍させました。

 

東晋の沈充の子・沈勁は、父が逆乱によって死んだので(東晋明帝太寧二年・324年参照)、功を立てることで旧恥を雪ごうと志していましたが、三十余歳になっても、刑家(刑を受けた家の者)だったため、仕官できずにいました。

呉興太守・王胡之が司州刺史になると、上書して沈勁の才行(能力と品行)を称え、禁錮を解いて自分の府事に参与させる許可を請いました。朝廷はこれに同意しましたが、ちょうど王胡之が病を患ったため、実行できませんでした。

燕人が洛陽に迫った時、冠軍将軍・陳祐が洛陽を守りましたが、その衆は二千を越えませんでした。沈勁はこれを機に自ら上表し、陳祐の下に配されて尽力する機会を求めます(勁自表求配祐效力)

そこで、朝廷は詔を発して沈勁を補冠軍長史とし、自分で壮士を募るように命じました。沈勁は千余人を得て出発します。

 

沈勁はしばしば少数の兵で燕衆(前燕の大軍)を撃ち、摧破(撃破)しました。

しかし洛陽の食糧が尽きて援軍も途絶えました。

 

九月、陳祐は洛陽を守ることができないと判断し、許昌を救うという名目で衆を率いて東に向かい、沈勁を留めて五百人で洛陽を守らせました。

沈勁は喜んでこう言いました「私の志は命を棄てることを欲しており、今、その機会を得ることができました(吾志欲致命,今得之矣)。」

陳祐は許昌が既に陥落したと聞いて新城に奔りました。

 

前燕の悦希が兵を率いて河南の諸城を攻略し、全て奪いました。

 

『晋書・第八・哀帝紀』はこう書いています「(八月)苻堅(前秦)の別帥(別将。一軍)が河南を侵し、慕容暐(前燕)が洛陽を寇した(侵した)。九月、冠軍将軍・陳祐が長史・沈勁を留めて洛陽を守らせ、(自身は)衆を率いて新城に奔った。」

『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『十六国春秋・苻堅伝』には「苻堅の別帥が河南を侵した」という記述がなく、しかも、当時の前秦はまだ前燕と河南を争おうとしていなかったので、『晋書・哀帝紀』の記述は恐らく誤りと判断しています。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

前秦天王(秦王・苻堅)が公国に対してそれぞれ三卿を置くように命じ(『資治通鑑』胡三省注によると、晋制では、王国は郎中令、中尉、大農の三卿を置きました。前秦はこの制度を踏襲しました)、他の官と併せて全て各国が自分で采辟(招聘・採用)することを許可しました。但し、郎中令だけは中央が置くことにしました(并余官皆聴自采辟,独為置郎中令)

 

富商の趙掇等は車服が僭侈(身分を越えて奢侈なこと)でしたが、諸公が競って彼等を招き、卿にしました。

黄門侍郎・安定の人・程憲が天王に進言してこのような状況を治める(正す)ように請いました。

そこで、天王が詔を下してこう称しました「本来は諸公に英儒(優れた儒士)を延選(招聘・選抜)させようと欲したが、かえってこのように猥濫(氾濫・混乱)させてしまうとは(本欲使諸公延選英儒,乃更猥濫如是)。有司(官員)に推検(調査追求)させて、辟召(招聘)した対象が相応しい者でなかったら、全て爵位を落として侯にすべきである(宜令有司推検,辟召非其人者,悉降爵為侯)。今からは、国官(各国の官員)は皆、銓衡(『資治通鑑』胡三省注によると、吏部尚書です)に委ねる。(また)命士(爵位官爵を受けた士人)以上の者でなければ、車馬に乗ってはならず、京師を去って百里以内の地では、工商や皁隸(身分が低い者)は金銀・錦繍を着てはならない。犯した者は棄市に処す。」

こうして、平陽、平昌、九江、陳留、安楽の五公が爵位を侯に落とされました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代86 東晋哀帝(四) 洛陽陥落 365年

東晋時代84 東晋哀帝(二) 前涼の政変 363年

今回は東晋哀帝興寧元年です。

 

東晋哀帝興寧元年

前涼沖王隆和二年 太清元年/前燕幽帝建熙四年/前秦天王甘露五年

癸亥 363年

 

[一] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

春二月己亥(『二十史朔閏表』によると、この年二月は「丁巳」が朔なので、「己亥」はありません)、東晋が大赦して興寧元年に改元しました。

 

[二] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

三月壬寅(十七日)、東晋の皇太妃・周氏(哀帝の母)が琅邪王邸で死にました。

癸卯(十八日)、哀帝が琅邪王邸に駆けつけて喪を治め、司徒・会稽王・司馬昱に詔して内外の衆務(諸政務)を総監させました。

 

哀帝は太妃のために三年の喪に服そうと欲しましたが、僕射・江虨が諭してこう言いました「礼によるなら、緦麻(「緦麻」は喪服の名ですが、ここでは三ヵ月の喪を意味します)に服すべきです。」

そこで哀帝は喪礼を三年から落として服朞(一年の喪に服すこと)にしようとしましたが(欲降服朞)、江虨がまた「私情を曲げて抑えるのは、祖考(祖先)を尊重するためです(厭屈私情,所以上厳祖考)」と言ったため、緦麻(三ヵ月の喪)に服しました。

『資治通鑑』胡三省注が解説しています。哀帝は琅邪王の家を出て既に大宗(皇統)に入りました。そのため江虨は、琅邪王妃だった周氏に対して哀帝が三年の喪に服すのは相応しくないと考えました。

 

[三] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

夏四月、前燕の寧東将軍・慕容忠が滎陽太守・劉遠を攻めました(これは『資治通鑑』の記述で、『晋書・哀帝紀』は「慕容暐が滎陽を寇した(侵した)」と書いています)

劉遠は魯陽に奔りました。

 

[四] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

甲戌(十九日)、揚州で地震があり、湖瀆(湖や河川)が溢れました。

 

[五] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

五月、東晋が征西大将軍・桓温に侍中・大司馬・都督中外諸軍・録尚書事を加えて黄鉞を授けました(假黄鉞)

桓温は撫軍司馬・王坦之を長史にしました。王坦之は王述(当時の揚州刺史)の子です。

また、征西掾・郗超を参軍に、王珣を主簿に任命し、事があるたびに必ず二人と謀りました。

そのため、府中の者はこう語りました「髥参軍と短主簿(鬚の参軍と背が低い主簿)は公を喜ばせることができ、公を怒らせることもできる(髥参軍,短主簿,能令公喜,能令公怒)。」

 

桓温は気概が高邁で、人を推挙することがほとんどありませんでしたが、郗超と話しをする時は、常に郗超は(その能力を)測ることができないとみなし、身を傾けて(「腰を低くして」。または「心を尽くして」)接しました(傾身待之)。郗超も自ら深く桓温と結納(交際)します。

 

王珣は王導の孫で、謝玄と共に桓温の掾になりました。謝玄は謝奕の子です(謝奕は東晋穆帝升平二年・358年に死にました)

桓温は王珣と謝玄を重んじてこう言いました「謝掾は年が四十になったら必ず旄(旗の一種)を擁して節(符節)を持つようになり、王掾は黒頭公(頭が黒い高官。若いうちに高位に就く優秀な者)になるだろう(謝掾年四十必擁旄杖節,王掾当作黒頭公)。皆、未易の才(容易には得られない賢才)である。」

 

[六] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋が西中郎将・袁真を都督司冀并三州諸軍事に、北中郎将・庾希を都督青州諸軍事にしました。

 

[七] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

癸卯(十九日)、燕人(前燕。『資治通鑑』は「燕人」、『晋書・哀帝紀』は「慕容暐」としています)が密城(『資治通鑑』胡三省注によると、密県は、漢代は河南郡に属し、晋代は滎陽郡に属しました)を攻略しました。

滎陽太守・劉遠は江陵に奔りました。

 

[八] 『晋書・第八・哀帝紀』はここで「秋七月、張天錫が涼州刺史・西平公・張玄靚を弑して、自ら大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公を称した」と書いています。『資治通鑑』は閏八月に置いています(再述します)

 

[九] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

秋七月丁酉(十四日)、東晋が章皇太妃(哀帝の母・周氏。「章」という諡号を贈られたようです)を埋葬しました。

 

[十] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

八月、孛星(異星。彗星の一種)が角亢(角宿と亢宿。星座名)に現れ、天市(星座名)に入りました。

 

[十一] 『資治通鑑』からです。

張玄靚の祖母・馬氏が死にました。

張玄靚は庶母・郭氏を尊んで太妃にしました。

 

当時は張天錫が専政していたため、郭氏が大臣・張欽等と謀って張天賜を誅殺しようとしました。しかし、事が漏れて張欽等は皆死にました。

張玄靚は懼れを抱いて位を張天錫に譲りましたが、張天錫は受けませんでした。

 

右将軍・劉粛等が張天錫に自立するように勧めました。

閏月(『二十史朔閏表』によると、閏八月です)、張天錫が劉粛等を送り、夜の間に兵を率いて入宮させ、張玄靚を弑殺しました。

張天錫は張玄靚が暴卒(突然死)したと宣言して、沖公という諡号を贈りました。

『晋書・列伝第五十六(張玄靚伝)』によると、張玄靚はこの時十四歳でした。

 

張天錫が自ら使持節・大都督・大将軍・涼州牧・西平公を称しました。この時十八歳です。

母の劉美人を尊んで太妃にしました。

 

張天錫は司馬・綸騫(綸が氏です)を派遣し、章(上奏文)を奉じて建康を訪ねさせ、東晋の命を請いました。同時に御史・兪帰を送り出して東晋に還らせました(『資治通鑑』胡三省注によると、兪帰は東晋穆帝永和三年・347年に使者として涼州に派遣され、この年、やっと帰還できました)

 

前述のとおり、『晋書・第八・哀帝紀』は秋七月に「張天錫が涼州刺史・西平公・張玄靚を弑して、自ら大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公を称した」と書いています。『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『資治通鑑』は『晋春秋』に従って閏月に置いています。

 

[十二] 『晋書・第八・哀帝紀』からです(『資治通鑑』は採用していません)

九月壬戌(初十日)、東晋の大司馬・桓温が衆を率いて北伐しました。

 

[十三] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

癸亥(十一日)、東晋で皇子が生まれたため(皇子の詳細は不明です)、大赦しました。

 

[十四] 『晋書・第八・哀帝紀』からです。

冬十月甲申(初三日)、東晋が陳留王の世子・曹恢を王に立てました。

 

陳留王は魏帝の子孫です。東晋穆帝升平二年(358年)に陳留王・曹勱(魏武帝(曹操)の玄孫。「曹勵」とも書きます)が死にました。曹恢は曹勱の世子だと思われます。

 

[十五] 『資治通鑑』からです。

前燕の鎮南将軍・慕容塵が長平(『資治通鑑』胡三省注によると、長平県は、西漢は汝南郡に属し、東漢から晋は陳郡に属しました)で東晋の陳留太守・袁披を攻撃しました。

 

東晋の汝南太守・朱斌(『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『燕書』では「朱黎」です。『資治通鑑』は『晋書・哀帝紀』(下述)に従って「朱斌」としています)が虚に乗じて許昌を襲い、攻略しました。

 

『資治通鑑』はこの出来事を十月に置いていますが、『晋書・第八・哀帝紀』は「この年、慕容暐(前燕)の将・慕容塵が長平で陳留太守・袁披を攻めた。汝南太守・朱斌が虚に乗じて許昌を襲い、これを攻略した(克之)」と書いています。

 

[十六] 『資治通鑑』からです。

代王・拓跋什翼犍が高車を撃って大破し、俘獲(捕虜や戦利品)が一万余口と馬・牛・羊百余万頭に上りました。

 

『資治通鑑』胡三省注によると、高車は敕勒です。高輪の車に乗る習慣があったため、「高車部」と号しました。古赤狄の余種のようです。かつては「狄歴」と号しており、北方では「高車丁零」と呼ばれていました。水草に従って移住し、毛皮を着て肉を食べるという習慣は(衣皮食肉)、柔然と同じです。

 

[十七] 『晋書・第八・哀帝紀』と『資治通鑑』からです。

東晋が征虜将軍・桓沖を江州刺史にしました。

 

十一月、姚襄の故将・張駿(『資治通鑑』胡三省注によると、以前、桓温が姚襄を破った時、姚襄の将・張駿、楊凝等を獲て尋陽に遷しました)が江州督護・趙毗を殺し、武昌を焼いて府藏を略奪し、その徒を率いて、東晋に叛して北に向かおうとしましたが(帥其徒北叛)、桓沖がこれを討って斬りました。

 

 

次回に続きます。

東晋時代85 東晋哀帝(三) 沈勁 364年