三国時代25 魏明帝(四) 街亭の戦い 228年(2)

 

今回は魏明帝太和二年の続きです。

 

[三] 『三国志・魏書三・明帝紀(裴松之注含む)』『三国志・蜀書三・後主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝(裴松之注含む)』および『資治通鑑』からです。

蜀漢の越巂太守・馬謖は才器(才覚、度量)が人を越えており、軍計を論じることを好んだため、諸葛亮に深く器異を加えられていました(重視、重用されていました)

しかし蜀漢昭烈帝(劉備)は臨終の際、諸葛亮にこう言いました「馬謖は言が実を越えているので(言葉で語っている内容に実際の能力が追いついていないので)、大用(重用)するべきではない。君はこれを察するべきだ(馬謖言過其実,不可大用,君其察之)。」

諸葛亮はこの考えに賛同せず(猶謂不然)、馬謖を参軍に任命し、引見して談論するたびに、いつも昼から夜に達しました。

『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「孔明(諸葛亮)の明略(高明な才略)をもってして、このように馬謖を遇したことからも、(馬謖が)軍計を論じるのが得意だったことを見て取るに足りる。孔明が南征した時、馬謖が『攻心の論(敵の心を攻めるという論)』を述べたことを観ると、悠々と坐して弁舌するだけの者が及ぶことではない(馬謖には実際に能力があったはずだ。原文「豈悠悠坐談者所能及哉」)。」

 

諸葛亮が祁山に軍を出した時は、旧将である魏延や呉懿等を用いて先鋒にすることなく、馬謖に諸軍を督(監督)して前に進ませ、街亭で張郃と戦わせました。

 

ところが、馬謖は諸葛亮の節度(指示)に違え、措置・行動が混乱し、川を放棄して山に登り、山下の城を拠点にしませんでした(挙措煩擾,舍水上山,不下拠城)

『三国志・魏書十七・張楽于張徐伝』によると、馬謖は南山の険阻な地形に頼って陣を構えました(依阻南山)

 

張郃は汲道(水を汲むための道)を絶ってから馬謖を撃ち、これを大破しました。馬謖の士卒が離散します。

 

街亭の敗戦によって諸葛亮は進軍するための拠点がなくなってしまったので、西県の千余家を抜いて(遷して)漢中に還りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、西県は、西漢時代は隴西郡に属しましたが、東漢時代は漢陽郡に属しました。

 

諸葛亮は馬謖を逮捕して獄に下し、処刑して衆人に謝罪しました。

諸葛亮自ら祭(追悼の儀式)に臨み、馬謖のために涙を流します。

また、遺孤(孤児)を慰撫して今までと同じように恩遇しました(恩若平生)

 

蒋琬が諸葛亮に言いました「昔、楚が得臣(子玉)を殺したので、(晋)文公が喜色を表しました(原文「昔楚殺得臣,文公喜可知也」。東周襄王二十一年・前632年参照)。天下がまだ定まっていないのに、智計の士を殺戮してしまうのは、惜しい事ではありませんか(豈不惜乎)。」

『資治通鑑』胡三省注は「これを観ると、蒋琬もまた馬謖を重んじていたのである」と書いています。

 

諸葛亮が涙を流して言いました「孫武が天下において勝ちを得ることができたのは、法を用いる態度が明確だったからだ(孫武所以能制勝於天下者,用法明也)。だから揚干が法を乱したら、魏絳がその僕を殺戮した(東周霊王二年・前570年参照)。四海が分裂し、兵交(交戦)が始まったばかりなのに、もしまた法を廃してしまったら、何によって賊を討つというのだ(何用討賊邪)。」

 

馬謖が敗れる前に、裨将軍・巴西の人・王平が馬謖を繰り返し規諫(忠告・諫言)しましたが、馬謖は用いることができませんでした。

馬謖が敗れると、部衆がことごとく星散(四散)しましたが、王平が率いる千人だけは戦鼓を鳴らして自分を守りました。

そのおかげで、張郃は伏兵がいると疑って王平に逼迫しませんでした。

王平はゆっくりと諸営の遺迸(敗残兵)を收合し、将士を率いて帰還しました。

 

諸葛亮は既に馬謖と将軍・李盛を誅殺し、将軍・黄襲等の兵を奪っていました。

無事に帰還した王平は特別に崇顕(尊重)され、抜擢されて参軍を拝命し、五部の兵を統率して漢中の営屯の事も担当することになり(加拝参軍統五部兼当営事)、位が討寇将軍に進んで亭侯に封じられました。

『資治通鑑』胡三省注は「後漢(東漢)の制では、列侯には県侯、郷侯、亭侯があった」と解説しています。

 

諸葛亮が上書して自ら位三等を落とすことを請いました。以下、上書の内容です「臣は弱才によって居るべきではない位に就き(叨竊非據)、自ら旄鉞(軍権を象徴する旗と鉞)をもって三軍を激励しましたが、法規を教えて軍法を明らかにすることができず(不能訓章明法)、事に臨んで懼れたので(「懼」の意味が分かりません)、街亭では違命の闕(馬謖が命に違えるという欠陥、失敗)があり、箕谷では不戒の失(警戒しなかったために招いた過失。趙雲等の敗戦を指します。下述します)があるという状況に至らせてしまいました(至有街亭違命之闕,箕谷不戒之失)。咎(罪)は皆、臣が任を授けるに当たって方法が正しくなかったことにあります(咎皆在臣授任無方)。臣の明は人を知らず(臣には人を知る英明さがなく)、恤事(問題を考慮すること)においても多くが闇く(暗く)、『春秋』(の義)においては帥(将帥)を責めるものであり、臣の職がそれに当たるので、自ら三等を落としてこの咎(罪)を責めることを請います(原文「請自貶三等以督厥咎」。この「督」は罰責の意味です)。」

 

後主(漢主・劉禅)は諸葛亮を右将軍にして、丞相の政務を代行させました(原文「行丞相事」。正式な丞相職を解かれたことになります)。但し、総統(統領・統括)の職務は以前のままです。

 

趙雲と鄧芝の兵も箕谷で敗れました。趙雲が衆兵を集めて居守(留まって守ること)したため、損傷は大きくありませんでしたが、敗戦の罪に坐して位を落とされ、鎮軍将軍になりました(坐貶為鎮軍将軍)

『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「『晋書‧職官志』によると、鎮軍将軍は四征・四鎮将軍の上にある。今、趙雲が鎮東将軍から鎮軍将軍に落とされたのは、蜀漢の制度である。鎮東将軍は一方面を専門に鎮守するが、鎮軍将軍は散号(特定の職責がない将軍号)なので、位を落とされたことになる。」

 

諸葛亮が鄧芝に問いました「街亭の軍が退く時は、兵将を収拾できなかったのに(原文「不復相録」。この「録」は収拾の意味です)、箕谷の軍が退く時は兵将が初めから失われなかった(初不相失)。これはなぜだ(何故)?」

鄧芝が答えました「趙雲が身をもって自ら後を断ったので、軍資什物(器物)で棄てられた物はなく(略無所棄)、兵将も失う理由がなかったのです(兵将無縁相失)。」

 

趙雲の軍にはまだ物資や残った絹がありました。

諸葛亮がそれらを分けて将士に下賜しようとしましたが、趙雲はこう言いました「軍事に利がなかったのに、なぜ賞賜があるのでしょう(何為有賜)。これらの物は全て赤岸庫に入れ、十月になるのを待って冬賜(冬の賞賜)とすることを請います。」

諸葛亮は大いに善としました(称賛・賛同しました)

『資治通鑑』胡三省注によると、「赤岸」は「赤崖」ともいい、蜀はここに倉庫を置いて軍資を蓄えていました。

 

ある人が諸葛亮に改めて兵を徴発するように勧めましたが、諸葛亮はこう言いました「大軍が祁山・箕谷にいた時、どちらも賊(魏軍)より多かったのに、賊を破ることができず、(逆に)賊に破られることになったのは、すなわち、問題が兵の少ないことにあったのではなく、一人にあったのだ(兵の多寡が問題ではなく、将軍の能力が問題だったのだ。原文「此病不在兵少也,在一人耳」)。今は兵を減らして将を省き、罪を明らかにして過ちを反省し、将来における変通の道を考察しようと欲している(欲減兵省将,明罰思過,校変通之道於将来)。もしこのようにできなかったら、たとえ兵が多くても、何の益があるだろう(雖兵多何益)。今から後は、国に対して忠慮(忠誠に基く思慮、計策)を抱いている全ての者が、ただ勤めて私の欠点を攻めさえすれば、大事を定ることができ、賊を倒すことができ、蹻足して功績を待つことができるだろう(原文「諸有忠慮於国者,但勤攻吾之闕,則事可定,賊可死,功可蹻足而待矣」。「蹻足」は脚を挙げることで、短い時間の比喩です。「すぐに功績を立てることができる」という意味です)。」

 

この後、諸葛亮はわずかな功労も考察して壮烈の士を査定しました(考微労,甄壮烈)

また、咎があったら自分のものとしてその身を譴責し、過失を境内に布告します(引咎責躬布所失於境内)

更に兵を鍛えて武を習わせ、将来の準備をしました(厲兵講武以為後図)

こうして戎士(戦士)が精練され、民は街亭の敗戦を忘れるようになります。

 

諸葛亮が祁山に出た時、魏の天水参軍・姜維が諸葛亮を訪ねて降りました。諸葛亮は姜維の膽智を称賛します。

そこで姜維を招聘して倉曹掾に任命し、軍事を担当させました

『資治通鑑』胡三省注によると、丞相の官属に倉曹掾がおり、倉穀の事を主管しました。

 

『三国志・蜀書十四・蒋琬費禕姜維伝』裴松之注にはこう書かれています。

姜維が諸葛亮を訪ねた時、母と別れてしまいました。後に母の書を得て帰るように求められます(母が姜維に帰るように要求しました)

しかし姜維はこう言いました「良田が百頃もあったら一畝にこだわることはない。遠志がありさえすれば、帰るかどうかにこだわる必要はない(良田百頃不在一畝,但有遠志不在当帰也)。」

 

『資治通鑑』はこの記述を採用していません。胡三省は「姜維が学術(教化。儒学の教え)を大まかにでも理解していたことを考えると、恐らくこのようにすることはない(遠志のために母を棄てるのは姜維らしくないという意味だと思います。原文「按維粗知学術恐不至此」)」と書いています。

 

また、『三国志・諸葛亮伝』裴松之注はこのような記述も紹介しています。

諸葛亮が祁山に出ると、隴西、南安の二郡がすぐに降りました。(諸葛亮は)天水を包囲し、冀城を攻略し、姜維を虜にし、士女数千人を奪い、それを駆り立てて蜀に還りました。

人々が皆、諸葛亮を祝賀しましたが、諸葛亮の顔色は愀然(厳粛で楽しめない様子)として戚容(悲傷、憂傷の面持ち)があり、謝してこう言いました「普天の下において、漢民でない者はいない(天下の民は全て漢の民である。原文「普天之下,莫非漢民」)。しかし国家の威力がまだ挙がらず、百姓を豺狼の吻に困窮させている(原文「困於豺狼之吻」。「豺狼」は山犬や狼、「吻」は口です。「豺狼の吻に困窮する」というのは、豺狼の餌食となって苦しんでいる、という意味で、魏の統治下に居る民の状況を表します)。一夫が死んだとしても、全て亮(私)の罪だ。今回のことによって祝賀されたら、どうして慚愧せずにいられるだろう。」

この後、蜀人は皆、諸葛亮には魏を呑みこむ志があり、ただ国土を広げようと思っているわけではないと知りました。

裴松之はこの記述を引用した後、こう反論しています「諸葛亮は魏を呑みこもうとする志を抱いて久しく、始めてここで衆人が知ったのではない。また、この時は師を出して成功せず、傷缺(負傷)して還った者が多数おり、三郡も帰降したが保有できなかった。姜維は天水の匹夫に過ぎないので、これを獲ても魏に何の損失があっただろう。西県の千家を奪っても、街亭で喪ったものを補うことはできない。何を功とみなして、蜀人が祝賀したというのだ。」

 

本文に戻ります。

諸葛亮が走ったので、曹真が安定等の三郡を討って全て平定しました。

曹真は「諸葛亮は祁山の失敗で懲りたので、今後は必ず陳倉から出ようとするはずだ」と考え、将軍・郝昭等に陳倉を守らせて城を修築するように命じました。

 

以下、『三国志・明帝紀』裴松之注からです。

魏明帝が天下に露布(宣布)し、益州に班告(布告)してこう言いました「劉備は恩に背いて自ら巴蜀に逃亡した(自竄巴蜀)。諸葛亮は父母の国を棄てて残賊の党に阿り(おもねり)、神も人もその毒を被ったが、悪を積み重ねて身を滅ぼした。諸葛亮は、外(外見)は立孤の名(父を喪った劉禅を輔佐するという名義)を慕って(思って)いるが、内は専擅の実を貪っており、劉升之兄弟は空城を守っているだけに過ぎない(「劉升之」は劉禅を指します。劉禅の字は「公嗣」ですが、『三国志集解』は「升之」を「別の字ではないだろうか」と書いています。この一文は、「諸葛亮が専権しているので、劉禅兄弟には実権がなく、中身のない城を守っているだけだ」という意味です)。諸葛亮はまた、益土(益州)を侮易(軽視、侮蔑)し、その民を虐用した。そのため、利狼、宕渠、高定、青羌で瓦解しないものはなく、諸葛亮の仇敵となった。しかも諸葛亮は裘(毛皮の服)を裏返しに着て薪を背負い、裏返しにした裘の毛が尽きるまで着続け(原文「反裘負薪,裏尽毛殫」。毛皮がもったいないので裏返しに着て薪を背負うという意味です。貧困な様子を形容していますが、物事の本末を知らない愚昧な者を風刺する意味もあります)、足を切って履物の大きさに合わせ、肌を刻んで骨を傷つけているのに(原文「刖趾適屨,刻肌傷骨」。靴が合わない時、大きな靴を買わずに足を削って合わせる、という意味で、愚昧な者を風刺しています)、逆に自分を称賛して有能だと思い(反更称説自以為能)、井戸の底で行軍して、牛蹄(牛の蹄、または牛の足跡)の上で遊歩している(原文「行兵於井底,游歩於牛蹄」。狭い世界で動き回っているという意味です)

朕が即位してからは三辺に事(戦事)がなかったが、それでも天下がしばしば兵革(戦争)に遭ったことを哀憐し、そのうえ、四海の耆老(老人)を養って後生の孤幼を育てようと欲したので、先に礼楽において移風(教化。風俗を変えること)し、次に農隙において講武した(農閑期に武を講習した)。諸葛亮は画(計画)の外に置いており、虞(おそれ)にはなっていない。ところが諸葛亮は李熊のような愚勇な志を抱き(李熊は公孫述の部下で、公孫述に即位を勧めました。玄漢劉玄更始三年・東漢光武帝建武元年・25年参照)、荊邯のような度徳の戒(自分の徳行を量るという戒め)を思わず(荊邯も公孫述の部下で、積極的に光武帝と戦うように勧めました。東漢光武帝建武六年・30年参照。明帝がここで荊邯を引用しているのは相応しくないようです。『三国志集解』も「与此不合」と書いています)、吏民を駆略して(駆逐して奪い)、祁山で利を盗んだ。(しかし)王師(魏軍)がまさに振うと、胆をつぶして気が奪われ(膽破気奪)、馬謖と高祥が(魏の)旗を望んで奔敗(逃走・敗北)した。(魏の)虎臣が敗北した敵を逐い、屍を踏んで血を渡ると、諸葛亮も小子に過ぎないので、朕の師(軍)に震驚(震撼驚愕)した(虎臣逐北蹈尸渉血,亮也小子震驚朕師)。猛鋭(な我が軍)は踊躍し、皆が長駆したいと思ったが、朕が考えるに、天下において王の臣ではない者はおらず(率土莫非王臣)、師(軍)がいる所には荊棘が生えてしまうので(行軍・駐留したらその地が荒れ果ててしまうので)、千室の邑(千戸の村)の忠信貞良(な人々)に、あの淫昏の党(極めて暗愚な者達)と一緒に塗炭(苦難)を受けさせることは欲しなかった(魏に帰順する人々が、諸葛亮に与する暗愚な者達と共に苦難を受けることは願わなかったので、軍を深入りさせなかった)

よって先に開示し、国誠(国の誠意)を明らかにする。勉めて変化を思い(考えを変え)、乱邦(混乱した地域)に留まってはならない(勉思変化,無滞乱邦)。巴蜀の将吏・士民で、諸葛亮に劫迫(脅迫)された者は全て、公卿以下、皆、束手(投降)を許可する(巴蜀将吏士民諸為亮所劫迫,公卿已下皆聴束手)。」

 

 

次回に続きます。

三国時代26 魏明帝(五) 石亭の戦い 228年(3)

 

 

 

三国時代24 魏明帝(三) 孟達の失敗 228年(1)

 

今回は魏明帝太和二年です。四回に分けます。

 

魏明帝太和二年 蜀漢後主建興六年 呉王黄武七年

戊申 228年

 

[一] 『三国志・魏書三・明帝紀』『晋書・巻一・高祖宣帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月、魏の司馬懿が新城を攻めました。

上庸城は三面が水(川)で阻まれており、孟達は城外に木柵を作って守りを固めていました(孟達が魏に帰順した時、魏は房陵、上庸、西城の三郡を合併して新城とし、孟達を新城太守にしました。孟達は上庸を拠点にしていました)

 

司馬懿は水(川)を渡って柵を破壊し、直接、城下に到りました。八道(八方向)から城を攻撃して十六日経つと、孟達の甥・鄧賢、将・李輔等が門を開いて投降します。

司馬懿は新城を攻略して孟達を斬り、その首を京師に送りました。

 

『三国志・明帝紀』裴松之注はこう書いています「宣王(司馬懿)が孟達の将・李輔および孟達の甥・鄧賢を誘った。鄧賢等は門を開いて軍を中に入れた。孟達は包囲されて十六日で敗れ、その首は洛陽の四達の衢(四方に繋がる大通り)で焚かれた(焼かれた)。」

本文に戻ります。

司馬懿は一万余人を俘獲(捕獲)し、振旅して(兵を整えて)宛に還りました。

司馬懿が農桑を奨励して浮費(浪費)を禁じたので、南土(南方。新城郡)が悦んで帰附しました。

 

申儀は久しく魏興におり、疆埸(辺境)で威を専らにし(専横し)、勝手に承制(皇帝に代わって命令を出すこと)によって官員の印を作り、多数の者を不正に任命していました(擅承制刻印,多所假授)

孟達が誅殺されると、申儀も疑心を抱くようになります。

当時、司馬懿が克捷(戦勝)したばかりだったため、諸郡守は司馬懿に礼物を献上し、祝賀のため謁見する機会を求めました(奉礼求賀)

司馬懿はこれに同意し、人を送って申儀にも祝賀するように促しました。

申儀が到着すると、司馬懿は承制の状況を問責し、捕えて京師に帰らせました。

 

司馬懿はまた孟達の余衆七千余家を幽州に遷しました。

蜀将・姚静、鄭他等がその属(部衆)七千余人を率いて投降しました。

 

当時、辺境の郡が新たに帰属しましたが、多くの者に戸名(戸籍の登録)がありませんでした。

魏朝は隠実(審査)を加えたいと欲したため(実際の戸籍の状況を確かめたいと思ったので)、司馬懿に命じて京師に入朝させました。

明帝が司馬懿に意見を求めると、司馬懿はこう答えました「賊(蜀漢)は密網によって下を束ねたので(厳しい法によって民を治めたので)、下の者がこれを棄てたのです。大綱(寛大な法)を弘めるべきです(または「大綱によって寛大にするべきです」。原文「宜弘以大綱」)。そうすれば自然に安楽になります(民が安んじて楽しむようになるので、人口も増えます)。」

明帝はまた、「二虜を討つべきだが、どちらを先にするべきだ(二虜宜討,何者為先)」と問いました。

司馬懿が答えました「呉は中国(中原。魏)が水戦に習熟していないと思っているので、敢えて東関で散居(分散)しています。およそ敵を攻める時というのは、その喉元をつかんで心臓を刺すものです(必扼其喉而樁其心)。夏口と東関は賊の心喉です。もし陸軍を発して皖城に向かわせ、孫権をおびき出して東下させ(引権東下)、水戦の軍を発して夏口に向かわせ、その虚に乗じてこれを撃てば、これは神兵が天から降って来るようなものであり、敵を破るのは必定です(此神兵従天而墮,破之必矣)。」

明帝はどちらの意見にも納得し、司馬懿に命じて再び宛に駐屯させました。

 

魏は新城郡から上庸、武陵、巫県を分けて上庸郡とし、錫県を分けて錫郡にしました。

 

[二] 『三国志・魏書三・明帝紀(裴松之注含む)』『三国志・蜀書三・後主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝(裴松之注含む)』および『資治通鑑』からです。

以前、魏の征西将軍・夏侯淵の子・夏侯楙が太祖(曹操)の娘・清河公主を娶りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、清河公主は本来、曹操が丁儀に娶らせようとしましたが、文帝が諫めたため、夏侯楙の妻になりました。

 

(『三国志・魏書九・諸夏侯曹伝』によると、この「帝」は文帝です)は若い頃から夏侯楙と親善な関係にあり、即位すると夏侯楙を安西将軍に任命しました。関中を都督して長安を鎮守させ、夏侯淵が守っていた地域を継がせます。

 

蜀漢の諸葛亮(『三国志・明帝紀』は「蜀の大将・諸葛亮」と書いています)が入寇しようとした時(魏を攻めようとした時)、群下とこの事について謀りました。

丞相司馬・魏延(『資治通鑑』胡三省注によると、漢の丞相には長史がいましたが、司馬はいませんでした。しかし当時は諸葛亮が丞相として兵を用いていたので、司馬を置きました)が言いました「聞くところによると、夏侯楙は主(魏帝)の壻でありながら、臆病なうえ謀がありません(聞夏侯楙,主壻也,怯而無謀)。今、延(私)に精兵五千を授けていただければ、五千人分の食料を背負い、直接、褒中から出て、秦嶺を巡って東に向かい、子午に至って北に向かい、十日も経たずに長安に到着できます(原文「今、假延精兵五千,負糧五千,直從褒中出,循秦嶺而東,当子午而北,不過十日,可到長安」。『資治通鑑』胡三省注によると、褒中県は漢中郡に属します。子午道は王莽が開通しました(西漢平帝元始五年・5年参照)。東漢安帝延光四年(125年)、安帝の死後、順帝が子午道を廃して褒斜路を開通しました)。延(私)が突然至ったと夏侯楙が聞いたら、必ず城を棄てて逃走します。長安の中には御史と京兆太守がいるだけです(『資治通鑑』胡三省注によると、当時、魏は督軍御史と京兆太守を派遣して共に長安を守らせていました。魏文帝が禅譲を受けてから、漢の京兆尹を太守に変えました)。横門邸閣と散民の穀(食糧)があれば(『資治通鑑』胡三省注によると、魏は横門(恐らく地名)に邸閣を設けて食糧を蓄えていました。「散民」は蜀漢の兵が来たと聞いて離散した民です)、食糧をやりくりするに足ります(足周食也)(敵が)東方で合聚(集結)するまで、尚二十許日(二十余日)が必要であり、公が斜谷から来れば、(長安に)達するにも充分です。このようにすれば、一挙して咸陽以西を定めることができます。」

 

諸葛亮はこれを危計(危険な計)とみなしました。平坦な道を進む安全な計を採るべきであり、そうすれば平穏に隴右を取ることができるので、万全必勝で危惧することもない(十全必克而無虞)と考え、魏延の計を却下します。

 

『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「今から観ると、皆、諸葛亮が魏延の計を用いなかったことを怯(臆病)とみなしている。しかし、兵を動かす時とは、敵の主を知り、敵の将を知るものである。諸葛亮が魏延の計を用いなかったのは、魏主の明略を知り、しかも司馬懿の輩(類)を軽視できなかったからである。諸葛亮は平穏に隴右を取ろうとしたが、それすら志を獲られなかった(且不獲如志)。どうして僥倖(幸運)に乗じて咸陽以西を全て定めようと欲するだろう。」

 

諸葛亮は斜谷道から進んで郿を取ると揚声(宣言)しました。

鎮東将軍・趙雲、揚武将軍・鄧芝を疑兵(「疑兵」は『資治通鑑』の記述です。『三国志・諸葛亮伝』では「疑軍」です)とし、箕谷を占拠させます。

『資治通鑑』胡三省注によると、郿の故城は陳倉県東北十五里の地にありました。

箕谷は鄭子真(西漢時代の隠者)が住んだ場所で、陳倉の南、漢中の北に位置します。

 

魏明帝は曹真を派遣し、関右諸軍を都督して郿に駐軍させました。

これは『資治通鑑』の記述です。『三国志・明帝紀』は「大将軍・曹真を派遣して関右を都督させ(都督関右)、そろって兵を進めさせた(並進兵)」と書いています。「兵を進めた」というのは、「郿に駐軍した」ことを指すようです。

『三国志・諸葛亮伝』の記述は「魏の大将軍・曹真が衆を挙げてこれ(蜀漢軍)を拒んだ」です。

 

諸葛亮は自ら大軍を率いて祁山を攻めました。軍陣が整然としており、賞罰が厳粛で号令も明確です。

 

魏は蜀の人材は劉備しかいないと思っており、その劉備が既に死に、数年間、動きがなく静かだったため(数歳寂然無聞)、防備が全くありませんでした(略無備豫)

今回、突然、諸葛亮の出兵を聞いて、朝野(朝廷と民間)が恐懼しました。隴右と祁山が最も甚だしく、天水、南安、安定三郡の吏民が全て魏に叛して同時に諸葛亮に応じます。

『資治通鑑』胡三省注によると、魏が隴右を分けて秦州を置きました。天水と南安の地はここに属します。但し、南安郡は東漢霊帝時代に漢陽の䝠道を分けて置かれましたが、天水郡は晋代になって漢陽郡が天水に改められるので、史書がここで「天水」と書いているのは、後の地名を使っているようです(史追書也)。安定郡は雍州に属します。

 

諸葛亮の進撃によって関中が響震(震撼)し、朝臣には為す術がありませんでした(未知計所出)

しかし明帝はこう言いました「諸葛亮は山に頼って守りを固めていたのに(阻山為固)、今回、自ら出て来た。正に兵書による『致人の術(敵を誘う術)』と合致しており(『資治通鑑』胡三省注によると、『兵法』に「戦を善くする者は人を誘い出す(善戦者致人)」とあります。明帝はこの言葉によって朝野の心を安定させようとしました)、しかも諸葛亮は三郡を貪って、進むことは知っていても退くことは知らない。今、この時に乗じれば、諸葛亮を破るのは必定である(今因此時,破亮必也)。」

 

こうして明帝は兵馬を整え、歩騎五万を準備し、右将軍・張郃を送ってこれを督(監督)させ、西に向かって諸葛亮を拒ませました。

 

丁未(中華書局『白話資治通鑑』は「丁未」を恐らく誤りとしています。筑摩書房『三国志(訳本)』では「二月十七日」です)、魏明帝も行幸して西に向かい長安に入って鎮守しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、明帝は自ら軍を率いて張郃の後に続き、声勢を張りました(後援として気勢を挙げました)

 

 

次回に続きます。

三国時代25 魏明帝(四) 街亭の戦い 228年(2)

 

 

曹植の誄

 

魏文帝黄初七年(226年)、文帝が死に、鄄城侯・曹植が誄(死者の功績を述べて追悼する文章)を作りました。

三国時代21 魏文帝(二十一) 士徽討伐 226年(2)

 

ここで原文を紹介します(翻訳はしません)

 

惟黄初七年五月七日(恐らく「十七日」の誤りです),大行皇帝崩,嗚呼哀哉。

于時天震地駭,崩山隕霜,陽精薄景,五緯錯行,百姓呼嗟,万国悲傷,若喪考妣,思慕過唐,擗踊郊野,仰想穹蒼,僉曰何辜,早世殞喪,嗚呼哀哉。

悲夫大行,忽焉光滅,永棄万国,雲往雨絶。承問荒忽,惛懵哽咽,袖鋒抽刃,歎自僵斃,追慕三良,甘心同穴。感惟南風,惟以鬱滞滯,終於偕没,指景自誓。考諸先記,尋之哲言,生若浮寄,唯徳可論,朝聞夕逝,孔志所存。皇雖一没,天禄永延,何以述徳。表之素旃。何以詠功。宣之管絃。

乃作誄曰:

皓皓太素,両儀始分,中和産物,肇有人倫,爰暨三皇,実秉道真,降逮五帝,継以懿純,三代制作,踵武立勳。季嗣不維,網漏于秦,崩楽滅学,儒坑礼焚,二世而殲,漢氏乃因,弗求古訓,嬴政是遵,王綱帝典,闃爾無聞。末光幽昧,道究運遷,乾坤迴暦,簡聖授賢,乃眷大行,属以黎元。龍飛啓祚,合契上玄,五行定紀,改号革年,明明赫赫,受命于天。仁風偃物,徳以礼宣,祥惟聖質,嶷在幼妍。庶幾六典,学不過庭,潜心無罔,抗志青冥。才秀藻朗,如玉之瑩,聴察無嚮,瞻睹未形。其剛如金,其貞如瓊,如冰之潔,如砥之平。爵公無私,戮違無軽,心鏡万機,攬照下情。思良股肱,嘉昔伊呂,搜揚側陋,挙湯代禹。抜才巖穴,取士蓬戸,唯徳是縈,弗拘禰祖。宅土之表,道義是図,弗營厥険,六合是虞。齊契共遵,下以純民,恢拓規矩,克紹前人。科條品制,褒貶以因。乗殷之輅,行夏之辰。金根黄屋,翠葆龍鱗,紼冕崇麗,衡紞維新,尊粛礼容,矚之若神。方牧妙挙,欽於恤民,虎将荷節,鎮彼四鄰。朱旗所剿,九壤被震,疇克不若。孰敢不臣。縣旌海表,万里無塵。虜備凶徹,鳥殪江岷,権若涸魚,乾腊矯鱗,粛慎納貢,越裳效珍,條支絶域,侍子内賓。徳儕先皇,功侔太古。上霊降瑞,黄初叔祜。河龍洛亀,淩波游下。平鈞応繩,神鸞翔舞。数莢階除,系風扇暑。皓獣素禽,飛走郊野。神鍾宝鼎,形自旧土。雲英甘露,瀸塗被宇。霊芝冒沼,朱華蔭渚。回回凱風,祁祁甘雨,稼穡豊登,我稷我黍。家佩恵君,戸蒙慈父。図致太和,洽徳全義。将登介山,先皇作儷。鐫石紀勳,兼録衆瑞,方隆封禅,帰功天地,賓礼百霊,勳命視規,望祭四嶽,燎封奉柴,粛于南郊,宗祀上帝。三牲既供,夏禘秋嘗,元侯佐祭,献璧奉璋。鸞輿幽藹,龍旂太常,爰迄太廟,鍾鼓鍠鍠,頌徳詠功,八佾鏘鏘。皇祖既饗,烈考来享,神具酔止,降茲福祥。天地震蕩,大行康之。三辰暗昧,大行光之。皇紘絶維,大行綱之。神器莫統,大行当之。礼楽廃弛,大行張之。仁義陸沈,大行揚之。潜龍隠鳳,大行翔之。疏狄遐康,大行匡之。在位七載,元功仍挙,将永太和,絶跡三五,宜作物師,長為神主,寿終金石,等算東父,如何奄忽,摧身后土,俾我●●(●は同じ文字で、「煢」の「冖」がない字です),靡瞻靡顧。嗟嗟皇穹,胡寧忍務。嗚呼哀哉。明監吉凶,礼遠存亡,深垂典制,申之嗣皇。聖上虔奉,是順是将,乃剏玄宇,基為首陽,擬跡穀林,追堯慕唐,合山同陵,不樹不疆,塗車芻霊,珠玉靡藏。百神警侍,来賓幽堂,耕禽田獣,望魂之翔。於是,俟大隧之致功兮,練元辰之淑禎,潜華礼於梓宮兮,馮正殿以居霊。顧望嗣之号咷兮,存臨者之悲声,悼晏駕之既脩兮,感容車之速征。浮飛魂於軽霄兮,就黄墟以滅形,背三光之昭晰兮,帰玄宅之冥冥。嗟一往之不反兮,痛閟闥之長扃。咨遠臣之眇眇兮,感凶諱以怛驚,心孤絶而靡告兮,紛流涕而交頸。思恩榮以横奔兮,閡闕塞之嶢崢,顧衰絰以軽挙兮,迫関防之我嬰。欲高飛而遥憩兮,憚天網之遠経,遥投骨於山足兮,報恩養於下庭。慨拊心而自悼兮,懼施重而命軽,嗟微駆之是效兮,甘九死而忘生,幾司命之役籍兮,先黄髪而隕零,天蓋高而察卑兮,冀神明之我聴。独鬱伊而莫愬兮,追顧景而憐形,奏斯文以写思兮,結翰墨以敷誠。嗚呼哀哉。

 

 

 

出師の表

 

魏明帝太和元年・蜀漢後主建興五年(227年)、蜀漢の丞相・諸葛亮が『出師の表』を書きました。

三国時代22 魏明帝(一) 諸葛亮の北伐 227年(1)

 

以下、『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』『資治通鑑』の本文と注釈から紹介します(訳文の下に原文も併記します)

 

先帝(劉備)は創業がまだ半ばであるのに、中道(途中)で崩殂(崩御)しました。今は天下が三分しており、益州(蜀)(最も)疲弊しているので、誠に危急存亡の秋(時)です。しかし侍衛の臣が内で怠惰になることなく、忠志の士が外で身(命)を忘れているのは、まさしく先帝の殊遇(特別な恩遇)を追念し、陛下に対して報いたいと欲しているからです。誠に聖聴を開張することで(陛下が広く意見を聴くことで)、先帝の遺徳を光り輝かせ、志士の気を恢弘(発揚)させるべきであり、妄りに自らを軽視し、道理に合わないことを語り、そのようにすることで忠諫の路を塞いではなりません。

宮中・府中(官府。『資治通鑑』胡三省注によると、丞相府を指します)は共に一体となり、善悪に対する賞罰は(原文「陟罰臧否」。「陟」は鼓舞奨励すること、「罰」は刑罰、「臧否」は善悪です)、異同があってはなりません(賞罰は公平でなければなりません)。もし姦悪を為して科(法令)を犯したり、忠善を為した者がいたら、有司(官員)に送ってその刑賞を論じ、そうすることで陛下の平明の理(公平厳明の道理、原則)を明らかにするべきです。私情にかたよって内外で法を異ならせてはなりません。

侍中、侍郎の郭攸之、費禕、董允等は(『資治通鑑』胡三省注によると、当時、郭攸之と費禕は侍中、董允は黄門侍郎でした)、皆、良実で、志慮(思考、思想)が忠純なので、先帝が簡抜(選抜)して陛下に残しました。(臣の)愚見によるなら、宮中の事は大小に関係なく、悉く彼等に諮問し、その後、施行すれば、必ず漏れや欠陥を補うことができて、益を広くするところとなります。将軍・向寵は性格品行が淑均(善良公正)で、軍事に曉暢(精通)しており、昔日において試用され、先帝が称えて有能だと言いました。だから衆議によって向寵を挙げて督にしたのです。(臣の)愚見によるなら、営中の事は悉く彼に諮問すれば、必ず行陳(行陣。軍中)を和睦させることができ、優劣が所を得られます(将兵の能力に則って相応しい配置ができます)。賢臣と親しくして小人を遠ざける、これが先漢(西漢)の興隆した理由です。小人と親しくして賢臣を遠ざける、これが後漢(東漢)の傾頽した理由です。先帝が存命だった時、臣とこの事を論じる度に、桓・霊に対して嘆息痛恨しないことはありませんでした。侍中・尚書・長史・参軍(中華書局『白話資治通鑑』によると、侍中は郭攸之と費禕、尚書は陳震、長史は張裔、参軍は蒋琬です)、彼等は全て貞良死節の臣なので、陛下が彼等と親しみ、彼等を信じることを願います。そうすれば、漢室の興隆は日を数えて待つことができます(漢室の復興は目前の事となります)

臣は本来、布衣(庶民)であり、自ら南陽で(田を)耕して、とりあえず乱世においても性命を全うしており、諸侯において名が知られることは求めていませんでした。しかし先帝は臣の卑鄙(身分が低くて見識が少ないこと)を意とせず、自らの身を低くして(原文「猥自枉屈」。「猥自」も「枉屈」も自分の身分を低くして相手を尊重するという意味です)、草廬の中で臣を三顧(三回訪問)し、臣に当世の事を訊ねたので、(臣は)これによって感激し、ついに先帝のために駆馳(尽力奔走)することに同意したのです。後に傾覆(顛覆。軍事上の挫折)に遇うと、敗軍の際に任を受け、危難の間に命を奉じました(『三国志・諸葛亮伝』裴松之注は、東漢献帝建安十三年・208年に荊州で曹操に破れた時のこととしており、『資治通鑑』胡三省注は、夷陵の戦いの翌年(魏文帝黄初四年・蜀漢昭烈帝章武三年・223年)に後事を託されたことを指すとしています)。あの時から二十一年になります(諸葛亮が劉備と出会った献帝建安十二年・207年から足掛け二十一年になります)。先帝は臣の謹慎(謹直慎重)を知っていたので、崩御に臨んで臣に大事を託しました。命を受けて以来、朝から夜まで憂嘆しており、託付(託された重任)に対して成果が無く、そのために先帝の明(人を知る明)を傷つけることになるのではないかと恐れています。だから五月に瀘水を渡り、不毛の地に深入りしたのです。今、南方は既に定まり、兵甲(軍備)が既に足りているので、三軍を奨率(奨励・統率)して北の中原を定めるべきであり、駑鈍(凡庸な才)を尽くして姦凶を攘除(廃除)し、漢室を興復して旧都に還ることを望みます。これは臣が先帝に報いることであり、陛下に忠を尽くす職分(職責、本分)でもあります。

事務の損益を考慮して忠言を進め尽くすことに至っては、郭攸之、費禕、董允の任です。陛下が臣に討賊興復の效(重任。成果を挙げること)を託すように願います。もしも效(成果)がなかったら、臣の罪を治めて(裁いて)、そうすることで先帝の霊に告げてください。もしも興徳の言(徳を興す進言)がなかったら、郭攸之、費禕、董允等の慢(怠慢)を譴責し、そうすることで咎(罪過)を明らかにしてください。陛下も自ら謀り、善道を訊ね求め、雅言(正言)を考察して取り入れることで、深く先帝の遺詔を追うべきです(先帝の遺詔を追念してそれに則るべきです)。臣は恩を受けた感激に堪えることができず、今、遠く離れることになりました。上表に臨んで涙を流し、何を言うべきかもわかりません。

 

 

原文
先帝創業未半而中道崩殂,今天下三分益州疲弊,此誠危急存亡之秋也。然侍衛之臣不懈於内,忠志之士忘身於外者,蓋追先帝之殊遇欲報之於陛下也。誠宜開張聖聴以光先帝遺徳,恢弘志士之気,不宜妄自菲薄引喩失義以塞忠諫之路也。宮中府中俱為一体,陟罰臧否不宜異同。若有作姦犯科及為忠善者宜付有司論其刑賞以昭陛下平明之理,不宜偏私使内外異法也。侍中・侍郎郭攸之、費禕、董允等,此皆良実志慮忠純,是以先帝簡抜以遺陛下。愚以為宮中之事,事無大小悉以咨之,然後施行,必能裨補闕漏有所広益。将軍向寵性行淑均曉暢軍事,試用於昔日先帝称之曰能,是以衆議挙寵為督。愚以為営中之事悉以咨之,必能使行陳和睦,優劣得所。親賢臣遠小人,此先漢所以興隆也。親小人遠賢臣,此後漢所以傾頽也。先帝在時每與臣論此事未嘗不歎息痛恨於桓霊也。侍中・尚書・長史・参軍,此悉貞良死節之臣,願陛下親之信之則漢室之隆可計日而待也。
臣本布衣躬耕於南陽苟全性命於乱世不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙猥自枉屈三顧臣於草廬之中諮臣以当世之事,由是感激遂許先帝以駆馳。後値傾覆,受任於敗軍之際,奉命於危難之閒,爾來二十有一年矣。先帝知臣謹慎,故臨崩寄臣以大事也。受命以来夙夜憂歎,恐託付不效以傷先帝之明,故五月渡瀘深入不毛。今南方已定兵甲已足,当奨率三軍北定中原,庶竭駑鈍攘除姦凶興復漢室還于旧都。此臣所以報先帝而忠陛下之職分也。
至於斟酌損益進盡忠言則攸之、禕、允之任也。願陛下託臣以討賊興復之效。不效則治臣之罪以告先帝之霊。若無興徳之言則責攸之、禕、允等之慢以彰其咎。陛下亦宜自謀以諮諏善道,察納雅言,深追先帝遺詔。臣不勝受恩感激,今當遠離臨表涕零不知所言。

 

 

 

蜀漢後主の詔

 

魏明帝太和元年・蜀漢後主建興五年(227年)、諸葛亮が北伐を開始しました。

三国時代22 魏明帝(一) 諸葛亮の北伐 227年(1)

 

『三国志・蜀書三・後主伝』が、諸葛亮の出征前に後主が発した三月の詔を載せています。ここで紹介します。

 

朕が聞くに、天地の道とは、仁に福を与えて淫に禍を与えるという。善を積んだ者が栄えて悪を積んだ者が滅ぶのは(善積者昌,悪積者喪)、古今の常数(常理)である。だから湯・武(商王成湯と西周武王)は徳を修めて王になり、桀・紂は暴を極めて滅亡した。以前、漢祚(漢の国統)が途中で衰微すると、(法規の)網が凶慝(凶悪な者)を漏らし、董卓が難を為して京畿を震蕩(震撼)させた。曹操は禍を利用し、天衡(天子の威権)を盗んで掌握し(曹操階禍竊執天衡)、海内を残剝(破壊、搾取)し、無君の心(君主を無視する心)を抱いた。子の曹丕は孤豎(孤児、小僧)でありながら、敢えて乱階(禍根)に沿い、神器を盗みとり、姓を換えて物を改め(劉氏を滅ぼして制度を改め)、世代を越えてその凶行を継承した(敢尋乱階,盗拠神器,更姓改物,世済其凶)。まさにその時は皇極(帝王が天下を治める準則)が幽昧(幽暗)で、天下に主がいなくなり、こうして我が帝命が下に隕越(転落・墜落)してしまった。

昭烈皇帝は明叡の徳を体現し(体明叡之徳)、文武に光を与えて推し広め(光演文武)、乾坤(天地)の運に応じ、世に出て難を平らげ(出身平難)、四方を経営したので、人鬼が謀(考え。心)を同じくし、百姓が能力ある者(劉備)に与し(百姓與能)、兆民(万民)が欣戴した(喜んで奉戴した)。符讖を受け入れてそれに順じ(奉順符讖)、位を建てて号を改め(帝位に即いて年号を改め。原文「建位易号」)、天序(帝王の世家)を丕承(継承)し、欠陥を補って衰退したものを興し(補弊興衰)、祖業を存復(復興)し、皇綱(朝廷の綱紀。秩序や法規)を大いに引き受けて、地に墜ちないようにした(誕膺皇綱,不墜於地)。しかし万国が定まる前に、早くも崩御された(原文「早世遐殂」。「早世」は早死、「遐」は遠ざかること、「殂」は死亡の意味です)。朕は幼沖(幼少)にして皇統の大きな基礎を継ぎ(継統鴻基)、まだ保傅の訓(師傅の教え)を習う前に、祖宗の重(重責)を守ることになった(嬰祖宗之重)。六合(天地と四方)が塞がり(六合壅否)、社稷が建たないので、永くその理由を思い(永惟所以)、念は匡救(正道に戻して救うこと)して前緒(先人が遺した偉業)を光り輝かせることにあるのに、まだ成就できていない。朕は甚だこれを懼れる(念在匡救,光載前緒,未有攸済,朕甚懼焉)。そのため、朝早く起きて夜晩くに寝て、敢えて自ら安逸になることなく(夙興夜寐不敢自逸)、いつも菲薄(倹約)に従って国用(国が必要とする物)を増やし、勧分務穡によって民の財を多くし(原文「勧分務穡以阜民財」。「勧分」は財がある者が財がない者に分けて助けあうように奨励すること、「務穡」は農業に努めること、または倹約に努めることです)、授方任能してその聴(判断、意見)を参考にし(原文「授方任能以参其聴」。「授方」は百官の常法を授けること、教えることで、「任能」は能力がある者を任用することです。ここでは併せて優秀な人材を育てて用いるという意味だと思います)、私情を断って意を降して将士を養っている(原文「断私降意以養将士」。私情に流されることなく、へりくだった態度で将士を養っているという意味だと思います)(このようにして)剣を奮って長駆し、凶逆の討伐に向かおうと欲したが(欲奮剣長駆指討凶逆)、朱旗(漢の赤い旗)を挙げる前に、曹丕もまた隕喪(死亡)した。これはいわゆる「我が薪を焼くことなく自ら焼毀した(不燃我薪而自焚)」というものである。(しかし)残類餘醜がまた天禍を支え(天が下した禍を助長し)、河・洛で恣睢(放縦)し、兵に頼って(凶逆を)止めようとしない(阻兵未弭)

諸葛丞相は弘毅忠壮(「弘毅」は度量が広くて意志が強いこと、「忠壮」は忠義勇武なことです)で、身を忘れて国を憂いているので、先帝は(諸葛亮に)天下を託すことで、朕の身を励ました(先帝託以天下以勖朕躬)。今、彼に旄鉞の重(統帥としての重責。「旄鉞」は軍権を表します)を授け、専命の権(専断の権限)を付し、歩騎二十万の衆を統領させ、元戎(大軍)を董督(監督)させる。天罰を龔行(執行)し、患を除いて乱を静め(除患寧乱)、旧都を克復するのは(取り戻すのは)、この行動にかかっている(在此行也)

昔、項籍(項羽)は一強の衆を総領し、州を越えて土地を兼併し、務めたところ(求めたこと。野心)が大きかったが、最後は垓下で敗れて東城で死に、宗族が焚如(火刑)に処されて千年の笑いものになった(為笑千載)。全ては義によることなく、上を凌いで下を虐げたことが原因である(皆不以義陵上虐下故也)。今、賊はまた過失を真似しており(今賊效尤)、天人に怨まれているので、時機に順じて迅速にするべきであり(奉時宜速)、炎精・祖宗の威霊による助けという福に頼って、向かう所で必ず克つことを願う(庶憑炎精祖宗威霊相助之福,所向必克)。呉王・孫権も同じく災患を憂慮しており、軍を潜ませて謀を合わせ、後方を掎角(牽制)している(潜軍合謀,掎角其後)。涼州諸国の王はそれぞれ月支、康居の胡侯・支富、康植等二十余人を派遣し、節度(指揮)を受けに来させた。大軍が北に出たら、すぐに兵馬を率将(統率)し、戈を奮って先駆しようと欲している(大軍北出便欲率将兵馬奮戈先駆)。天命が既に集まり、人事もまた至り、軍に正義があって勢がそろっているので(師貞勢并)、必ず無敵であろう。そもそも王者の兵とは、征伐はあっても戦闘はない(有征無戦)。尊貴なうえに義があるので、敢えて抵抗する者がいないのである(尊而且義莫敢抗也)。だから鳴條の役(商王・成湯が夏桀を破った戦い)では軍が刃を血で汚すことなく(軍不血刃)、牧野の師(西周武王が商紂を破った戦い。「師」は戦の意味です)では商人が戈を倒したのだ(商国の人が武器を逆さに持って寝返ったのだ)。今、旍麾(将帥旗)が路に就いたら、通過するところではやはり窮兵極武(兵を用いて武力を極めること)を欲しない(旍麾首路其所経至亦不欲窮兵極武)。邪を棄てて正に従い、簞食壺漿(食糧や飲物)をもって王師を迎えることができた者には、国に常典(常法)があり、封寵(封土・恩賜)の大小にはそれぞれ品限(等級、範囲)がある(帰順した者には常法に基づいて封土・恩賜が与えられる。原文「有能棄邪從正,簞食壺漿以迎王師者,国有常典,封寵大小各有品限」)。魏の宗族、支葉(分家)、中外(家内外の親族)に及んでは、利害を測ることができ、逆順の数(道理)を明らかにして投降しに来た者は全て赦免する(有能規利害,審逆順之数,来詣降者,皆原除之)。昔、輔果(智果)は智氏との親(親族としての関係)を絶ち、全宗の福(一族を保全する福)を蒙った(東周元王四年・前472年参照)。微子(商の王族)は殷を去り、項伯(項羽の親戚)は漢に帰し、どちらも茅土の慶(封土の賞)を受けた。これらは前世の明験(明らかな成果、前例)である。もしも迷沈(深く惑乱すること)して(正道に)返らず、乱人を助けて王命を仰がないようなら(不式王命)、戮(殺戮)が妻孥(妻子)におよび、赦すことはない(罔有攸赦)。恩威を広く伝播し、その元帥を赦し、その残民を慰労せよ(広宣恩威,貸其元帥,弔其残民)。他のことは詔書・律令の通りとし、丞相は(これらの内容を)天下に露布(布告)して朕の意にそわせよ。

 

 

 

 

 

三国時代23 魏明帝(二) 孟達 227年(2)

 

今回で魏明帝太和元年が終わります。

 

[十二] 『晋書・巻一・高祖宣帝紀』と『資治通鑑』からです。

六月、魏明帝が詔を発して司馬懿に都督荊豫州諸軍事(「都督荊豫州諸軍事」は『資治通鑑』の記述です。『晋書・高祖宣帝紀』では「督荊豫二州諸軍事」です)を加え、所属する兵を率いて宛を鎮守させました。

 

[十三] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

秋八月、魏明帝が西郊で「夕月(月を祀る儀式)」を行いました。

 

[十四] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

冬十月丙寅(初四日)、魏明帝が東郊で治兵(練兵の儀式。閲兵)しました。

 

[十五] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

焉耆王が子を派遣して魏に入侍させました。

 

[十六] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

十一月、魏明帝が毛氏を皇后に立てました。

天下の男子に一人当たり爵二級を下賜し、鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りがない老人)・自存できない者(または「鰥寡・孤独で自存できない者」。原文「鰥寡孤独不能自存者」)に穀物を与えました。

 

十二月、毛皇后の父・毛嘉を列侯に封じました。

『三国志・魏書五・后妃伝』によると、毛嘉は典虞(官署名)の車工でした。

 

『資治通鑑』は「冬十二月、魏明帝が貴嬪・河内の人・毛氏を皇后に立てた」としていますが、「十二月」は恐らく「十一月」の誤りです。

 

以下、『資治通鑑』からです。

明帝が平原王だった頃、河内の虞氏を納れて妃にしました。しかし虞氏は明帝が即位してからも皇后に立てられませんでした、

太皇卞太后が慰勉(慰めて励ますこと)すると、虞氏はこう言いました「曹氏は自ずから賎(身分が低い者)を立てることを好み、未だ義によって挙げることができた者はいません(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。曹操は卞氏を妻とし、文帝は郭皇后を立てましたが、どちらも正室ではありませんでした)。しかし皇后は内事(宮内の事)を管理し、国君は外政を聴くものであり(后職内事,君聴外政)、その道は互いに助けあって完成します(其道相由而成)。善によって始められなかったのに、終わりを善くできた者はいません(苟不能以善始,未有能令終者也)。必ずこの事によって国を亡ぼし、祭祀を失うことになるでしょう(殆必由此亡国喪祀矣)。」

虞氏は排斥されて鄴宮に還されました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

以前、太祖(武帝・曹操)と世祖(文帝・曹丕)がどちらも肉刑を恢復することを議論しましたが、軍事が多忙なため刑法を改める余裕がありませんでした。

曹操に関しては東漢献帝建安十八年(213年)に書きました。『資治通鑑』胡三省注によると、その後、文帝が群臣を臨饗(酒食で慰労すること)し、詔を発して「大理(法官)が肉刑を復そうと欲している。これは誠に聖王の法なので、公卿は共に善く議せ」と言いました。しかし議論が決する前に軍事があったため、また棚上げにされました。

 

明帝が即位すると、太傅・鍾繇が上書しました「孝景(西漢景帝)の令のようにするべきです。(刑が)棄市(処刑して見せしめにする刑)に当たっても右趾を斬ることを欲した者はそれを許し、黥(顔に刺青をする刑)・劓(鼻を削ぐ刑)・左趾(左足を斬る刑)・宮刑の者は、今まで通り孝文(西漢文帝)のようにして、髠笞(髪を剃って鞭で打つ刑)に換えます(自如孝文易以髠笞)。そうすれば一年に三千人を活かすことができます(可以歳生三千人)。」

 

明帝が詔を発して公卿以下、群臣に議論させました。

司徒・王朗がこう主張しました「肉刑を用いなくなって以来、数百年が経過しました(歴年数百)。今またこれを行ったら、恐らくそれ(死刑)を減らした文(法令)が万民の目の前で明らかになる前に、肉刑の問(肉刑に関する責問、批難)が寇讎(敵)の耳に広まってしまうので、遠人を来させることにはなりません(恐所減之文未彰於万民之目而肉刑之問已宣於寇讎之耳,非所以来遠人也)。今は鐘繇の死罪を軽くしようと欲するところに則り、死刑を減らして髠刑とし、それが軽すぎることを嫌うなら、居作(服役)の歳数(年数)を倍増させるべきです(原文「今可按繇所欲軽之死罪使減死髠刑,嫌其軽者可倍其居作之歳数」。『資治通鑑』胡三省注によると、魏制では髠刑は居作五歳です)(このようにすれば)内には死を生に換えた量りしれない恩(以生易死不訾之恩)があり、外では釱(足枷)を刖(脚を切断する刑)に換えて人を恐れさせるという悪名(以刖易釱駭耳之声)がなくなります。」

 

議者は百余人に上り、王朗に賛同する者が多数いましたが、明帝は呉・蜀をまだ平定していなかったため、やはり棚上げにしました。

 

[十八] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。

この年、呉の昭武将軍・韓当が死にました。

韓当の子・韓綜は道徳から外れて法を守らなかったため(淫乱不軌)、罪を得るのではないかと懼れました。

 

閏月(中華書局『白話資治通鑑』は「閏十二月」としています)、韓綜が家属や部曲を率いて魏に奔りました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

以前、孟達は魏文帝に寵用されており、また、桓階、夏侯尚と親善な関係にありました(東漢献帝延康元年・220年参照)

しかし文帝が崩御して桓階、夏侯尚も死ぬと、孟達は心中で不安を抱くようになります。

それを聞いた蜀漢の諸葛亮が孟達を誘いました。

孟達はしばしば諸葛亮に書を送って連絡を取り合い、秘かに蜀へ帰国することに同意しました。

 

孟達は魏興太守・申儀と対立していました。

申儀が秘かに上表して孟達を告発します。

『資治通鑑』胡三省注によると、魏興は東漢の西城郡です(胡三省注は「蜀の西城郡」としていますが、恐らく誤りです)。魏文帝が魏興に改名しました。

 

申儀の告発を知った孟達は惶懼(恐懼、恐惶)し、兵を挙げて叛しようとしました。

しかし司馬懿が書を送って慰解(慰めて諭すこと)したため、孟達は躊躇して決断できませんでした。

 

以上の内容は『資治通鑑』を元にしました。『晋書・巻一・高祖宣帝紀』は若干異なり、こう書いています。

蜀将・孟達が魏に投降した時、魏朝は甚だ厚く遇しました。

司馬懿は孟達の言行が傾巧(狡猾、巧み)なので信任できないと考え、頻繁に諫言しましたが、採用されませんでした。

孟達は新城太守となり、封侯のうえ符節を授けられます(領新城太守,封侯,假節)

しかし後に孟達は呉と連絡をとりあって蜀との関係も固め、秘かに中国(中原。魏)を図るようになりました(連呉固蜀,潜図中国)

 

蜀相・諸葛亮は孟達の反覆(裏切りを繰り返すこと)を嫌い、また、孟達が禍患になることを懸念していました。

孟達と魏興太守・申儀が対立していたため、諸葛亮はそれを利用して孟達の挙兵を促そうとしました。郭模を魏に送って偽りの投降をさせ、申儀を訪ねた時、わざと孟達の謀を漏洩させます。

孟達は謀が漏れたと聞き、兵を挙げようとしました。

それを知った司馬懿は孟達がすぐに挙兵することを恐れ、書を送って喩しました「将軍は昔、劉備を棄てて身を国家に託したので、国家が将軍に疆埸の任(国境を守る大任)を委ね、将軍に蜀を図る事を任せました。心が白日に達している(原文「心貫白日」。心意が明白で疑いがないこと)といえます。蜀人は愚智ともに(愚者も智者も)、将軍に対して切歯(痛恨、憤怨)しない者がいません。諸葛亮は(将軍を)破りたいと欲していますが、ただその路(方法)がないことを苦としているのです。郭模が言ったことは小事ではありません。諸葛亮がどうしてそれを軽んじて宣露(暴露。漏洩)させるのでしょうか。これは(諸葛亮の計だと)容易に分かるはずです(此殆易知耳)。」

孟達は書を受け取って大いに喜び、挙兵を躊躇して決断できなくなりました。

 

以下、『晋書・巻一・高祖宣帝紀』と『資治通鑑』からです。

孟達が躊躇している間に、司馬懿は隠れて軍を起こし、討伐に向かいました(潜軍進討)

諸将が司馬懿に言いました「孟達は二賊と交構(連結)しているので(これは『晋書・高祖宣帝紀』の記述で、原文は「達與二賊交構」です。『資治通鑑』では「呉・漢と交通(交流)しているので(達與呉漢交通)」です)、まずは観望してその後に動くべきです。」

司馬懿が言いました「孟達は信義がないので、今は(諸葛亮と孟達が)互いに疑っている時である(此其相疑之時也)。まだ(形勢が)定まる前に、急いで決するべきである(当及其未定促決之)。」

司馬懿は昼夜兼行して(倍道兼行)八日で城下に到りました。

 

呉と蜀漢が孟達を救援するため、それぞれ偏将を派遣して西城の安橋と木闌塞に向かわせましたが、司馬懿が諸将を分けてこれを拒みました。

『資治通鑑』胡三省注によると、魏興安陽県の西北に高橋溪口があり、そこで文水が漢水に合流しました。

漢水は東に向かって西城県故城の南を通り、更に東の木蘭塞南を通ります。右岸(南岸)に陵城という城があり、左岸(北岸)に木蘭塞があります。

胡三省注は「呉兵は安橋に向かい、蜀兵は木蘭塞に向かった」と書いていますが、『中国歴史地図集(第三冊)』を見ると、安橋は西、木蘭塞は東に位置するので、逆ではないかと思われます。

 

これ以前に孟達が諸葛亮に書を送ってこう伝えました「宛(『資治通鑑』胡三省注によると、司馬懿が駐屯しています)から洛(首都・洛陽)までは八百里もあり、私からは一千二百里も離れている。私が事を挙げたと聞いたら、当然、表(上書)を天子に上げ、互いに往復するのを待ったら一カ月になる(聞吾挙事,当表上天子,比相反覆,一月間也)。その間に私の城は既に(守りを)固めており、諸軍も準備をするのに足りる(諸軍足辦)。私がいる場所は深険なので、必ず司馬公が自ら来ることはない。諸将が来ても、私に患いはない。」

しかし司馬懿の兵が城下に到ったため、孟達は諸葛亮にこう告げました「私が事を挙げて八日しか経っていないのに、兵が城下に到った。なぜこのように神速なのだ(なんという神速だ。原文「何其神速也」)!」

 

『三国志・魏書三・明帝紀』は「新城太守・孟達が反した。(明帝の)詔によって驃騎将軍・司馬宣王(司馬懿)がこれを討った」と書いていますが、いつの時点で明帝の詔が発せられたのかは分かりません。

 

[二十] 『三国志・蜀書十三・黄李呂馬王張伝』からです。

蜀漢の丞相・諸葛亮が北に向かって漢中に駐留すると、広漢・綿竹の山賊・張慕等が軍資を鈔盗(略奪。盗み取ること)し、吏民を劫掠(略奪、強奪)しました。

 

張嶷が都尉として兵を率いて討伐しました。

張嶷が推察したところ、敵は鳥散(分散)しているので、戦って捕えるのは困難だと考えました。そこで偽って和親し、日を決めて酒席を設けます。

酒が回った頃(酒酣)、張嶷が自ら左右の者を率いて張慕等五十余級の首を斬り、渠帥をことごとく殲滅しました。

残った者も探し出し、旬日(十日)で清泰(安寧、平安)になりました。

 

 

次回に続きます。

三国時代24 魏明帝(三) 孟達の失敗 228年(1)

 

 

 

三国時代22 魏明帝(一) 諸葛亮の北伐 227年(1)

 

今回から魏明帝の時代です。

 

烈祖明皇帝

姓は曹、名は叡、字は元仲です。文帝の長子です。

 

以下、『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

曹叡は生まれた時から太祖(曹操)に愛され、常に左右にいるように命じられていました。

裴松之注によると、曹叡は数歳になった時、既に岐嶷の姿(聡明で突出した姿)があったため、武皇帝(曹操)がこれを異とし(特別視し)、「我が基(国の基礎)は汝で三世になる(曹叡が三代目になる。原文「我基於爾三世矣」)」と言いました。

いつも朝宴(朝廷の宴会)や会同(朝会)では侍中・近臣と共に帷幄に列席させるようになります。

 

曹叡は好学多識で、特に法理(法律)に関心を持ちました。

十五歳で武徳侯に封じられ、魏文帝黄初二年(221年)に斉公に、三年に平原王になりましたが、母が誅殺されたため、嗣(後嗣。太子)には立てられませんでした。

黄初七年(226年)夏五月、文帝の病いが篤くなったため、曹叡がやっと皇太子に立てられました。

丁巳(十七日)、文帝が死んで曹叡が皇帝の位に即きました。

 

黄初七年の出来事は既に書いたので、再述は避けます。

 

 

魏明帝太和元年 蜀漢後主建興五年 呉王黄武六年

丁未 227年

 

[一] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

春正月、魏明帝が郊祀(郊外で行う天の祀り)を行い、武皇帝(曹操)を天に配しました。また、宗祀(祖宗の祭祀)を明堂で行って文皇帝を上帝に配しました。

 

[二] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

魏が江夏南部を分けて江夏南部都尉を置きました。

 

[三] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

西平の麴英が反して臨羌令や西都長を殺しました。

魏は将軍・郝昭と鹿磐を派遣して討伐し、これを斬りました。

 

[四] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。

呉の解煩督・胡綜と番陽太守・周魴が彭綺(魏文帝黄初六年・225年参照)を撃って生け捕りにしました。

 

『三国志・呉書十七・是儀胡綜伝』によると、劉備が白帝城から東下した時、孫権は現有の兵が少なかったため、胡綜に命じて諸県で兵を選ばせ、六千人を得ました。この時、二部の「解煩」が置かれ、徐詳が左部を、胡綜が右部を担当しました。

 

以前、彭綺は「義兵を挙げて魏のために呉を討つ」と自ら公言していました。

魏の議者は、これを機に呉を討伐すれば必ず成果を上げられると考えました。

明帝が中書令・太原の人・孫資(『資治通鑑』胡三省注によると、曹操が魏王になった時、祕書令を置いて尚書の奏事を管理させました(典尚書奏事)。魏文帝黄初年間初期に祕書令を中書令に改め、中書令の上に中書監を置きました)に意見を求めると、孫資はこう言いました「番陽の宗人には、前後してしばしば義を挙げる者がいましたが、衆が弱くて謀が浅かったので、すぐに皆、離散しました(旋輒乖散)。昔、文皇帝が賊の形勢を密論し(詳しく分析し)、洞浦で万人を殺して船千数を得たと言いましたが、数日の間に(呉の)船と人が再び会しました(文帝黄初三年・222年の洞口の戦いを指すようです)(呉の)江陵が包囲されて月を重ねた時も、孫権はわずか千数百の兵を率いて東門に向かい、その土地(江陵)で崩解した者はいませんでした(魏文帝黄初四年・223年の江陵の戦いですが、東門を守ったという記述はありませんでした)。これは(呉の)上下がその法禁を守っている明らかな証拠です(是其法禁上下相維之明験也)。ここから彭綺を推し量るに、懼らく(恐らく)まだ孫権の腹心の大疾になることはできないでしょう。」

本年春、彭綺はやはり敗亡しました。

 

[五] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

二月辛未(初五日)、魏明帝が籍田を耕しました。

 

[六]  『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

辛巳(十五日)、魏が文昭皇后の寝廟(『三国志・明帝紀』では「寝廟」、『資治通鑑』では「寝園」です)を鄴に建てました。

文昭皇后は明帝の実母・甄氏で、鄴で死を賜りました。

 

王朗が園陵を視察に行った時、百姓の多くが貧困であることを目撃しました。しかし明帝が宮室を造営・修築しているため、上書して諫めました「昔、大禹は(民を)天下の大患から救おうと欲したので、まずその宮室を卑しくし(粗末にし)、その衣食を倹(倹約)しました。(越王)句践は禦児(地名)の疆(領域)を広げようと欲したので、やはりその身を約(節約)して家に及ぼし、その家を倹(倹約)して国に施しました。漢の文・景(文帝・景帝)は祖業を恢弘(弘揚・拡大)したいと欲したので、百金の台において意を割き(百金を必要とする露台の建築をあきらめ)、弋綈(黒くて粗い織物)において倹を明らかにしました(原文「割意於百金之台,昭倹於弋綈之服」。西漢文帝後七年・前157年参照)。霍去病は中才(中等の才能)の将でしたが、それでも匈奴はまだ滅びないと判断して第宅(邸宅)を築きませんでした。これは、遠くを憂慮する者は近くを簡略にし、外で事を為す者は内を簡素にするという道理を明らかにしています(明卹遠者略近,事外者簡内也)。今、建始(殿)の前は、朝会で(群臣が)列するに足りており(足用列朝会)、崇華(殿)の後ろは内官(宮内の官員や宦官・宮女)を並べるに足りており(足用序内官)、華林・天淵は遊宴を開くに足りています(足用展遊宴)。もしもとりあえずは象魏(門闕)を完成させて城池(城壁や堀)を修築するだけとし、残りは全て豊年を待ち、専ら耕農(農業)に勤めることを急務とし、戎備(戦備)に習熟することを大事とすれば(専以勤耕農為務,習戎備為事)、民が充ちて兵が強くなり、寇戎が賓服(服従)するでしょう。」

 

『資治通鑑』胡三省注によると、建始・崇華の二殿は洛陽北宮にありました。かつて曹操が漢中から洛陽に還った時、建始殿の建築を開始しました。場所は漢の濯龍祠の近くです。

洛陽故城の北には穀水が流れており、東に向かって大夏門下を通り、枝のように分かれて渠水(水路)となり、東の華林園に入り、更に東に流れて天淵池になりました。

 

[七] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

丁亥(二十一日)、魏明帝が東郊で「朝日(太陽を祀る儀式)」を行いました。

 

[八] 『三国志・蜀書三・後主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』と『資治通鑑』からです。

三月、蜀漢の丞相・諸葛亮が諸軍を率いて北進し、漢中に駐留しました。長史・張裔、参軍・蒋琬を成都に留めて丞相府の政務を統轄させます(統留府事)

張裔はかつて雍闓に捕まって呉に送られましたが、『三国志・蜀書十一・霍王向張楊費伝(張裔伝)』によると、鄧芝が呉を訪ねて蜀漢と呉の国交が回復した時(蜀漢後主建興元年・223年)、蜀に還りました。

 

『三国志・後主伝』裴松之注が、諸葛亮の出征前に後主が発した詔を載せています。別の場所で書きます。

蜀漢後主の詔

 

諸葛亮は出発に臨んで上書しました。これを『出師の表』といいます。これも別の場所で紹介します。

出師の表

 

諸葛亮は兵を進めて沔陽(沔水北)の陽平石馬に駐屯しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、沔水は白馬戍の南を流れていました。この地を白馬城、または陽平関といいます。そこには白馬山があり、山石が馬に似ていました。

 

諸葛亮が広漢太守・姚伷を招いて丞相掾にしました。

姚伷が複数の文武の士を同時に進めたため、諸葛亮が称賛してこう言いました「忠益(国家に忠を尽くして益をもたらすこと)とは、人を進めることより大きなものはない。しかし人を進める者はそれぞれ自分が貴ぶところに務めている(自分の好みで人を推薦している。原文「忠益者莫大於進人,進人者各務其所尚」)。今、姚掾は剛柔を並存させて文武の用を広くした(文武の需要を広く満足させた)。これは博雅(心が広くて行いが正しいこと)ということができる。諸掾がそれぞれこの事を敬仰して(諸葛亮の)望みにかなうことを願う(願諸掾各希此事以属其望)。」

 

[九] 『資治通鑑』からです。

魏明帝は諸葛亮が漢中にいると聞き、大いに兵を発してすぐに攻撃しようと欲しました。そこで散騎常侍・孫資に意見を求めます。

孫資はこう言いました「昔、武皇帝が南鄭を征伐して張魯を取った時、陽平の役(東漢献帝建安二十年・215年)で危機に陥り、後にやっと成功しました(危而後済)。また、自ら夏侯淵軍を助けに行きましたが(原文「自往抜出夏侯淵軍」。献帝建安二十四年・219年、夏侯淵が戦死してから、曹操自ら漢中に出兵しました)、しばしばこう言いました『南鄭はまるで天獄(天の監獄)で、中の斜谷道は五百里も続く石穴だった(南鄭直為天獄,中斜谷道為五百里石穴耳)。』これはその深険を語っており、夏侯淵軍をなんとか救出できたことを喜んだ辞(言葉)です。また、武皇帝は用兵において聖でしたが(聖於用兵)、蜀賊が山岩の中に住んでいるのを確認し、呉虜が江湖に隠れているのを視て、どちらにも屈してこれを避け、将士の力を要求せず、一朝の忿(怨み)を争いませんでした(察蜀賊棲於山岩,視呉虜竄於江湖,皆橈而避之,不責将士之力,不争一朝之忿)。誠にいわゆる『勝ちを見たら戦い(勝つと判断したら戦い)、難を知ったら退く(見勝而戦,知難而退)』というものです。

今、もし軍を進めて南鄭で諸葛亮を討ったら、道が険阻なので、その計(戦略)は精兵を用い、転運(輸送)を行い、南方四州を鎮守して(『資治通鑑』胡三省注によると、四州は荊・徐・揚・豫州を指します)水賊(呉軍)を遏禦(遮断・防御)する必要があり、合わせて十五六万人を用いることになります(計用精兵及転運、鎮守南方四州,遏禦水賊,凡用十五六万人)。そのためには、必ず更なる発興(徴発、出兵)が必要になり(必当復更有所発興)、天下を騒動させ、費力(費やす労力。または費用と労力)が広大になります。これは誠に陛下が深慮すべきことです。守戦の力とは、力役(労役。労力)が参倍になるものです(防御側と攻撃側の力を比べると、攻撃側の力役が二三倍になるものです。原文「夫守戦之力,力役参倍」)

今日においては、現有する兵を使って、大将を分けて諸要険を拠点とするように命じるだけで、威は強寇を震摂(懼れ震えること)させて疆埸(辺界。領土)を鎮静させるに足り、将士が虎睡(休養)できて百姓に事(戦事。労役)がなくなります。(そうすれば)数年の間に中国(中原。魏)が日々盛んになり、呉・蜀の二虜は必ず自ら罷敝(疲弊)するでしょう。」

明帝は出征を中止しました。

 

[十] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

以前、魏文帝が五銖銭を廃止した時(黄初元年・220年)、穀・帛(穀物と絹帛)を代わりに用いさせました。

しかし人々の間では巧みに虚偽を為す者が徐々に増えていき、競って穀物を湿らせて(重くして)利を求めたり、薄絹を使って交換するようになりました(湿穀以要利,薄絹以為市)。これらの行為は厳刑に処しても禁じることができません。

司馬芝等が朝廷を挙げて大議し、こう主張しました「銭(貨幣)を用いるのはただ国を豊かにするだけでなく、刑を省くことにもなります。今は改めて五銖を鋳造して便とした方がいいでしょう(今不若更鋳五銖為便)。」

 

夏四月乙亥(初十日)、再び五銖銭を発行しました。

 

[十一] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲申(十九日)、魏が初めて洛陽に宗廟を造営しました(これまでは鄴に宗廟がありました)

 

 

次回に続きます。

三国時代23 魏明帝(二) 孟達 227年(2)

 

 

 

商王朝1 成湯以前

 

今回は商王・成湯が登場するまでの商について書きます。

 

商の始祖は契といいます。

『史記・殷本紀』と『帝王世紀』からです。

契の母は簡狄(『史記』では「簡狄」、『帝王世紀』では「簡翟」です)といい、有娀氏の娘で、帝嚳の次妃でした(帝嚳参照)

(簡狄等の)三人が玄丘の川で水浴びをしていると、玄鳥(神鳥。黒い鳥。『史記』では「玄鳥」ですが、『帝王世紀』は「燕」としています)が飛んできて、卵を落として去りました。

簡狄と妹が競って取りあい、玉筐を被せ、簡狄が卵を飲み込んで妊娠しました。

 

『帝王世紀』によると、簡狄の背が裂けて契が生まれました(剖背生契)

 

『今本竹書紀年』では、契は簡狄の胸を割いて生まれています(胸剖而生契)。以下、『今本竹書紀年』からです。

高辛氏(帝嚳)の世妃(「世妃」は正妻だと思います。上述の『史記』や『帝王世紀』が「次妃」としているのとは異なります)を簡狄といい、春分の玄鳥が来る日、帝に従って郊禖(子を求める祭祀。郊外で行います)に参加しました。

この時、妹と玄郊の川で水浴びをしていると、玄鳥が卵をくわえて飛んできて、それを落としました。卵が五色で美しかったため、簡狄と妹の二人が争って取りあい、玉筐を被せ、簡狄が先に卵を飲み込んで妊娠し、胸が裂けて契が生まれました。

契は成長してから堯の司徒になり(帝堯七十二年参照)、民に対して功を成したため、商に封じられました(帝舜元年参照)

 

以下、『史記・殷本紀』からです。

契は成長すると禹の治水を輔佐して功績をあげました。そこで帝舜が契に言いました「契よ、百姓(民衆)が親和を失い、五品(五常。父・母・兄・弟・子の秩序)も廃れてしまった(百姓不親,五品不訓)。汝は司徒となり、五教(五品の教え)を普及させよ。五教の要は寛大にある。」

舜は契を商に封じて「子」という氏を下賜しました。

契は唐堯から虞舜、大禹の時代に興り、百姓に対して功業が顕かになりました。そのおかげて百姓が安定しました。

 

『春秋左氏伝』は商について異なる記述をしています。

まず、「襄公九年」に「唐陶氏(帝堯)の火正・閼伯は商丘に住み、大火(火星)を祀り、火(火星)を基準に紀時(時節を確定すること)した」とあります。

閼伯は契を指し、帝堯の時代に火を掌る「火正」を勤めたようです。

「昭公元年」には閼伯(契)と弟に関する話が書かれています。それによると閼伯には実沈という弟がいましたが、仲が悪く、いつも武器を持って争っていました。后帝(嚳か堯を指すと思われます)はそれを嫌い、閼伯を商丘に遷して辰(大火。火星)を主管させました。商の人々がこれを受け継いだため、辰は商星とよばれるようになります。また、実沈を大夏に遷して参(参宿)を主管させました。唐の人々がこれを受け継いで、代々夏朝と商朝に仕えます。

西周時代になって唐が滅ぼされると、武王の子・叔虞が唐国に封じられ、叔虞の子が晋水の辺に遷って国号を晋に改めました。これが春秋時代に覇者を輩出した強国・晋の始まりです。晋は唐を継いで参星を崇めました。

『春秋左氏伝』におけるこれらの記述は、『史記』『帝王世紀』等が書いている、堯舜時代に功績を挙げて商に封じられたという記述と大きく異なります。

 

『史記・殷本紀』に戻ります。

契の死後、昭明が立ちました。

『資治通鑑外紀』によると、昭明は砥石に住んでいましたが商に遷りました。

 

昭明が死んで子の相土が立ちました。

相土は夏帝・相の時代に当たります。夏帝相十五年に、「商侯・相土が乗馬(馬を使って重い物を輸送する技術。または馬に乗る技術)を始めて、商(商丘)に遷った」と書きました。

 

相が死んで子の昌若が立ち、昌若が死んで子の曹圉(『史記索隠』によると、「糧圉」とも書きます)が立ちました。

 

『史記・殷本紀』は、「曹圉が死んで子の冥が立った」としていますが、『資治通鑑外紀』と『世本』では「曹圉が死んで子の根国が立ち、根国が死んで子の冥が立った」としており、曹圉と冥の間に根国を置いています。

 

冥は夏帝・少康の時代に水官になり、治水を担当しましたが(夏帝少康五十年参照)帝杼の時代、治水の途中で水死しました(夏帝杼十三年参照)

 

冥が死んで子の振が立ちました。

振は亥、核等とも書かれます。夏帝・泄の時代、有易国に殺され、その子・微が有易国を滅ぼしたことは既に書きました(夏帝泄十二年および十六年参照)

 

振を継いだ微は、上甲微ともいいます。

『帝王世紀』は「微は字を上甲という。(上甲というのは)その母が甲の日に生んだからである。商家(商人)が日を名(字)にするのは、微から始まったようだ」と書いています。

 

振が有易国に殺されて商国は一時衰えましたが、微によって復興されました。

この後、商の人は微を祭るようになりました。

『資治通鑑外紀』によると、商人は舜を禘(遠祖。始祖よりも遠い先祖)、契を祖(始祖)、冥を郊(郊祭で天に配す先祖)、湯を宗(祖宗)として祀り、上甲微も契の跡を引き継ぐことができた君主として祀ることにしました(上甲微能帥契者也,故報焉)

 

夏帝・不降三十五年に商国が皮氏(国名)を滅ぼしました。恐らく微の時代だと思いますが、微の即位から五十年近く経っているので、子孫の代になっての事かもしれません。

 

微が死んで子の報丁が立ち、報丁が死んで子の報乙が立ち、報乙が死んで子の報丙が立ち、報丙が死んで子の主壬が立ち、主壬が死んで子の主癸が立ちました。

 

主癸の死後、跡を継いだのが子の天乙で、これが商侯・湯です。契を初代とすると、湯は第十四代目になります(曹圉と冥の間に根国を置いた場合は十五代目になります)

 

 

次回に続きます。

商王朝2 成湯(前)

 

 

 

三国時代21 魏文帝(二十一) 士徽討伐 226年(2)

 

今回で魏文帝黄初七年が終わります。

 

[十] 『三国志・魏書二・文帝紀』と『資治通鑑』からです。

六月戊寅(初九日)、魏が文帝を首陽陵に埋葬しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、洛陽東北の首陽山に埋葬されたため、山名が陵名になりました。

 

(埋葬前に死体を安置すること)から葬(埋葬)まで、全て終制(生前に定める葬礼の制度。魏文帝黄初三年・222年参照)に則って事が行われました。

 

『三国志・文帝紀』裴松之注によると、明帝が送葬しようとしましたが、曹真、陳群、王朗等が暑熱(熱暑)を理由に固く諫めたため中止しました。

 

鄄城侯・曹植(文帝の弟)が文帝のために誄(死者の功績を述べて哀悼を示す文章)を作りました。別の場所で原文を紹介します(翻訳はしません)

曹植の誄

 

[十一] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

秋八月、呉王・孫権が魏で大喪があったと聞き、自ら兵を率いて江夏郡を攻めました。

魏の太守・文聘が堅守します。

『資治通鑑』胡三省注によると、文聘は当時、石陽に駐屯していました。

 

魏の朝議は兵を発して文聘を救おうと欲しましたが、明帝がこう言いました「孫権は水戦に習熟しているのに、敢えて船を下りて陸攻したのは、不備を襲うことを期待したからだ(冀掩不備也)。しかし今、既に文聘と対峙している。攻める側は守る側の倍の勢力が必要になるものなので、最後は久しくすることができない(夫攻守勢倍,終不敢久也)。」

 

これ以前に朝廷は治書侍御史・荀禹を派遣して辺方を慰労させていました。

荀禹は江夏に到ってから、経由した県の兵と自分に従っている歩騎千人を動員し、山に登って火を挙げました。

呉王・孫権は(それを見て)遁走しました。

 

『三国志・呉書二・呉主伝』は「秋七月、孫権は魏文帝が崩じたと聞き、江夏を征って石陽を包囲したが、克てずに還った」と書いています。七月に出兵して八月に兵を還したのかもしれません。

 

[十二] 『三国志・呉書二・呉主伝』からです。

蒼梧が(孫権に)「鳳皇(鳳凰)が現れた」と報告しました(報告されたのが七月なのか八月なのか、はっきりしません。『三国志・呉主伝』は七月、江夏を攻めた後に書いています。しかし江夏から還ったのが八月なら、この報告は八月のことになります)

 

[十三] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

辛巳(十二日)、魏明帝が皇子・曹冏を清河王に立てました。

 

[十四] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

呉の左将軍・諸葛瑾、部将・張霸等が魏の襄陽を侵しましたが、撫軍大将軍・司馬懿が撃破し、張霸を斬りました。

また、征東大将軍・曹真も尋陽で呉の別将を破りました。

 

魏が論功行賞を行い、それぞれ差をつけて賞賜を与えました。

 

『晋書・巻一・高祖宣帝紀』はこう書いています「孫権が江夏を包囲した時、その将・諸葛瑾と張霸を派遣して、共に襄陽を攻めさせた。司馬懿が諸軍を監督して孫権を討ち、これ(孫権)を走らせた(原文「帝督諸軍討権,走之」。上述の内容です。『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』では司馬懿の名がありません)

(司馬懿は)進撃して諸葛瑾を敗り、張霸と併せて千余の首級を斬った。司馬懿は驃騎将軍に遷った(十二月に述べます)。」

 

[十五] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。

呉の丹陽、呉、会稽三郡の山民が再び寇を為して属県を攻略しました。

呉王・孫権は三郡の険阻な地(『資治通鑑』では「険地」、『三国志・呉主伝』では「悪地」です)から十県を分けて東安郡を置き、綏南将軍・全琮に太守を兼任させて(領太守)、山越の平討を命じました。

『資治通鑑』胡三省注によると、三郡は豫章、丹陽、新都、または丹陽、呉、会稽を指します。

綏南将軍は呉が置いた将軍号です。

『三国志・呉主伝』裴松之注によると、東安郡の治所は富春です。

 

全琮は東安郡に到ると賞罰を明らかにし、叛乱した者を招いて投降・帰順を誘いました(招誘降附)。その結果、数年で一万余人を得ました。

後に孫権は全琮を召して牛渚に還らせ、東安郡を廃しました(東安郡が廃されるのは、魏明帝太和二年・呉王黄武七年・228年の事です。再述します)

 

[十六] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

冬十月、魏の清河王・曹冏が死にました。

 

[十七] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。

呉の陸遜が便宜(為すべき事。国の利となること)を陳述し、呉王・孫権に、徳を施して刑を緩め、賦に対して寛大にして、調(徴用、徭役)を止めるように勧めました(施徳緩刑,寛賦息調)

 

また、陸遜はこう言いました「忠讜(忠善)の言は陳述を極めることができず(忠讜之言不能極陳)(君主に)容れられようとしている小臣がしばしば利(小利。または自分にとって利となること)を報告しています(求容小臣数以利聞)。」

 

孫権が応えて言いました「法令を設けるのは、それによって悪を阻止して邪を防ぎ、まだ起きていないことを警戒しようと欲するからだ(欲以遏悪防邪,儆戒未然也)。どうして刑罰によって小人(庶民)に威を与えることをなくしてもいいのだ(焉得不有刑罰以威小人乎)。これは先に令を発して後に誅殺するという方法を用いて、(法を)犯す者を出さないようにしたいと欲しているのである。君が重すぎると思っていることは、孤(私)にとってもそのようにして何の利があるだろう(君は法が重すぎると思っているが、私にとって利があるからそうしているのではない)。ただやむを得ずそうしているだけのことだ。

今、来意(陸遜の意)を受けたので、重ねて諮謀(諮問・協議)し、可とすること(相応しい内容)は務めて従おう。そもそも、近臣には尽規の諫(「尽規」は力を尽くした諫言です。「尽規の諫」も同じ意味です)があり、親戚には補察の箴(過失を補って得失を察する忠告)があり、それによって君を匡して主を正し、忠信を明らかにするものだ(匡君正主明忠信)。『書』には『予(私)が過ちを犯したら汝が輔佐せよ。汝は面従してはならない(予違汝弼,汝無面従)』と記載されている。孤がどうして忠言を喜んで自らの欠点を補うという態度をとらずにいられるだろう(孤豈不楽忠言以自裨補邪)。それなのに(汝は)『敢えて陳述を極めることができない(不敢極陳)』と言った。(そのような状態での進言を)どうして忠讜とみなせるだろう(何得為忠讜哉)。小臣の中に納用(採用)できる者がいても、人を選んで言を廃し、採用しなくてもいいというのか(寧得以人廃言而不採択乎)。ただ媚び諂って歓心を得ようとする者に対しては、(私も)暗愚とはいえ、明らかに見極めることができる(但諂媚取容雖闇亦所明識也)

調を発すること(徴用、徭役すること)に至っては、ただ天下がまだ定まっていないからそうしているのであり、事は衆によって成就するものである(徒以天下未定,事以衆済)。もしも江東を守るだけで、寛政を修め崇めるなら、兵は自ずから用いるに足りている。それ以上に用いる必要があるか(復用多為)。しかしただ坐って自分を守るだけでは、あまりにも陋(狭隘)である(顧坐自守可陋耳)。もしあらかじめ調(徴用、徭役)を行わなかったら、恐らく時に臨んでもすぐに用いることができない。

また、孤(私)と君の分義(情義)は特異で、榮戚(喜悦と憂慮)が実に同じである。来表(上表文)で『敢えて衆に従い、身を安んじ、禍から逃れることはできない(不敢隨衆容身苟免)』と言っているが、これは実に心底から君に望むところである(此実甘心所望於君也)。」

 

孫権は有司(官員)に命じて全ての科條(法律)を書き記させ、郎中・褚逢を派遣してそれを陸遜と諸葛瑾に届けさせました。適切ではない個所があったら二人に添削するように命じます(意所不安,令損益之)

 

[十八] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

十二月、魏が太尉・鍾繇を太傅に、征東大将軍・曹休を大司馬に任命しました。曹休の都督揚州はそのままです(「都督揚州」は「都督揚州軍事」を指し、揚州の軍事を監督する官です。『資治通鑑』胡三省注によると、「都督諸州軍事」は魏文帝黄初三年・222年に置かれました)

中軍大将軍・曹真を大将軍に、司徒・華歆を太尉に、司空・王朗を司徒に、鎮軍大将軍・陳群を司空に、撫軍大将軍・司馬懿を驃騎(票騎)大将軍に任命しました。

 

華歆が官位を管寧に譲ろうとしましたが、文帝は許しませんでした。

 

文帝は管寧を召して光禄大夫に任命しました。青州に命じて安車(座って乗る車)と吏従(従卒)を提供させ、礼を用いて送り出させます(『資治通鑑』胡三省注によると、管寧は北海朱虚の人で、青州に属します)

しかし管寧は朝廷に来ませんでした。

 

[十九] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。

この年、呉の交趾太守・士燮が死にました。

呉王・孫権は士燮の子・士徽を安遠将軍に任命して九真太守を兼任させ(領九真太守)、校尉・陳時を士燮に代えて交趾太守にしました。

 

交州刺史・呂岱は交趾が絶遠の地にあるため、交州を二分することを上表しました。海南三郡を交州にして将軍・戴良を刺史に任命し、海東四郡を広州にして呂岱が自ら刺史になろうとします(『資治通鑑』胡三省注によると、海南三郡は交趾、九真、日南で、海東四郡は蒼梧、南海、鬱林、合浦です)

 

(朝廷、または呂岱が)戴良と陳時を送って南に入らせましたが、士徽は自ら交趾太守の任に当り、宗兵を発して戴良を拒みました。戴良は合浦に留まります。

『資治通鑑』胡三省注は「漢末の乱以来、南方の人々は宗党を率いて集まり、兵(軍隊)となって自衛した」と解説しています。

 

交趾の人・栢鄰(『資治通鑑』胡三省注によると「桓鄰」とも書きます)はかつて士燮が推挙した官吏でした。叩頭して士徽を諫め、戴良を迎え入れさせようとします。

しかし士徽は怒って栢鄰を笞で打ち、殺してしまいました。

そこで栢鄰の兄・栢治が宗兵を集めて士徽を撃ちましたが、勝てませんでした。

 

呂岱が上書して士徽討伐を請いました。兵三千人を監督し、昼夜兼行して海から南に下ります。

ある人が呂岱に言いました「士徽は累世の恩(交趾の人々に代々施してきた恩)を頼りにしており、一州が帰附しているので、まだ易軽(軽視)できません。」

呂岱が言いました「今、士徽は逆計を抱いているが、私が突然至るとはまだ知らない。もし私が軍を隠して軽装で行動し、敵の不備を襲えば、これを破るのは必定だ。停滞して速やかに進まなかったら、彼に心(疑心)を生ませることになり、(その間に敵は)城を拠点にして守りを固め、七郡の百蛮が雲合響応してしまう(稽留不速,使得生心,嬰城固守,七郡百蛮,雲合響応)(そうなったら)たとえ智者がいたとしても、誰がこれを図れるだろう。」

 

呂岱は行軍して合浦を過ぎ、戴良と共に進みました。

 

呂岱は士燮の弟の子・士輔を師友従事にしました(『資治通鑑』胡三省注によると、「師友従事」は従事に任命されたものの、師友の礼で遇されている者です。尚、「士輔」というのは『資治通鑑』の記述で、『三国志・呉書四・劉繇太史慈士燮伝』では「士匡」です)

呂岱が士輔を派遣して士徽を説得させると、士徽は兄弟六人を率いて城を出て、呂岱に投降しました。

しかし呂岱は全て斬首しました。

 

士徽の大将・甘醴と栢治が吏民を率いて共に呂岱を攻めましたが、呂岱が奮撃して破りました。

呉は広州を除いて元の交州に戻しました。

 

呂岱は兵を進めて九真を討ち、斬獲(斬首・捕獲)が万を数えました。

また、従事を派遣して南方に威命を宣布し、徼外(辺外)の扶南、林邑、堂明の諸王にまで至らせました。諸王がそれぞれ使者を派遣して呉に入貢させます。

『資治通鑑』胡三省注によると、扶南は日南から更に南に位置し、七千里も離れていました。林邑国は、本は漢の象林県で、交趾から海路で三千里離れています。堂明は道明国で、真臘の北に位置します(真臘の南が扶南です)

 

[二十] 『三国志・呉書二・呉主伝』裴松之注からです。

呉王・孫権が武昌で大船で新装(新造)し、「長安」と名づけました。試しに釣台圻に浮かべます。

この時、風が大いに盛んになったため、谷利(人名)が柂工(舵工。かじ取り)に命じて樊口に向かわせました。

孫権が「頭を羅州に向けろ(原文「当張頭取羅州」。この「張」は「望む」「向ける」の意味だと思います)」と言いましたが、谷利は刀を抜いて柂工に向かい、「樊口に(方向を)取らない者は斬る」と言いました。

柂工はすぐに舵を転じて樊口に入りました。

やがて、風が更に激しくなり、前に進めなくなったため、孫権等はそこから帰還しました。

 

孫権が言いました「阿利(谷利。「阿」は親しい関係の者に対して使う呼称です)よ、水を畏れて、なぜそれほどまで怯えたのだ(阿利畏水何怯也)?」

谷利が跪いて言いました「大王は万乗の主でありながら、不測の淵において軽率になり、猛浪の中で戯れました。船楼は高く造られています(船楼装高)。万一顛覆の危険に遭遇したら、社稷はどうするのですか(邂逅顛危,奈社稷何)。だから利(私)は敢えてすぐに死をもって争ったのです(命を懸けて諫めたのです)。」

この事があってから孫権は谷利を貴重し、再び名を呼ぶことなく、常に「谷」と呼ぶようになりました(直接名を呼ばないのは尊重を意味します)

 

 

次回に続きます。

三国時代22 魏明帝(一) 諸葛亮の北伐 227年(1)

 

 

 

文帝の自叙 『典論』

 

魏文帝黄初七年(226年)に文帝が死にました。

三国時代20 魏文帝(二十) 文帝の死 226年(1)

『三国志・文帝紀』裴松之注が『典論』から文帝の自叙を引用しているので、ここで紹介します。

 

初平元年(190年。原文「初平之元」)、董卓が主(少帝)を殺害して后(皇后)を鴆殺し、王室を顛覆させた(殺主鴆后,蕩覆王室)。この時、四海は既に中平(霊帝中平年間)の政に困窮しており、加えて董卓の凶逆を悪としたので(憎んだので)、家家が乱を思い、人人が危険を感じていた(家家思乱,人人自危)。山東の牧守は皆、『春秋』の義における「衛人が濮で州吁を討った」という内容によって、「人人は皆、賊を討つべきだ」と言った。こうして義兵を大いに興し、名豪・大侠・富室(富豪)・強族が飄揚(風に乗って空を舞う様子)とした雲のように集まって、万里から赴いた。兗・豫の師は滎陽で戦い、河内の甲(兵)は孟津に駐軍した。そのため董卓は遂に大駕(天子の車)を遷し、西に向かって長安を都にした。一方、山東では、大の者は郡国を連ね、中の者は城邑を守り(嬰城邑)、小の者は阡陌(田地)に集まり、(自分の地に)還って互いに吞滅するようになった。ちょうど黄巾が海・岱で盛んになり、山寇が并・冀で暴れ、勝ちに乗じて転攻(転戦)し、席巻して南に向かった。郷邑(の民)は煙(砂塵)を眺望して奔り、城郭は塵を目撃して潰え、百姓が死亡して骨が莽(密生した草)のように曝された。

余はこの時、年が五歳だったが、世がまさに擾乱していたため、上(曹操)が余に射(射術)を学ばせ、(余は)六歳で射を知った(習熟した)。また、余に騎馬を教え、八歳で騎射ができるようになった。変乱が多い時だったため、出征の度に余はいつも従った(以時之多故,每征余常従)。建安の初(献帝建安年間の初め)、上(曹操)が荊州に南征して宛に到り、張繍が降った。しかし旬日(十日)にして反し、亡兄の孝廉・子修(曹昂)と従兄の安民が害に遭った。当時、余の年は十歳で、馬に乗って脱出できた。

文武の道とは、その時の状況に応じて用いるものである(夫文武之道,各隨時而用)。中平の季(中平年間の末)に生まれ、戎旅(軍旅)の間で成長したので、幼少から弓馬を好み、今になっても衰えない。禽獣を追えばいつも十里に及び、馳せて射れば常に百歩に及ぶ(禽獣を追えば十里も走り、駆けながら矢を射る時は獲物から百歩離れていても命中できる。原文「逐禽輒十里,馳射常百歩」)。日を重ねるほど体が壮健になり、心はいつも厭わない(日多体健,心每不厭)。建安十年(205年)、始めて冀州を定め、濊・貊が良弓を貢納して、燕・代が名馬を献上した。その時は歳の暮春(晩春)で、勾芒(春神)が節(季節)を司り、和やかな風が物を扇ぎ、弓が乾燥していて手が柔らかくなり(原文「弓燥手柔」。弓は乾燥していた方が力が入りやすく、矢を射やすいようです。「手が柔らかい」というのは弓を引きやすいという意味だと思います)、草が浅くて獣が肥えていたので、族兄・子丹(曹真)と共に鄴西で猟して、終日かけてこの手で獐(鹿の一種)・鹿九頭と雉・兔三十羽を獲た。

後に軍が南征して曲蠡に駐留した時、尚書令・荀彧が使命を奉じて犒軍した(軍を慰労した)。余に会って談論した末に、荀彧が「君は善く左右に射ることができると聞いた。これは実に難しい技能だ(聞君善左右射,此実難能)」と言ったので、余は「執事(あなた)はまだ(馬の)首や口のあたりから矢を放ち、俯したら『馬蹄』を射て、仰いだら『月支』を射る姿を見たことがないのだ(「馬蹄」も「月支」も標的の名です。原文「執事未睹夫項発口縦,俯馬蹄而仰月支也」。誤訳かもしれません)」と言った。荀彧は喜び笑って「なるほど、そのようであったのか(乃爾)」と言った。余はまたこう言った「埒(射場の囲い)には常徑(一定の道)があり、的(標的)には常所(一定の場所)があるので、たとえ(矢を)発する度に全て中ったとしても、至妙(絶妙)ではない。もしも平原を馳せて豊草に赴き(草が茂った場所に向かい)、狡獣を待ち伏せして軽禽を遮り(要狡獣,截軽禽)、弓をいたずらに引くことなく、命中したものは必ず貫通するのなら、これこそが妙である(使弓不虚弯,所中必洞,斯則妙矣)。」この時、軍祭酒・張京が坐におり、荀彧を顧みて、手を打って「すばらしい(善)」と言った。

余はまた撃剣を学び、多くの師を経験したが(閲師多矣)、四方の法はそれぞれ異なり、ただ京師だけが善かった。桓・霊の間、虎賁に王越という者がおり、この術を善くして京師で称えられていた。河南の史阿が、昔、王越と遊び(遊学し)、その法を全て得たと言ったので、余は史阿に従ってこれを学び、精熟(精通、習熟)した。かつて、平虜将軍・劉勳、奮威将軍・鄧展等と共に飲んだことがあった。かねてから鄧展は腕が善くて五兵(五種類の武器)に精通していると聞いており(宿聞展善有手臂曉五兵)、また、空手で白刃に入ることができると称されていた。余は彼とかなり久しく剣について論じ、こう言った「将軍の法は非である(間違っている)。余はかつてそれ(剣術)を愛好したことがあり、また、優れた術を得た(余顧嘗好之又得善術)。」そこで彼は余と対することを求めた。この時、酒がまわって耳が熱くなり(酒酣耳熱)、ちょうど芋蔗(サトウキビ)を食べていたので、すぐにそれを杖(棒。武器)にして、殿を下りて数回交え、三回彼の臂に命中させた。左右の者が大笑したが、鄧展は意が不平だったので(心中不服だったので)、更に続けることを求めた。余はこう言った「私の法は急速なものなので(吾法急属)、面(顔)に中てるのは難しい。だから全て臂に中ったのだ(故斉臂耳)。」鄧展は「もう一回交えたい(願復一交)」と言った。余は(彼が)突いて交中を取ろうとしていると知った(原文「余知其欲突以取交中也」。「欲突以取交中」は中央を突こうとしている、という意味だと思います)。そこで偽って深く進むと、鄧展は果たしてすぐに前に進んだ。余は退いて足ではらい、ちょうどその額を切った(因偽深進,展果尋前,余卻脚鄛,正截其顙)。坐中の者はこの様子を驚視した(驚いて注視した)。余は坐に還ってから笑ってこう言った「昔、陽慶は淳于意にその故方(古い方法)を棄てさせ、改めて秘術を授けた(原文「陽慶使淳于意去其故方,更授以秘術」。陽慶も淳于意も西漢時代の名医です。淳于意は元から医術を学んでいましたが、陽慶が新たに秘術を教授しました)。今、余もまた鄧将軍が故伎(元の技)を捐棄(放棄)し、改めて要道(重要な道理、方法)を受けることを願う。」こうして一坐の者が歓を尽くした。

物事とは自分が長けていると思ってはならない(夫事不可自謂己長)。余は若い頃、持複(両手で戟等の武器を持つ武芸)に精通し、自ら対(敵)がいないと思っていた。俗名で双戟(二本の戟を使うこと)を坐鉄室(鉄室に坐る)といい、鑲楯(盾の一種だと思います。あるいは、前後の意味から、二つの盾を使うことかもしれません)を蔽木戸(木の戸を蔽う)という。後に陳国の袁敏に従って学んだが、(彼が)単によって複を攻める姿は(一つの武器で両手の武器を攻撃する姿は)、いつも神のようだと思った。相手の出るところが分からず、これ以前にもし狹路で袁敏に遭遇していたら、すぐに勝負が決していただろう(原文「対家不知所出,先日若逢敏於狹路,直決耳」。誤訳かもしれません)

余は他の戲弄の事(遊び)において好きなものは少ない(余於他戲弄之事少所喜)。ただ弾棊(盤上の遊戯の一種)だけはほぼ技巧を極め、若い時にその賦を作った(略尽其巧,少為之賦)。昔、京師の先工(前代の打ち手)に馬合郷侯、東方安世、張公子がいたが、(私は)常に彼等数子(数人)と対せない(勝負できない)ことを恨んでいた。

(曹操)はかねてから詩書・文籍を好み、軍旅に居る時も手から書巻を離さなかった(手不釈巻)。いつも(私が)定省(父母に挨拶すること)すると従容(悠々)としており(每每定省従容)、常にこう言った「人は若い頃に学問を好めば思いが専らになるが(専心できるが)、長じたらよく忘れるようになる(人少好学則思専,長則善忘)。長大(成長)しても学問に勤められる者は、ただ私と袁伯業(袁遺)だけだ。」

余はこれによって若い頃から『詩(詩経)』『論(論語)』を誦んじ、成長すると五経・四部・『史(史記)』『漢(漢書)』・諸子百家の言を備歴して(全て順に読みつくして)、最後まで読み終らないものはなかった(靡不畢覧)

 

以上が『典論』の記述です。

『三国志・文帝紀』裴松之注が『博物志』から引用してこう書いています「文帝は弾棊を善くし、手巾の角を用いることができた(弾棊の技だと思います)。当時、一書生がおり、彼も頭を低くして、かぶっている葛巾の角で棊をはらうことができた。」