三国時代26 魏明帝(五) 石亭の戦い 228年(3)

 

今回も魏明帝太和二年の続きです。

 

[四] 『三国志・呉書二・呉主伝』からです。

三月、呉王・孫権が子の孫慮を建昌侯に封じました。

 

[五] 『三国志・呉書二・呉主伝』からです。

呉が東安郡(魏文帝黄初七年・呉王黄武五年・226年参照)を廃しました。

 

[六] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

夏四月丁酉(初八日)、魏明帝が洛陽に還りました。

 

『三国志・明帝紀』裴松之注によると、当時、こういう訛言(謡言。噂)がありました「帝が既に崩じ、従駕の群臣(皇帝に従う群臣)は雍丘王・植(曹植。曹操の子。文帝の弟)を迎えて擁立した。」

京師では卞太后から群公に至るまで、皆が懼れました。

明帝が帰還すると、皆、秘かに顔色を窺います(原文「私察顔色」。群臣が明帝の顔色を見て活きているかどうかを確認した、という意味だと思います)

卞太后は悲喜が交わり、始めに訛言を語った者を捜し出そうとしました。

しかし明帝はこう言いました「天下で皆が言っていたのです。どうやって探すのでしょうか(天下皆言,将何所推)。」

 

[七] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

魏が死罪以外の囚人(繋囚非殊死以下)を赦しました。

 

[八] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

乙巳(十六日)、魏明帝が諸葛亮討伐の功を論じ、それぞれに差をつけて封爵・増邑しました。

 

[九] 『資治通鑑』からです。

魏明帝が燕国の人・徐邈を涼州刺史に任命しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、涼州は西方に位置し、常に寒涼だったため、そう名付けられたようです。

 

徐邈は農業に務めて穀物を蓄え、学校を建てて訓導を明らかにし、賢善な人材を進めて姦悪な者を除き(進善黜悪)、羌・胡と共に事を行い、小過(小さな過失)を問いませんでした。もしも大罪を犯した者がいたら、先に部帥(少数民族の部衆の長。『資治通鑑』では「都帥」ですが、『三国志・魏書二十七・徐胡二王伝』では「部帥」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)に告げて、死刑に値することを周知させてから斬首して見せしめにしました(使知応死者乃斬以徇)

そのため、人々は徐邈の威信に服し、州界が粛清(清平)になりました。

 

[十] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

五月、大旱に襲われました。

 

[十一] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

六月、魏明帝が詔を発しました「儒学を尊んで学術を貴ぶのは、王教(王道による教化)の本である(尊儒貴学,王教之本也)。しかし最近、儒官の中には相応しくない者もいる。これでどうして聖道を宣明できるだろう。よって博士を高選してから(博学の士を高い基準で選抜してから)、才に応じて侍中・常侍といった官に任命することにする(其高選博士,才任侍中常侍者)。郡国に申敕(詔を宣示すること)し、(今後の)貢士は経学を先にさせる(朝廷に人材を推挙する際は、経学に精通している者を優先させる。原文「貢士以経学為先」)。」

 

[十二] 『資治通鑑』からです。

呉王・孫権が鄱陽太守・周魴を派遣し、山中の旧族名帥(『資治通鑑』胡三省注によると、「山越の宗帥」です)で北方において名が知られている者を秘かに求めさせようとしました。彼等を使って魏の揚州牧・曹休を誘い出すためです。

『資治通鑑』胡三省注によると、魏の揚州は漢の九江・廬江の二郡を治めているだけで、江津の要害の地は多くが呉に占拠されていました。

 

周魴が孫権に言いました「民帥小醜(「民帥」は山民の指導者、「小醜」は賎しい者です)は杖任(信任。頼ること)に足りず、事がもし漏泄(漏洩)したら、曹休を到らすことができません。(臣の)親人を派遣し、牋(書信)を持たせて曹休を誘い、こう伝えることを乞います『(周魴が)譴責を被って誅を懼れており、郡を挙げて北に降ろうと欲しているので、(曹休が)兵を出して(周魴を)迎え入れることを求める(乞遣親人齎牋以誘休,言被譴懼誅欲以郡降北,求兵応接)』。」

孫権はこれに同意しました。

 

呉の郎官(『資治通鑑』胡三省注によると、尚書郎です)が頻繁に周魴を訪ねて諸事を詰問したため、周魴は鄱陽郡の門下に至り、髪を切って謝罪しました(下髪謝)

『資治通鑑』胡三省注は「呉王の詰問も周魴の謝罪も全て曹休を欺くためである」と解説しています。

 

これを聞いた曹休は、歩騎十万を率いて皖に向かい、周魴に応じようとしました。

魏明帝は更に司馬懿を江陵に向かわせ、賈逵を東関に向かわせ、三道から共に進ませました。

『資治通鑑』胡三省注によると、当時、司馬懿は諸軍を督(監督)して宛に駐屯していました。

「東関」は濡須口です。東・西の関があり、東関の南岸には呉が城を築き、西関の北岸には魏が柵を設けていました。後に呉の諸葛恪が東関に大堤を造って巣湖の水を止めます。これを東興堤といいます(魏少帝(曹芳)嘉平四年・呉帝(孫亮)建興元年・252年参照)

 

秋八月、呉王・孫権が皖に至りました。

陸遜を大都督に任命し、黄鉞を授け、自ら鞭を持って引見します(『資治通鑑』胡三省注は「これは古の王者が将を派遣する時、跪いて将軍の車を推したのと同じである(跪而推轂之意)」と解説しています。「跪而推轂」は将軍を送り出す時の儀式です。孫権は自ら馬鞭を持って前線で陸遜を激励したようです)

また、朱桓と全琮を左右督に任命し、それぞれ三万人を督(監督)して曹休を撃たせました。

 

曹休は欺かれたと知りましたが、その衆(大軍。多勢)に頼って呉と戦おうとしました。

朱桓が孫権に言いました「曹休は元々親戚(皇族)という立場によって任せられたのであって、智勇の名将ではありません。今、戦えば必ず敗れ、敗れたら必ず走り、走ったら夾石・挂車を経由します。この両道はどちらも険阨(険阻・狭隘)なので、一万の兵を用いて柴で路を塞いだら、彼の衆を全滅させて曹休を生け捕りにすることができます(若以万兵柴路則彼衆可尽,休可生虜)。臣は自分の部隊を率いてこれを断つことを請います。もしも天威を蒙り、曹休(を倒すこと)によって国に貢献できたら(または「曹休を倒すことで自分の策が正しいことを証明できたら。」原文「得以休自效」)、すぐ勝ちに乗じて長駆し、進んで寿春を取り、淮南に割拠して許・洛を計ることができます(割有淮南以規許洛)。これは万世一時(の好機)なので、失ってはなりません。」

孫権が陸遜に意見を求めると、陸遜はそうするべきではないと答えました(以為不可)

そのため、朱桓の計は中止されました。

 

一方、魏では尚書・蒋済が明帝に上書してこう言いました「曹休は虜地に深入りして孫権の精兵と対しており、しかも朱然等が上流にいて曹休の後ろに乗じているので、臣にはまだその利が見えません(有利な点がありません)。」

前将軍・満寵も上書しました「曹休は明果(聡明果断)とはいえ、兵を用いたことが少なく(希用兵)、今、道にして通っているところは、湖を背にして江に近付き、進みやすいものの退き難いので、これは兵の絓地(険阻狭隘な地。進退ができない地)というものです。もし無彊口(地名。『資治通鑑』胡三省注によると、夾石の東南に位置します)に入るなら、深く備えを為すべきです。」

 

満寵の上表に対する回答が来る前に、曹休が陸遜と石亭(『中国歴史地図集(第三冊)』によると、石亭は皖県の北に位置します)で戦いました。

陸遜が自ら中部になり、朱桓と全琮を左右翼にして三道から並進します。

呉軍は曹休の伏兵に突撃してそれを機に魏兵を駆逐し、敗走する兵を追撃して、直接、夾石に至りました。斬獲(斬首・捕虜)は万余、奪った牛・馬・騾・驢・車乗は万両(輌)に上り(牛・馬・騾・驢が牽く車が万輌に上ったのか、牛・馬・騾・驢が万頭を数えて車乗も万輌に上ったのかははっきりしません。原文「残獲万余,牛馬騾驢車乗万両」)、軍資器械も奪い尽くしました。

 

『資治通鑑』胡三省注は「曹休は(満寵等の上表が間に合わなかったため)陣を整える前に戦って敗れたのだろう」と書いています。

 

以前、曹休が明帝に上表し、深く進入して周魴に応じる許可を求めた時、明帝は賈逵に命じて、兵を率いて東に向かい、曹休と合流させました。

『資治通鑑』胡三省注によると、賈逵は豫州から兵を進め、西陽を取ってから東関に向かうことになっていました。曹休は寿春を出て皖に向かっています。西陽は皖の西にあり、東関は皖の東にあります。賈逵は先に曹休と合流してから東関に向かう予定でした。

 

賈逵は「賊は東関には備えがなく、必ず皖で兵を集結している。曹休が深入りして賊と戦ったら必ず敗れる(呉は東関ではなく皖で兵力を集結させているはずなので、東関に到着する前に皖周辺で敗れることになる)」と言うと、諸将を配置して水陸から並進しました。

賈逵が二百里行軍した時、呉人を獲ました。呉人は「曹休が戦って敗れ、呉が兵を送って夾石を断った(『中国史歴史地図集(第三冊)』を見ると、夾石は石亭の北、魏呉の国境付近に位置します)」と話します。

魏の諸将は如何するべきか分からず、ある者は後軍を待とうと欲しました。

しかし賈逵はこう言いました「曹休の兵が外で敗れ、路が内(後方)で絶たれた。進んでも戦うことができず、退いても帰ることができず、安危の機は終日(一日)に及ばない(安危の機運は今日中に決してしまう。今日中に安危を分ける決断をしなければならない。原文「安危之機,不及終日」)。賊は軍(曹休軍)に後継(後続。後援)がないと思っているから、ここに至ったのだ(退路となる夾石に兵を送ったのだ)。今、疾進してその不意に出れば(迅速に進軍して敵の不意を突けば)、これこそいわゆる『人に先んじてその心を奪う(先人以奪其心)』というものである。賊は我が兵を見たら必ず走る。もしも後軍を待っていたら、賊が既に険路を断ってしまう。(そうなったら)たとえ兵が多くても何の益があるか。」

賈逵は兼道(二倍の速度で急行すること)して軍を進め、多くの旗鼓を設けて疑兵としました。

呉人は遠くから賈逵の軍を眺め見て、驚いて走りました(『資治通鑑』胡三省注は「驚いて走ったのは夾石を断った軍である」と解説しています)

 

こうして曹休は帰還することができました。

賈逵が夾石を占拠して兵糧(食糧。または兵と食糧)を曹休に供給したため、曹休軍がやっと士気を取り戻します(休軍乃振)

 

以前、賈逵と曹休は関係が善くありませんでしたが、曹休が敗れた時は賈逵のおかげで難から免れることができました。

『三国志・魏書十五・劉司馬梁張温賈伝』によると、魏文帝黄初年間に、文帝が賈逵に符節を授けようとしました。しかし曹休が「賈逵は性格が剛直で、以前から諸将を侮易(軽視・侮蔑)しているので、督にするべきではありません」と言ったため、文帝は中止しました(この一件が原因で、二人の関係は悪化していました)

 

以上は『資治通鑑』の記述で、石亭の戦いを八月に書いています。

『三国志・呉書二・呉主伝』は「夏五月(『資治通鑑』では六月です)、鄱陽太守・周魴が偽って叛し、魏将・曹休を誘った。秋八月、孫権が皖口に至った。将軍・陸遜に諸将を督させ、石亭で曹休を大破した」と書いています。

『三国志・魏書三・明帝紀』には「秋九月、曹休が諸軍を率いて皖に至り、呉将・陸議(陸遜)と石亭で戦ったが、敗績(敗戦)した」とあります。

石亭の戦いは八月から九月にかけて行われたようです。

 

[十三] 『三国志・呉書二・呉主伝』からです。

呉の大司馬・呂範が死にました。

 

以下、『資治通鑑』からです。

呉王・孫権が揚州牧・呂範を大司馬に任命しましたが、印綬が届く前に死んでしまいました。

 

以前、孫策が呂範に財計を管理させました。当時、年少だった孫権が個人的に財物を求めましたが、呂範は必ず関白(報告)し、敢えて独断で同意することがなかったため、孫権に怨まれました。

孫権が陽羨長を代行した時(守陽羨長。『資治通鑑』胡三省注によると、陽羨県は、西漢は会稽郡に、東漢は呉郡に属しました)、個人的に財物を使うことがありました。時には孫策が料覆(審査)しましたが、功曹の周谷がいつも都合に合わせて帳簿を書き換え(輒為傅著簿書)、譴問(譴責)されないようにしたため、孫権は当時それを悦んでいました。

しかし後に孫権が政務を統領するようになると、呂範に対しては忠誠とみなして厚く信任を示しましたが、周谷に対しては偽って簿書を改めることができるとみなして用いなくなりました。

 

 

次回に続きます。

三国時代27 魏明帝(六) 陳倉の戦い 228年(4)

 

 

商王朝3 成湯(後)

 

今回は成湯時代の年代記です。

在位年は『綱鑑易知録』を元にします。

 

 

成湯十八年 乙未(前1766年)

湯は諸侯として十七年を過ごしたため、十八年から始まります。

中華書局『綱鑑易知録』の本文と注釈は、この年を乙未(前1766年)としています。『今本竹書紀年』では「癸亥」です。

『資治通鑑外紀』は「十八年」ではなく「成湯元年」としており、「庚戌」です。

 

[一] 『綱鑑易知録』からです。

(成湯)が夏から帰り、万方(天下。万民)に対して(商の時代が始まったことを)大いに告げました(原文「誕告万方」。「誕」は「大」に通じます)

 

三月、成湯が亳に帰って天子の位に即き、亳を都に定めました。

国号を建てて「商」とします。

 

『今本竹書紀年』には「王即位,居亳。始屋夏社」とあります。「王が即位して亳に住んだ。始めて夏社を建てた」という意味だと思います。

「社」は后土の神(土地神)で、共工の子・句龍です。湯は夏王朝を滅ぼしてから、夏の土地神(夏社)を変えようとしましたが、中止しました(夏桀五十三年参照)

亳が国都になってから、都に夏社が建てられたようです。

 

[二] 『史記・殷本紀』からです。

商王朝が正朔(年の初め。暦)を改め、服の色を変え(易服色)、色は白を貴び(上白)、昼に朝会を開くことにしました(朝会以昼)

 

以下、『資治通鑑外紀』と『綱鑑易知録』を元に詳しく書きます。

冬至がある月を「子月」といい、次の月を「丑月」、次の月を「寅月」といいます。

夏王朝は寅月を正月とし、商王朝は丑月(夏暦の十二月)を正月としました(以建丑冬十二月為歳首)。周代になると子月(夏暦の十一月)が正月に改められます。

尚、現在の旧暦(農暦)は夏暦を踏襲して寅月を正月としています。

 

成湯は服装や称号を改め、夏王朝とは異なる時代が始まったことを示しました。

 

夏王朝の帝禹元年に、夏王朝には五行が金徳、水徳、木徳に当たるとする説があると書きました。

『帝王世紀』は、禹は「金徳によって(帝舜の)土徳を継いだ(以金承土)」、成湯は「水徳によって金徳を継いだ(以水承金)」としており、これは「五行相生」に則っています。

 

上述の『史記・殷本紀』および『資治通鑑外紀』『綱鑑易知録』では、商王朝は白を貴んでいるので、金徳に当たるはずです。

『資治通鑑外紀』と『綱鑑易知録』によると、(商王朝は)石で社(土地神の社)を造り、墳墓の上に松を植え、犠牲は白い動物を用い、白を徽号(旗の色)とし、正装は冔(冠の一種)を被って縞衣(白絹の服)を着ることにしました。

 

しかし『資治通鑑外紀』では、夏王朝は黒を貴んでいるので水徳のはずです。『資治通鑑外紀』はこれまで「五行相克」に則って、金徳・帝堯→火徳・帝舜→水徳・禹(夏)としてきたので、水徳に克った商王朝は土徳になるはずです。

『綱鑑易知録』では夏王朝を『帝王世紀』と同じく金徳の王としていますが、同時に水徳の色である黒を貴んでおり、混乱が見られます。

『帝王世紀』『綱鑑易知録』のように「五行相生」に則るなら、金徳の夏王朝を継いだ商王朝は水徳になるはずであり、『資治通鑑外紀』のように「五行相克」に則るなら商王朝は土徳になるはずです。なぜ商王朝が白を貴んだのかはわかりません。

商王朝が白を貴んだことから金徳と判断して、遡って夏王朝を木徳とする説もありますが(「五行相克」では、金は木に克ちます)、その場合は、夏王朝が黒を貴んだとする記述と合わなくなります。

 

『綱鑑易知録』は「歳を改めて祀とした」と書いています。夏帝禹元年に書きましたが、在位年数を表す際、夏は「歳(元歳、二歳、三歳等)」、商は「祀(元祀、二祀、三祀等)」を使い、周代になってから「年」が使われるようになりました。但し、この「通史」では統一して「年」を使っています。

 

[三] 『資治通鑑外紀』からです。

一尺を十二寸と定めました。

夏王朝時代にも触れましたが、夏帝・禹は十寸を一尺とし、周の武王は八寸を一尺としました。

 

[四]  『資治通鑑外紀』は「初めて二相を置き、伊尹と仲虺を任命した」と書いています。

 

[五] 成湯自ら亳の東郊に至り、『湯誥』を作りました。

『湯誥』は『尚書』に収録されたものと『史記・殷本紀』に収録されたものの二種類があります。

ここでは『史記・殷本紀』のものを紹介します。

三月、王自ら亳の東郊に至り、諸侯群后(四方の国君)に告げました「民に対して功績がなければならない。汝等の職務に勤力せよ(毋不有功於民,勤力迺事)(さもなくば)(私)は汝等に大きな罰殛(誅滅)を与えよう。(その時になってから)予を怨むな(予乃大罰殛女,毋予怨)。」

またこう言いました「昔、禹や皋陶は久しく外で勤労し、民に対して功績があったので、民が安んじることができた。東は江(長江)、北は済(済水)、西は河(黄河)、南は淮(淮水)という四瀆(四つの大きな川)を修めたから(治めたから)、万民が安定した住居をもつようになった。后稷は種蒔きを教え、百穀を植えて成長させた(后稷降播,農殖百穀)。このように三公(禹・皋陶・后稷)はそれぞれ民に対して功を立てたたから、後世が(諸侯に)立てられたのである。昔、蚩尤はその大夫と共に百姓に対して乱をなしたため、帝(天帝)がこれを助けず、状があった(結果が有った。罪を犯したため、黄帝に滅ぼされた)。先王(黄帝・堯・舜等)の言は勉めなければならない。」

またこう言いました「不道の者を国に行かせることはない(諸侯に封じない)(封侯されなくても)汝等は予を怨むな。」

成湯はこれを諸侯に宣言しました。

 

以下、『資治通鑑前篇』と『綱鑑易知録』からです。

成湯は東郊で諸侯の功罪を論じ、禹の後代や功績を残した聖賢の後代を探して封侯しました。

孤竹等の国がそれぞれ封地や爵位に差をつけて封じられました。

 

孤竹は中国東北に位置する墨胎氏の国で、墨胎は墨台、墨夷、目夷とも書かれます。目夷氏は商国の始祖・契の子孫が名乗った氏といわれているので、孤竹は湯が東方を安定させるために一族を封じて建てた国かもしれません。

孤竹国の他にも、后稷の子孫や、湯の御者として夏桀の討伐に従った費昌、夏王朝初期に車正となった奚仲の子孫で左相として湯に仕えていた仲虺等が論功行賞の対象になったはずです。

 

[六] 『史記・殷本紀』からです([六]から[八]はいつの事か分かりませんが本年に書きます)

司空・咎単(司空は水利・土木等を担当しました)が『明居』を作りました。

『明居』は「居民の法を明らかにする」という意味で、民が守るべき法律です。

『尚書』に篇名が紹介されていますが、本文は伝わっていません。

 

『史記・殷本紀』は「伊尹が『咸有一徳』を作った」と書いていますが、実際は太甲時代の事で、『史記索隠』も誤りを指摘しています。帝太甲三年に述べます。

 

[七] 『資治通鑑外紀』と『帝王世紀』からです。

成湯が令を発し、命を受けていない士(官位に就いていない士)は、車は朱軒(赤い壁や幕)、飛軨(車軸の飾り、または窓がついた車です。『帝王世紀』は「飛軫」としていますが、恐らく誤りです。『資治通鑑外紀』では「飛軨」です)を使ってはならず、飾車(漆で塗られた車)に乗ってはならず、駢馬(二頭の馬が牽く馬車)を用いてはならず、服は文繍(刺繍)のほどこされたものを着てはならないと決め、命を受けてからその徳に順じることができるようにしました(原文「命然後得以順其徳」。任官されたらこれらの使用を許可して、徳があることを明らかにしました)

 

[八] 『資治通鑑外紀』からです。

成湯は囿(動物を飼う園)を造り、禽獣を集めて宗廟の犠牲に用いました。

また、士卒を選んで射術、御術を習わせ、不測の事態に備えました。

 

[九] 『資治通鑑前篇』と『綱鑑易知録』からです。

この年(成湯十八年)、大旱に襲われました。

 

 

十九年 丙申(前1765年)

[一] 『資治通鑑前篇』『今本竹書紀年』と『綱鑑易知録』からです。

大旱に襲われました。

 

[二] 『今本竹書紀年』からです。

氐・羌が来賓しました。

 

『資治通鑑外紀』によると、この他にも成湯の時代には粛慎、北発、渠捜といった周辺諸国が来朝しました。

 

 

二十年 丁酉(前1764年)

[一] 『資治通鑑前篇』『今本竹書紀年』と『綱鑑易知録』からです。

大旱に襲われました。

『今本竹書紀年』によると、成湯は楽器の演奏や歌舞を禁止しました(禁弦楽舞)

 

[二] 『資治通鑑前篇』『今本竹書紀年』と『綱鑑易知録』からです。

夏桀が亭山で死にました。

 

 

二十一年 戊戌(前1763年)

[一] 『資治通鑑前篇』『今本竹書紀年』と『綱鑑易知録』からです。

大旱に襲われました。

 

[二] 『資治通鑑前篇』『今本竹書紀年』と『綱鑑易知録』からです。

成湯が荘山の金を採掘し、金幣(金貨)を鋳造して民を救済しました。

 

『管子・山権数(第七十五)』によると、旱害が続いたため、民の中には食糧がなくなって子を売る者もいました。そこで湯は荘山の金を使って貨幣を鋳造し、食糧がないために売られた子を買い戻しました。

『資治通鑑外紀』には「湯が荘山の金で貨幣を鋳造して食べる物がない人を救った」と書かれています。

 

 

二十二年 己亥(前1762年)

[一] 『資治通鑑前篇』『今本竹書紀年』と『綱鑑易知録』からです。

大旱に襲われました。

 

 

二十三年 庚子(前1761年)

[一] 『資治通鑑前篇』『今本竹書紀年』と『綱鑑易知録』からです。

大旱が襲われました。

 

 

二十四年 辛丑(前1760年)

[一] 『資治通鑑外紀』『帝王世紀』『今本竹書紀年』と『綱鑑易知録』からです。

大旱が七年も続き、洛水が涸れて他の川も水がなくなり、高熱のため沙が焼かれて石が爛れるほどでした洛坼川竭,煎沙爛石)

 

太史が卜って言いました「人を使って祈祷する必要があります(生贄が必要です)。」

成湯が言いました「私が雨を請うのは民のためだ。もし人を使って祈祷する必要があるのなら、私が自ら当たることを請おう(私が自ら犠牲になろう)。」

成湯は斎戒してから髪と爪を切り、白馬が牽く素車(装飾がない白い車)に乗り、白茅(すすき)を身につけ(身嬰白茅)、自分の身を犠牲にして桑林の社で祈祷しました。

成湯が部下に三足の鼎を持たせ、山川に祈ってこう言いました「予小子・履が敢えて玄牡(黒い牡牛)を用い、皇天后土に告げる。万方(万民。民衆)が罪を犯しても、罪は朕の身にある。朕の身に罪があるのだから、万方には及ぼすな。余一人(天子の自称)の不敏(聡明でないこと)によって、上帝や鬼神に民の命を傷つけさせてはならない。」

その後、六事をもって自責し、こう言いました「政治に節度がないのか(『資治通鑑外紀』では「政不節與」ですが、『帝王世紀』では「欲不節邪(欲に節度がないのか)」です)。民が職を失っているのか(『資治通鑑外紀』では「民失職與」ですが、『帝王世紀』では「使民疾邪(民を苦しめているのか)」です)。宮殿が壮麗すぎるのか(「宮室崇與」または「宮室栄邪」)。女が政治に口出ししているのか(「婦謁盛與」または「女謁行邪」)。賄賂が行われているのか(苞苴行與)。讒言が横行しているのか(「讒夫昌邪」または「讒夫倡與」)。」

最後に成湯は「なぜ雨が降らないことを極めるのだ(なぜ極限に至っているのに雨を降らせないのだ。原文「何不雨之極也」)」と言いました。

すると言い終わる前に数千里に渡って大雨が降りました。

 

『綱鑑易知録』によると、天が雨を降らせて豊作になったため(歳則大熟)、天下が歓洽(歓喜して仲睦まじくなること)しました。そこで、「桑林の楽」を作りました。この曲を『大濩』といいます(翌年再述します)

また、成湯は諸器物に銘文を作って自分を戒めました(作諸器用之銘以為警戒)

 

 

二十五年 壬寅(前1759年)

[一] 『今本竹書紀年』では、本年に湯が『大濩』を作っています(『綱鑑易知録』は前年の事としています)

 

『資治通鑑外紀』によると、成湯は伊尹に命じて音楽を作らせ、『大濩』と名づけました。

 

『呂氏春秋・仲夏紀・古楽(巻第五)』にはこう書かれています。

湯は六州(の諸侯)を率いて桀の罪を討ち、功名を大成させました。こうして黔首(民衆)が安寧になります。そこで湯は伊尹に命じて『大護』の曲と『晨露』の歌を作らせ、『九招』『六列』を修めさせて、その善(美徳)を表しました。

 

『九招』と『六列』は五帝時代に作られた音楽です。『大護』は『大濩』を指すようです。

『綱鑑易知録』は「桑林の音楽を作って『大濩』と命名した(作桑林之楽名曰大濩)」としていますが、『呂氏春秋』の記述を見ると、『大濩』と『桑林』は別の音楽かもしれません。

 

[二] 『今本竹書紀年』からです。

成湯が始めて巡狩し、「献令」を定めました。

 

以下、『逸周書・王会解(第五十九)』から抜粋します。

成湯が伊尹に言いました「諸侯の来献(貢献)では、牛馬を生産しない場所なのに、遠方の物(遠方で得た牛や馬)を献じる者もおり、事と実が相反していて利(便)がない。よって私はその地勢に応じて献上させることにしたい。(貢物は)必ず容易に手に入り、しかも貴重ではない物とする。これを四方の献令(貢物の規則)とせよ。」

伊尹はこの命令を実行し、四方に令を発しました。

この後、東方諸国は魚皮の鞞(さや)・口鰂(いか?)の醤・鮫皮の盾や利剣等、南方諸国は珠璣(真珠)・象牙・文犀(模様のある犀の角)等、西方諸国は丹青・白旄・龍角・神亀等、北方諸国は橐駝・白玉・野馬・良弓等を納めることになります。

『逸周書・王会解』は「四方献令」の詳細を書いていますが省略します。

 

[三] 『綱鑑易知録』からです。

棄を祀って稷にしました。

「稷」は穀物の神です。中華書局『綱鑑易知録』の注釈によると、黄帝が烈山氏(炎帝)の子・柱を稷にし、夏王朝も柱を祀っていました。しかし大旱が続いたため、成湯は周棄(周王朝の始祖)を稷にして祀ることにしました。

 

 

二十七年 甲辰(前1757年)

[一] 『今本竹書紀年』からです。

九鼎を商邑(亳)に遷しました。

九鼎は夏王朝が作った天子の象徴です。この後、天下を有した者が九鼎を得るようになります。

 

『帝王世紀』では、湯が桀を滅ぼしてすぐに九鼎を遷しており、こう書いています「湯は天子の位に即いたので、九鼎を亳に遷した。大坰に至った時、徳が欠けているのではないかと慚愧した(至大坰而有慚徳)。」

 

 

三十年 丁未(前1754年)

[一] 湯が死にました。

 

『資治通鑑前篇』『綱鑑易知録』は成湯の在位年数を三十年としています。

『資治通鑑外紀』は夏桀を滅ぼした年を元年としており、在位十三年で死んでいます。諸侯時代の十七年を合わせたら三十年になります。

『帝王世紀』も「湯は在位十七年で天子の位に即き、天子になって十三年、百歳で崩じた」としているので、合わせて三十年になります。

しかし『今本竹書紀年』は在位年数を二十九年としています。

 

成湯の享年は『帝王世紀』『資治通鑑外紀』『綱鑑易知録』とも百歳です。

 

『資治通鑑外紀』によると、成湯は毫北に埋葬されました。

 

中華書局『綱鑑易知録』の本文と注釈によると、成湯の死後、嫡孫・太甲が位に即きました。

湯は有莘氏を娶って太丁が生まれましたが、太丁が早死したため、太丁の子・太甲が世嫡孫(跡継ぎに当たる孫)となり、伊尹が太甲を奉じて即位させました。

『資治通鑑前編』も成湯の死後、成湯の嫡孫に当たる太甲が即位したとしています。

 

しかし『史記・殷本紀』では、太子・太丁が即位する前に死んだため、太丁の弟・外丙が即位しています。これを帝外丙といいます。その後、帝外丙が即位して三年で死ぬと、外丙の弟・中壬が立ちました。これを帝中壬といいます。帝中壬が在位四年で死んでから、伊尹が太丁の子・太甲を擁立します。

『帝王世紀』と『資治通鑑外紀』によると、湯は有莘氏の娘を娶って正妃とし、太丁および外丙、仲壬(中壬)が生まれました。太丁が太子になりましたが、早世したため、弟の外丙が代わって即位しました。外丙の後はやはり仲壬が即位しており、その後、太甲の時代になります。

『竹書紀年』(古本・今本)も成湯の後、外丙と仲壬を経て太甲が即位しています。

 

[二] 『資治通鑑外紀』からです。

商王朝は舜を禘(遠祖。始祖より前の先祖)に、契を祖(始祖)に、冥を郊(郊祭で天に配される先祖)に、湯を宗(宗祖)にしました。また、上甲微も契の功績を継いだ者として祀られました。

 

『詩経・商頌』に「長発」という詩があります。商の先祖から成湯が夏を滅ぼすまでの業績を称え、成湯を支えた伊尹を称賛する内容です。

 

 

 

次回に続きます。

商王朝4 外丙 仲壬

 

 

 

 

商王朝2 成湯(前)

 

今回は成湯の時代です。二回に分けます。

 

帝履(成湯)

帝履は帝主癸の子です。子姓で、履が名ですが、通常は「湯」「成湯」と呼ばれています。

『史記集解』によると、湯は字、または諡号です。『諡法』には「虐を除いて残(残暴、残虐)を去ることを湯という(除虐去残曰湯)」とあります。

また、『史記・殷本紀』では「武王」を名乗っています。

この「通史」では通称の「成湯」を使います。

 

『今本竹書紀年』と『帝王世紀』によると、帝主癸の妃を扶都といい、白気が月を貫くのを見て感応し、乙の日に成湯を産んだため、「天乙」を字にしました(『今本竹書紀年』では「天乙」、『帝王世紀』では「天一」です。「天一」は「天乙」に通じるようです)。これを「成湯帝」といいます。

また、一名を「帝乙」ともいいます(「帝」は「天」に通じます)

 

成湯は「七名」があったともいわれています。

南北朝時代・南斉元帝・䔥繹によって編纂された『金楼子・興王篇』には「一名『姓生』,二雲『履長』,三雲『瘠肚』,四雲『天成』,五雲『天乙』,六雲『地甲』,七雲『成湯』」と書かれています(「雲」は「云」と同じで「~という」という意味です)

 

『今本竹書紀年』と『帝王世紀』は成湯の容貌をこう書いています。

成湯は顔の下が豊かで上が鋭く、色白(皙)で髭を生やし、倨身(『帝王世紀』では「倨身」、『今本竹書紀年』では「句身」ですが、よくわかりません。「倨句」は「湾曲」を意味するので、ここでは「猫背」の意味かもしれません)で揚声(声が大きいこと、または高いこと)でした。成長すると身長は九尺になり、臂(腕)には四肘がありました(「四肘」は「四つの肘」だと思います。大禹は耳に三つの穴があり、成湯は臂に四肘があったといわれています。どちらも偉人を表す特異な容貌です)

 

以下、夏桀時代の出来事です。

成湯は商丘から亳に遷りました(夏桀三十五年参照)

契から成湯に至るまで、商の人は八回拠点を遷しており、湯が始めて亳に住んで都にしました。

これは先王(帝嚳。契の父)が亳を都にしたことに倣ったためです。

そこで成湯は『帝誥(恐らく帝嚳に遷都を報告する文章)』と『釐沃(肥沃な地を治めることを告げる文章)』を作りました。この二篇は『尚書』に篇名の紹介があるだけで、本文は伝わっていません(『帝誥』は、『尚書』では『帝告』です)

 

成湯は聖徳があり、諸侯に不義な者がいると征討して民を弔ったため、天下が服しました(夏桀三十六年参照)

成湯は「九征」したといわれています。「九回諸侯を征伐した」という意味です(『竹書紀年(古本・今本)』に「湯には七名があり、九征した」とあります)

この他にも「十一征して天下に敵がいなくなった」(『孟子・滕文公下』)、「二十七征して諸侯に徳を施した」(『帝王世紀』。夏桀三十六年参照)ともいわれています。

夏王朝末に葛、有洛、韋、顧、昆吾等の諸侯が征伐されました。

その後、湯が鳴條の野で桀と戦い、桀は南巣の山に放逐されました。

 

以下、『史記・殷本紀』と『尚書・仲虺の誥』からです。

成湯が夏王朝を滅ぼして凱旋し、大坰(『史記・殷本紀』では「泰巻陶」ですが、ここは『帝王世紀』と『尚書・仲虺の誥』に従って「大坰」としました)に至った時、臣下の身でありながら軍事によって夏王・桀を放逐した自分の行為は徳が欠けているのではないかと慙愧しました(『尚書』原文「成湯放桀于南巣,惟有慚徳」。『帝王世紀』は「湯は天子の位に即いたので、九鼎を亳に遷した。大坰に至った時、徳が欠けているのではないかと慚愧した(至大坰而有慚徳)」と書いています。これを「大坰の慚」といいます)

そこで仲虺(『尚書』では「仲虺」ですが、『史記』では「中𤳹」です)が『誥(訓告の文)』を作りました。

夏桀の悪行を述べ、天命が湯に帰したことを説明し、商王朝による政権交代の正統性を明確にして、最後は「礼があれば繁栄し、昏迷暴虐なら覆滅する。謹んで天道を尊崇すれば、永く天命を保つことができる殖有礼,覆昏暴,欽崇天道,永保天命)」と書いています。

これを『仲虺の誥』といいます。『尚書』に全文が収録されていますが、省略します。

 

成湯は夏命(夏王朝の政令)を排除してから、商都・亳に帰還し、『湯誥』を作りました。『湯誥』の詳細は次回書きます。

 

『今本竹書紀年』と『資治通鑑外紀』からです。

湯が南巣に桀を放って帰還してから、遠方の諸侯が通訳を重ねて商に朝見し、その数は千八百国に及びました(諸侯八訳而朝者千八百国)奇肱氏(恐らく最も遠い国です)も車を使って来朝します。

諸侯が大きな会を開き、共に天乙履(成湯)を尊んで天子の位に登るように勧めました。

湯は再拝して諸侯の位に従い(諸侯の席に着き)、「天子とは道のある者だけがそこに居ることができ、(天下を)治めることができるのです」と言って三回辞退しましたが、諸侯の中に即位できる者がいなかったため、湯がついに天子の位に即きました。

 

奇肱氏が使った車は「飛車」といい、『帝王世紀』によると、風に従って遠くまで移動できました(原文「従風遠行」。風を利用して飛ぶように速く進んだのだと思います。あるいは実際に飛行したのかもしれません)

成湯の時代、西風が吹いたことがあり、その風に乗って奇肱国の飛車が豫州(都の亳があります)に至りました。成湯はその車を破壊して民に見せませんでした。

十年後、東風が吹きました。成湯は飛車を復元し、風に乗せて奇肱国に送り還しました。

奇肱国は玉門から更に西に四万里離れていました。

 

成湯が即位した時、様々な瑞祥が現れました。『帝王世紀』はこう書いています。

湯が天下を得た時、神麞(「麞」は鹿の一種です)と白狼が鈎(霊鈎という苻瑞)を口に銜えて殿朝(宮殿、朝廷)に入りました。

または、神が鈎を銜えた白狼を牽いて殷の朝廷に入りました。

そこで湯は東に巡行し(東観)、洛水で璧を沈め、黄魚や黒玉といった瑞祥を得ました。こうして湯はついに天命を受け入れて王を称しました。

 

『今本竹書紀年』にも似たような話があります。

夏王朝が滅亡する前、湯は亳を都とし、徳を修めることができました。

伊摯(伊尹)が湯の命に応じようとした時、船に乗って日月の傍を通りすぎる夢を見ました。

そこで湯は東の洛に至って帝堯の壇を観に行き、璧を洛水に沈めてから退いて立ちました。すると二尾の黄魚が跳ねて踊り、黒鳥がそれに従って壇上に止まり、黒玉になりました。また、黒亀が現れ、共に赤い模様が文字になっていて(原文「(黒鳥)化為黒玉。又有黒亀,并赤文成字」。黒玉と黒亀に赤い模様があったのだと思います)、夏桀が無道なので成湯が代わって立つということが書かれていました。

更に、檮杌の神(「檮杌」は伝説の猛獣です)が邳山に現れました。

ある神は鈎を銜えた白狼を連れて商の朝廷に入りました。

金徳(五徳の一つ。「金」は金属で、金徳は商の徳です)が盛んになり、銀が自然に山から溢れ出ました。

湯が天命を奉じて桀を放逐しようとした時、天に登ってそれ(天)を舐める夢を見ました(夢及天而舐之)

こうして成湯は天下を有すことになりました。

 

 

次回は成湯時代の年代記です。

商王朝3 成湯(後)

 

 

 

三国時代25 魏明帝(四) 街亭の戦い 228年(2)

 

今回は魏明帝太和二年の続きです。

 

[三] 『三国志・魏書三・明帝紀(裴松之注含む)』『三国志・蜀書三・後主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝(裴松之注含む)』および『資治通鑑』からです。

蜀漢の越巂太守・馬謖は才器(才覚、度量)が人を越えており、軍計を論じることを好んだため、諸葛亮に深く器異を加えられていました(重視、重用されていました)

しかし蜀漢昭烈帝(劉備)は臨終の際、諸葛亮にこう言いました「馬謖は言が実を越えているので(言葉で語っている内容に実際の能力が追いついていないので)、大用(重用)するべきではない。君はこれを察するべきだ(馬謖言過其実,不可大用,君其察之)。」

諸葛亮はこの考えに賛同せず(猶謂不然)、馬謖を参軍に任命し、引見して談論するたびに、いつも昼から夜に達しました。

『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「孔明(諸葛亮)の明略(高明な才略)をもってして、このように馬謖を遇したことからも、(馬謖が)軍計を論じるのが得意だったことを見て取るに足りる。孔明が南征した時、馬謖が『攻心の論(敵の心を攻めるという論)』を述べたことを観ると、悠々と坐して弁舌するだけの者が及ぶことではない(馬謖には実際に能力があったはずだ。原文「豈悠悠坐談者所能及哉」)。」

 

諸葛亮が祁山に軍を出した時は、旧将である魏延や呉懿等を用いて先鋒にすることなく、馬謖に諸軍を督(監督)して前に進ませ、街亭で張郃と戦わせました。

 

ところが、馬謖は諸葛亮の節度(指示)に違え、措置・行動が混乱し、川を放棄して山に登り、山下の城を拠点にしませんでした(挙措煩擾,舍水上山,不下拠城)

『三国志・魏書十七・張楽于張徐伝』によると、馬謖は南山の険阻な地形に頼って陣を構えました(依阻南山)

 

張郃は汲道(水を汲むための道)を絶ってから馬謖を撃ち、これを大破しました。馬謖の士卒が離散します。

 

街亭の敗戦によって諸葛亮は進軍するための拠点がなくなってしまったので、西県の千余家を抜いて(遷して)漢中に還りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、西県は、西漢時代は隴西郡に属しましたが、東漢時代は漢陽郡に属しました。

 

諸葛亮は馬謖を逮捕して獄に下し、処刑して衆人に謝罪しました。

諸葛亮自ら祭(追悼の儀式)に臨み、馬謖のために涙を流します。

また、遺孤(孤児)を慰撫して今までと同じように恩遇しました(恩若平生)

 

蒋琬が諸葛亮に言いました「昔、楚が得臣(子玉)を殺したので、(晋)文公が喜色を表しました(原文「昔楚殺得臣,文公喜可知也」。東周襄王二十一年・前632年参照)。天下がまだ定まっていないのに、智計の士を殺戮してしまうのは、惜しい事ではありませんか(豈不惜乎)。」

『資治通鑑』胡三省注は「これを観ると、蒋琬もまた馬謖を重んじていたのである」と書いています。

 

諸葛亮が涙を流して言いました「孫武が天下において勝ちを得ることができたのは、法を用いる態度が明確だったからだ(孫武所以能制勝於天下者,用法明也)。だから揚干が法を乱したら、魏絳がその僕を殺戮した(東周霊王二年・前570年参照)。四海が分裂し、兵交(交戦)が始まったばかりなのに、もしまた法を廃してしまったら、何によって賊を討つというのだ(何用討賊邪)。」

 

馬謖が敗れる前に、裨将軍・巴西の人・王平が馬謖を繰り返し規諫(忠告・諫言)しましたが、馬謖は用いることができませんでした。

馬謖が敗れると、部衆がことごとく星散(四散)しましたが、王平が率いる千人だけは戦鼓を鳴らして自分を守りました。

そのおかげで、張郃は伏兵がいると疑って王平に逼迫しませんでした。

王平はゆっくりと諸営の遺迸(敗残兵)を收合し、将士を率いて帰還しました。

 

諸葛亮は既に馬謖と将軍・李盛を誅殺し、将軍・黄襲等の兵を奪っていました。

無事に帰還した王平は特別に崇顕(尊重)され、抜擢されて参軍を拝命し、五部の兵を統率して漢中の営屯の事も担当することになり(加拝参軍統五部兼当営事)、位が討寇将軍に進んで亭侯に封じられました。

『資治通鑑』胡三省注は「後漢(東漢)の制では、列侯には県侯、郷侯、亭侯があった」と解説しています。

 

諸葛亮が上書して自ら位三等を落とすことを請いました。以下、上書の内容です「臣は弱才によって居るべきではない位に就き(叨竊非據)、自ら旄鉞(軍権を象徴する旗と鉞)をもって三軍を激励しましたが、法規を教えて軍法を明らかにすることができず(不能訓章明法)、事に臨んで懼れたので(「懼」の意味が分かりません)、街亭では違命の闕(馬謖が命に違えるという欠陥、失敗)があり、箕谷では不戒の失(警戒しなかったために招いた過失。趙雲等の敗戦を指します。下述します)があるという状況に至らせてしまいました(至有街亭違命之闕,箕谷不戒之失)。咎(罪)は皆、臣が任を授けるに当たって方法が正しくなかったことにあります(咎皆在臣授任無方)。臣の明は人を知らず(臣には人を知る英明さがなく)、恤事(問題を考慮すること)においても多くが闇く(暗く)、『春秋』(の義)においては帥(将帥)を責めるものであり、臣の職がそれに当たるので、自ら三等を落としてこの咎(罪)を責めることを請います(原文「請自貶三等以督厥咎」。この「督」は罰責の意味です)。」

 

後主(漢主・劉禅)は諸葛亮を右将軍にして、丞相の政務を代行させました(原文「行丞相事」。正式な丞相職を解かれたことになります)。但し、総統(統領・統括)の職務は以前のままです。

 

趙雲と鄧芝の兵も箕谷で敗れました。趙雲が衆兵を集めて居守(留まって守ること)したため、損傷は大きくありませんでしたが、敗戦の罪に坐して位を落とされ、鎮軍将軍になりました(坐貶為鎮軍将軍)

『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「『晋書‧職官志』によると、鎮軍将軍は四征・四鎮将軍の上にある。今、趙雲が鎮東将軍から鎮軍将軍に落とされたのは、蜀漢の制度である。鎮東将軍は一方面を専門に鎮守するが、鎮軍将軍は散号(特定の職責がない将軍号)なので、位を落とされたことになる。」

 

諸葛亮が鄧芝に問いました「街亭の軍が退く時は、兵将を収拾できなかったのに(原文「不復相録」。この「録」は収拾の意味です)、箕谷の軍が退く時は兵将が初めから失われなかった(初不相失)。これはなぜだ(何故)?」

鄧芝が答えました「趙雲が身をもって自ら後を断ったので、軍資什物(器物)で棄てられた物はなく(略無所棄)、兵将も失う理由がなかったのです(兵将無縁相失)。」

 

趙雲の軍にはまだ物資や残った絹がありました。

諸葛亮がそれらを分けて将士に下賜しようとしましたが、趙雲はこう言いました「軍事に利がなかったのに、なぜ賞賜があるのでしょう(何為有賜)。これらの物は全て赤岸庫に入れ、十月になるのを待って冬賜(冬の賞賜)とすることを請います。」

諸葛亮は大いに善としました(称賛・賛同しました)

『資治通鑑』胡三省注によると、「赤岸」は「赤崖」ともいい、蜀はここに倉庫を置いて軍資を蓄えていました。

 

ある人が諸葛亮に改めて兵を徴発するように勧めましたが、諸葛亮はこう言いました「大軍が祁山・箕谷にいた時、どちらも賊(魏軍)より多かったのに、賊を破ることができず、(逆に)賊に破られることになったのは、すなわち、問題が兵の少ないことにあったのではなく、一人にあったのだ(兵の多寡が問題ではなく、将軍の能力が問題だったのだ。原文「此病不在兵少也,在一人耳」)。今は兵を減らして将を省き、罪を明らかにして過ちを反省し、将来における変通の道を考察しようと欲している(欲減兵省将,明罰思過,校変通之道於将来)。もしこのようにできなかったら、たとえ兵が多くても、何の益があるだろう(雖兵多何益)。今から後は、国に対して忠慮(忠誠に基く思慮、計策)を抱いている全ての者が、ただ勤めて私の欠点を攻めさえすれば、大事を定ることができ、賊を倒すことができ、蹻足して功績を待つことができるだろう(原文「諸有忠慮於国者,但勤攻吾之闕,則事可定,賊可死,功可蹻足而待矣」。「蹻足」は脚を挙げることで、短い時間の比喩です。「すぐに功績を立てることができる」という意味です)。」

 

この後、諸葛亮はわずかな功労も考察して壮烈の士を査定しました(考微労,甄壮烈)

また、咎があったら自分のものとしてその身を譴責し、過失を境内に布告します(引咎責躬布所失於境内)

更に兵を鍛えて武を習わせ、将来の準備をしました(厲兵講武以為後図)

こうして戎士(戦士)が精練され、民は街亭の敗戦を忘れるようになります。

 

諸葛亮が祁山に出た時、魏の天水参軍・姜維が諸葛亮を訪ねて降りました。諸葛亮は姜維の膽智を称賛します。

そこで姜維を招聘して倉曹掾に任命し、軍事を担当させました

『資治通鑑』胡三省注によると、丞相の官属に倉曹掾がおり、倉穀の事を主管しました。

 

『三国志・蜀書十四・蒋琬費禕姜維伝』裴松之注にはこう書かれています。

姜維が諸葛亮を訪ねた時、母と別れてしまいました。後に母の書を得て帰るように求められます(母が姜維に帰るように要求しました)

しかし姜維はこう言いました「良田が百頃もあったら一畝にこだわることはない。遠志がありさえすれば、帰るかどうかにこだわる必要はない(良田百頃不在一畝,但有遠志不在当帰也)。」

 

『資治通鑑』はこの記述を採用していません。胡三省は「姜維が学術(教化。儒学の教え)を大まかにでも理解していたことを考えると、恐らくこのようにすることはない(遠志のために母を棄てるのは姜維らしくないという意味だと思います。原文「按維粗知学術恐不至此」)」と書いています。

 

また、『三国志・諸葛亮伝』裴松之注はこのような記述も紹介しています。

諸葛亮が祁山に出ると、隴西、南安の二郡がすぐに降りました。(諸葛亮は)天水を包囲し、冀城を攻略し、姜維を虜にし、士女数千人を奪い、それを駆り立てて蜀に還りました。

人々が皆、諸葛亮を祝賀しましたが、諸葛亮の顔色は愀然(厳粛で楽しめない様子)として戚容(悲傷、憂傷の面持ち)があり、謝してこう言いました「普天の下において、漢民でない者はいない(天下の民は全て漢の民である。原文「普天之下,莫非漢民」)。しかし国家の威力がまだ挙がらず、百姓を豺狼の吻に困窮させている(原文「困於豺狼之吻」。「豺狼」は山犬や狼、「吻」は口です。「豺狼の吻に困窮する」というのは、豺狼の餌食となって苦しんでいる、という意味で、魏の統治下に居る民の状況を表します)。一夫が死んだとしても、全て亮(私)の罪だ。今回のことによって祝賀されたら、どうして慚愧せずにいられるだろう。」

この後、蜀人は皆、諸葛亮には魏を呑みこむ志があり、ただ国土を広げようと思っているわけではないと知りました。

裴松之はこの記述を引用した後、こう反論しています「諸葛亮は魏を呑みこもうとする志を抱いて久しく、始めてここで衆人が知ったのではない。また、この時は師を出して成功せず、傷缺(負傷)して還った者が多数おり、三郡も帰降したが保有できなかった。姜維は天水の匹夫に過ぎないので、これを獲ても魏に何の損失があっただろう。西県の千家を奪っても、街亭で喪ったものを補うことはできない。何を功とみなして、蜀人が祝賀したというのだ。」

 

本文に戻ります。

諸葛亮が走ったので、曹真が安定等の三郡を討って全て平定しました。

曹真は「諸葛亮は祁山の失敗で懲りたので、今後は必ず陳倉から出ようとするはずだ」と考え、将軍・郝昭等に陳倉を守らせて城を修築するように命じました。

 

以下、『三国志・明帝紀』裴松之注からです。

魏明帝が天下に露布(宣布)し、益州に班告(布告)してこう言いました「劉備は恩に背いて自ら巴蜀に逃亡した(自竄巴蜀)。諸葛亮は父母の国を棄てて残賊の党に阿り(おもねり)、神も人もその毒を被ったが、悪を積み重ねて身を滅ぼした。諸葛亮は、外(外見)は立孤の名(父を喪った劉禅を輔佐するという名義)を慕って(思って)いるが、内は専擅の実を貪っており、劉升之兄弟は空城を守っているだけに過ぎない(「劉升之」は劉禅を指します。劉禅の字は「公嗣」ですが、『三国志集解』は「升之」を「別の字ではないだろうか」と書いています。この一文は、「諸葛亮が専権しているので、劉禅兄弟には実権がなく、中身のない城を守っているだけだ」という意味です)。諸葛亮はまた、益土(益州)を侮易(軽視、侮蔑)し、その民を虐用した。そのため、利狼、宕渠、高定、青羌で瓦解しないものはなく、諸葛亮の仇敵となった。しかも諸葛亮は裘(毛皮の服)を裏返しに着て薪を背負い、裏返しにした裘の毛が尽きるまで着続け(原文「反裘負薪,裏尽毛殫」。毛皮がもったいないので裏返しに着て薪を背負うという意味です。貧困な様子を形容していますが、物事の本末を知らない愚昧な者を風刺する意味もあります)、足を切って履物の大きさに合わせ、肌を刻んで骨を傷つけているのに(原文「刖趾適屨,刻肌傷骨」。靴が合わない時、大きな靴を買わずに足を削って合わせる、という意味で、愚昧な者を風刺しています)、逆に自分を称賛して有能だと思い(反更称説自以為能)、井戸の底で行軍して、牛蹄(牛の蹄、または牛の足跡)の上で遊歩している(原文「行兵於井底,游歩於牛蹄」。狭い世界で動き回っているという意味です)

朕が即位してからは三辺に事(戦事)がなかったが、それでも天下がしばしば兵革(戦争)に遭ったことを哀憐し、そのうえ、四海の耆老(老人)を養って後生の孤幼を育てようと欲したので、先に礼楽において移風(教化。風俗を変えること)し、次に農隙において講武した(農閑期に武を講習した)。諸葛亮は画(計画)の外に置いており、虞(おそれ)にはなっていない。ところが諸葛亮は李熊のような愚勇な志を抱き(李熊は公孫述の部下で、公孫述に即位を勧めました。玄漢劉玄更始三年・東漢光武帝建武元年・25年参照)、荊邯のような度徳の戒(自分の徳行を量るという戒め)を思わず(荊邯も公孫述の部下で、積極的に光武帝と戦うように勧めました。東漢光武帝建武六年・30年参照。明帝がここで荊邯を引用しているのは相応しくないようです。『三国志集解』も「与此不合」と書いています)、吏民を駆略して(駆逐して奪い)、祁山で利を盗んだ。(しかし)王師(魏軍)がまさに振うと、胆をつぶして気が奪われ(膽破気奪)、馬謖と高祥が(魏の)旗を望んで奔敗(逃走・敗北)した。(魏の)虎臣が敗北した敵を逐い、屍を踏んで血を渡ると、諸葛亮も小子に過ぎないので、朕の師(軍)に震驚(震撼驚愕)した(虎臣逐北蹈尸渉血,亮也小子震驚朕師)。猛鋭(な我が軍)は踊躍し、皆が長駆したいと思ったが、朕が考えるに、天下において王の臣ではない者はおらず(率土莫非王臣)、師(軍)がいる所には荊棘が生えてしまうので(行軍・駐留したらその地が荒れ果ててしまうので)、千室の邑(千戸の村)の忠信貞良(な人々)に、あの淫昏の党(極めて暗愚な者達)と一緒に塗炭(苦難)を受けさせることは欲しなかった(魏に帰順する人々が、諸葛亮に与する暗愚な者達と共に苦難を受けることは願わなかったので、軍を深入りさせなかった)

よって先に開示し、国誠(国の誠意)を明らかにする。勉めて変化を思い(考えを変え)、乱邦(混乱した地域)に留まってはならない(勉思変化,無滞乱邦)。巴蜀の将吏・士民で、諸葛亮に劫迫(脅迫)された者は全て、公卿以下、皆、束手(投降)を許可する(巴蜀将吏士民諸為亮所劫迫,公卿已下皆聴束手)。」

 

 

次回に続きます。

三国時代26 魏明帝(五) 石亭の戦い 228年(3)

 

 

 

三国時代24 魏明帝(三) 孟達の失敗 228年(1)

 

今回は魏明帝太和二年です。四回に分けます。

 

魏明帝太和二年 蜀漢後主建興六年 呉王黄武七年

戊申 228年

 

[一] 『三国志・魏書三・明帝紀』『晋書・巻一・高祖宣帝紀』と『資治通鑑』からです。

春正月、魏の司馬懿が新城を攻めました。

上庸城は三面が水(川)で阻まれており、孟達は城外に木柵を作って守りを固めていました(孟達が魏に帰順した時、魏は房陵、上庸、西城の三郡を合併して新城とし、孟達を新城太守にしました。孟達は上庸を拠点にしていました)

 

司馬懿は水(川)を渡って柵を破壊し、直接、城下に到りました。八道(八方向)から城を攻撃して十六日経つと、孟達の甥・鄧賢、将・李輔等が門を開いて投降します。

司馬懿は新城を攻略して孟達を斬り、その首を京師に送りました。

 

『三国志・明帝紀』裴松之注はこう書いています「宣王(司馬懿)が孟達の将・李輔および孟達の甥・鄧賢を誘った。鄧賢等は門を開いて軍を中に入れた。孟達は包囲されて十六日で敗れ、その首は洛陽の四達の衢(四方に繋がる大通り)で焚かれた(焼かれた)。」

本文に戻ります。

司馬懿は一万余人を俘獲(捕獲)し、振旅して(兵を整えて)宛に還りました。

司馬懿が農桑を奨励して浮費(浪費)を禁じたので、南土(南方。新城郡)が悦んで帰附しました。

 

申儀は久しく魏興におり、疆埸(辺境)で威を専らにし(専横し)、勝手に承制(皇帝に代わって命令を出すこと)によって官員の印を作り、多数の者を不正に任命していました(擅承制刻印,多所假授)

孟達が誅殺されると、申儀も疑心を抱くようになります。

当時、司馬懿が克捷(戦勝)したばかりだったため、諸郡守は司馬懿に礼物を献上し、祝賀のため謁見する機会を求めました(奉礼求賀)

司馬懿はこれに同意し、人を送って申儀にも祝賀するように促しました。

申儀が到着すると、司馬懿は承制の状況を問責し、捕えて京師に帰らせました。

 

司馬懿はまた孟達の余衆七千余家を幽州に遷しました。

蜀将・姚静、鄭他等がその属(部衆)七千余人を率いて投降しました。

 

当時、辺境の郡が新たに帰属しましたが、多くの者に戸名(戸籍の登録)がありませんでした。

魏朝は隠実(審査)を加えたいと欲したため(実際の戸籍の状況を確かめたいと思ったので)、司馬懿に命じて京師に入朝させました。

明帝が司馬懿に意見を求めると、司馬懿はこう答えました「賊(蜀漢)は密網によって下を束ねたので(厳しい法によって民を治めたので)、下の者がこれを棄てたのです。大綱(寛大な法)を弘めるべきです(または「大綱によって寛大にするべきです」。原文「宜弘以大綱」)。そうすれば自然に安楽になります(民が安んじて楽しむようになるので、人口も増えます)。」

明帝はまた、「二虜を討つべきだが、どちらを先にするべきだ(二虜宜討,何者為先)」と問いました。

司馬懿が答えました「呉は中国(中原。魏)が水戦に習熟していないと思っているので、敢えて東関で散居(分散)しています。およそ敵を攻める時というのは、その喉元をつかんで心臓を刺すものです(必扼其喉而樁其心)。夏口と東関は賊の心喉です。もし陸軍を発して皖城に向かわせ、孫権をおびき出して東下させ(引権東下)、水戦の軍を発して夏口に向かわせ、その虚に乗じてこれを撃てば、これは神兵が天から降って来るようなものであり、敵を破るのは必定です(此神兵従天而墮,破之必矣)。」

明帝はどちらの意見にも納得し、司馬懿に命じて再び宛に駐屯させました。

 

魏は新城郡から上庸、武陵、巫県を分けて上庸郡とし、錫県を分けて錫郡にしました。

 

[二] 『三国志・魏書三・明帝紀(裴松之注含む)』『三国志・蜀書三・後主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝(裴松之注含む)』および『資治通鑑』からです。

以前、魏の征西将軍・夏侯淵の子・夏侯楙が太祖(曹操)の娘・清河公主を娶りました。

『資治通鑑』胡三省注によると、清河公主は本来、曹操が丁儀に娶らせようとしましたが、文帝が諫めたため、夏侯楙の妻になりました。

 

(『三国志・魏書九・諸夏侯曹伝』によると、この「帝」は文帝です)は若い頃から夏侯楙と親善な関係にあり、即位すると夏侯楙を安西将軍に任命しました。関中を都督して長安を鎮守させ、夏侯淵が守っていた地域を継がせます。

 

蜀漢の諸葛亮(『三国志・明帝紀』は「蜀の大将・諸葛亮」と書いています)が入寇しようとした時(魏を攻めようとした時)、群下とこの事について謀りました。

丞相司馬・魏延(『資治通鑑』胡三省注によると、漢の丞相には長史がいましたが、司馬はいませんでした。しかし当時は諸葛亮が丞相として兵を用いていたので、司馬を置きました)が言いました「聞くところによると、夏侯楙は主(魏帝)の壻でありながら、臆病なうえ謀がありません(聞夏侯楙,主壻也,怯而無謀)。今、延(私)に精兵五千を授けていただければ、五千人分の食料を背負い、直接、褒中から出て、秦嶺を巡って東に向かい、子午に至って北に向かい、十日も経たずに長安に到着できます(原文「今、假延精兵五千,負糧五千,直從褒中出,循秦嶺而東,当子午而北,不過十日,可到長安」。『資治通鑑』胡三省注によると、褒中県は漢中郡に属します。子午道は王莽が開通しました(西漢平帝元始五年・5年参照)。東漢安帝延光四年(125年)、安帝の死後、順帝が子午道を廃して褒斜路を開通しました)。延(私)が突然至ったと夏侯楙が聞いたら、必ず城を棄てて逃走します。長安の中には御史と京兆太守がいるだけです(『資治通鑑』胡三省注によると、当時、魏は督軍御史と京兆太守を派遣して共に長安を守らせていました。魏文帝が禅譲を受けてから、漢の京兆尹を太守に変えました)。横門邸閣と散民の穀(食糧)があれば(『資治通鑑』胡三省注によると、魏は横門(恐らく地名)に邸閣を設けて食糧を蓄えていました。「散民」は蜀漢の兵が来たと聞いて離散した民です)、食糧をやりくりするに足ります(足周食也)(敵が)東方で合聚(集結)するまで、尚二十許日(二十余日)が必要であり、公が斜谷から来れば、(長安に)達するにも充分です。このようにすれば、一挙して咸陽以西を定めることができます。」

 

諸葛亮はこれを危計(危険な計)とみなしました。平坦な道を進む安全な計を採るべきであり、そうすれば平穏に隴右を取ることができるので、万全必勝で危惧することもない(十全必克而無虞)と考え、魏延の計を却下します。

 

『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「今から観ると、皆、諸葛亮が魏延の計を用いなかったことを怯(臆病)とみなしている。しかし、兵を動かす時とは、敵の主を知り、敵の将を知るものである。諸葛亮が魏延の計を用いなかったのは、魏主の明略を知り、しかも司馬懿の輩(類)を軽視できなかったからである。諸葛亮は平穏に隴右を取ろうとしたが、それすら志を獲られなかった(且不獲如志)。どうして僥倖(幸運)に乗じて咸陽以西を全て定めようと欲するだろう。」

 

諸葛亮は斜谷道から進んで郿を取ると揚声(宣言)しました。

鎮東将軍・趙雲、揚武将軍・鄧芝を疑兵(「疑兵」は『資治通鑑』の記述です。『三国志・諸葛亮伝』では「疑軍」です)とし、箕谷を占拠させます。

『資治通鑑』胡三省注によると、郿の故城は陳倉県東北十五里の地にありました。

箕谷は鄭子真(西漢時代の隠者)が住んだ場所で、陳倉の南、漢中の北に位置します。

 

魏明帝は曹真を派遣し、関右諸軍を都督して郿に駐軍させました。

これは『資治通鑑』の記述です。『三国志・明帝紀』は「大将軍・曹真を派遣して関右を都督させ(都督関右)、そろって兵を進めさせた(並進兵)」と書いています。「兵を進めた」というのは、「郿に駐軍した」ことを指すようです。

『三国志・諸葛亮伝』の記述は「魏の大将軍・曹真が衆を挙げてこれ(蜀漢軍)を拒んだ」です。

 

諸葛亮は自ら大軍を率いて祁山を攻めました。軍陣が整然としており、賞罰が厳粛で号令も明確です。

 

魏は蜀の人材は劉備しかいないと思っており、その劉備が既に死に、数年間、動きがなく静かだったため(数歳寂然無聞)、防備が全くありませんでした(略無備豫)

今回、突然、諸葛亮の出兵を聞いて、朝野(朝廷と民間)が恐懼しました。隴右と祁山が最も甚だしく、天水、南安、安定三郡の吏民が全て魏に叛して同時に諸葛亮に応じます。

『資治通鑑』胡三省注によると、魏が隴右を分けて秦州を置きました。天水と南安の地はここに属します。但し、南安郡は東漢霊帝時代に漢陽の䝠道を分けて置かれましたが、天水郡は晋代になって漢陽郡が天水に改められるので、史書がここで「天水」と書いているのは、後の地名を使っているようです(史追書也)。安定郡は雍州に属します。

 

諸葛亮の進撃によって関中が響震(震撼)し、朝臣には為す術がありませんでした(未知計所出)

しかし明帝はこう言いました「諸葛亮は山に頼って守りを固めていたのに(阻山為固)、今回、自ら出て来た。正に兵書による『致人の術(敵を誘う術)』と合致しており(『資治通鑑』胡三省注によると、『兵法』に「戦を善くする者は人を誘い出す(善戦者致人)」とあります。明帝はこの言葉によって朝野の心を安定させようとしました)、しかも諸葛亮は三郡を貪って、進むことは知っていても退くことは知らない。今、この時に乗じれば、諸葛亮を破るのは必定である(今因此時,破亮必也)。」

 

こうして明帝は兵馬を整え、歩騎五万を準備し、右将軍・張郃を送ってこれを督(監督)させ、西に向かって諸葛亮を拒ませました。

 

丁未(中華書局『白話資治通鑑』は「丁未」を恐らく誤りとしています。筑摩書房『三国志(訳本)』では「二月十七日」です)、魏明帝も行幸して西に向かい長安に入って鎮守しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、明帝は自ら軍を率いて張郃の後に続き、声勢を張りました(後援として気勢を挙げました)

 

 

次回に続きます。

三国時代25 魏明帝(四) 街亭の戦い 228年(2)

 

 

曹植の誄

 

魏文帝黄初七年(226年)、文帝が死に、鄄城侯・曹植が誄(死者の功績を述べて追悼する文章)を作りました。

三国時代21 魏文帝(二十一) 士徽討伐 226年(2)

 

ここで原文を紹介します(翻訳はしません)

 

惟黄初七年五月七日(恐らく「十七日」の誤りです),大行皇帝崩,嗚呼哀哉。

于時天震地駭,崩山隕霜,陽精薄景,五緯錯行,百姓呼嗟,万国悲傷,若喪考妣,思慕過唐,擗踊郊野,仰想穹蒼,僉曰何辜,早世殞喪,嗚呼哀哉。

悲夫大行,忽焉光滅,永棄万国,雲往雨絶。承問荒忽,惛懵哽咽,袖鋒抽刃,歎自僵斃,追慕三良,甘心同穴。感惟南風,惟以鬱滞滯,終於偕没,指景自誓。考諸先記,尋之哲言,生若浮寄,唯徳可論,朝聞夕逝,孔志所存。皇雖一没,天禄永延,何以述徳。表之素旃。何以詠功。宣之管絃。

乃作誄曰:

皓皓太素,両儀始分,中和産物,肇有人倫,爰暨三皇,実秉道真,降逮五帝,継以懿純,三代制作,踵武立勳。季嗣不維,網漏于秦,崩楽滅学,儒坑礼焚,二世而殲,漢氏乃因,弗求古訓,嬴政是遵,王綱帝典,闃爾無聞。末光幽昧,道究運遷,乾坤迴暦,簡聖授賢,乃眷大行,属以黎元。龍飛啓祚,合契上玄,五行定紀,改号革年,明明赫赫,受命于天。仁風偃物,徳以礼宣,祥惟聖質,嶷在幼妍。庶幾六典,学不過庭,潜心無罔,抗志青冥。才秀藻朗,如玉之瑩,聴察無嚮,瞻睹未形。其剛如金,其貞如瓊,如冰之潔,如砥之平。爵公無私,戮違無軽,心鏡万機,攬照下情。思良股肱,嘉昔伊呂,搜揚側陋,挙湯代禹。抜才巖穴,取士蓬戸,唯徳是縈,弗拘禰祖。宅土之表,道義是図,弗營厥険,六合是虞。齊契共遵,下以純民,恢拓規矩,克紹前人。科條品制,褒貶以因。乗殷之輅,行夏之辰。金根黄屋,翠葆龍鱗,紼冕崇麗,衡紞維新,尊粛礼容,矚之若神。方牧妙挙,欽於恤民,虎将荷節,鎮彼四鄰。朱旗所剿,九壤被震,疇克不若。孰敢不臣。縣旌海表,万里無塵。虜備凶徹,鳥殪江岷,権若涸魚,乾腊矯鱗,粛慎納貢,越裳效珍,條支絶域,侍子内賓。徳儕先皇,功侔太古。上霊降瑞,黄初叔祜。河龍洛亀,淩波游下。平鈞応繩,神鸞翔舞。数莢階除,系風扇暑。皓獣素禽,飛走郊野。神鍾宝鼎,形自旧土。雲英甘露,瀸塗被宇。霊芝冒沼,朱華蔭渚。回回凱風,祁祁甘雨,稼穡豊登,我稷我黍。家佩恵君,戸蒙慈父。図致太和,洽徳全義。将登介山,先皇作儷。鐫石紀勳,兼録衆瑞,方隆封禅,帰功天地,賓礼百霊,勳命視規,望祭四嶽,燎封奉柴,粛于南郊,宗祀上帝。三牲既供,夏禘秋嘗,元侯佐祭,献璧奉璋。鸞輿幽藹,龍旂太常,爰迄太廟,鍾鼓鍠鍠,頌徳詠功,八佾鏘鏘。皇祖既饗,烈考来享,神具酔止,降茲福祥。天地震蕩,大行康之。三辰暗昧,大行光之。皇紘絶維,大行綱之。神器莫統,大行当之。礼楽廃弛,大行張之。仁義陸沈,大行揚之。潜龍隠鳳,大行翔之。疏狄遐康,大行匡之。在位七載,元功仍挙,将永太和,絶跡三五,宜作物師,長為神主,寿終金石,等算東父,如何奄忽,摧身后土,俾我●●(●は同じ文字で、「煢」の「冖」がない字です),靡瞻靡顧。嗟嗟皇穹,胡寧忍務。嗚呼哀哉。明監吉凶,礼遠存亡,深垂典制,申之嗣皇。聖上虔奉,是順是将,乃剏玄宇,基為首陽,擬跡穀林,追堯慕唐,合山同陵,不樹不疆,塗車芻霊,珠玉靡藏。百神警侍,来賓幽堂,耕禽田獣,望魂之翔。於是,俟大隧之致功兮,練元辰之淑禎,潜華礼於梓宮兮,馮正殿以居霊。顧望嗣之号咷兮,存臨者之悲声,悼晏駕之既脩兮,感容車之速征。浮飛魂於軽霄兮,就黄墟以滅形,背三光之昭晰兮,帰玄宅之冥冥。嗟一往之不反兮,痛閟闥之長扃。咨遠臣之眇眇兮,感凶諱以怛驚,心孤絶而靡告兮,紛流涕而交頸。思恩榮以横奔兮,閡闕塞之嶢崢,顧衰絰以軽挙兮,迫関防之我嬰。欲高飛而遥憩兮,憚天網之遠経,遥投骨於山足兮,報恩養於下庭。慨拊心而自悼兮,懼施重而命軽,嗟微駆之是效兮,甘九死而忘生,幾司命之役籍兮,先黄髪而隕零,天蓋高而察卑兮,冀神明之我聴。独鬱伊而莫愬兮,追顧景而憐形,奏斯文以写思兮,結翰墨以敷誠。嗚呼哀哉。

 

 

 

出師の表

 

魏明帝太和元年・蜀漢後主建興五年(227年)、蜀漢の丞相・諸葛亮が『出師の表』を書きました。

三国時代22 魏明帝(一) 諸葛亮の北伐 227年(1)

 

以下、『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』『資治通鑑』の本文と注釈から紹介します(訳文の下に原文も併記します)

 

先帝(劉備)は創業がまだ半ばであるのに、中道(途中)で崩殂(崩御)しました。今は天下が三分しており、益州(蜀)(最も)疲弊しているので、誠に危急存亡の秋(時)です。しかし侍衛の臣が内で怠惰になることなく、忠志の士が外で身(命)を忘れているのは、まさしく先帝の殊遇(特別な恩遇)を追念し、陛下に対して報いたいと欲しているからです。誠に聖聴を開張することで(陛下が広く意見を聴くことで)、先帝の遺徳を光り輝かせ、志士の気を恢弘(発揚)させるべきであり、妄りに自らを軽視し、道理に合わないことを語り、そのようにすることで忠諫の路を塞いではなりません。

宮中・府中(官府。『資治通鑑』胡三省注によると、丞相府を指します)は共に一体となり、善悪に対する賞罰は(原文「陟罰臧否」。「陟」は鼓舞奨励すること、「罰」は刑罰、「臧否」は善悪です)、異同があってはなりません(賞罰は公平でなければなりません)。もし姦悪を為して科(法令)を犯したり、忠善を為した者がいたら、有司(官員)に送ってその刑賞を論じ、そうすることで陛下の平明の理(公平厳明の道理、原則)を明らかにするべきです。私情にかたよって内外で法を異ならせてはなりません。

侍中、侍郎の郭攸之、費禕、董允等は(『資治通鑑』胡三省注によると、当時、郭攸之と費禕は侍中、董允は黄門侍郎でした)、皆、良実で、志慮(思考、思想)が忠純なので、先帝が簡抜(選抜)して陛下に残しました。(臣の)愚見によるなら、宮中の事は大小に関係なく、悉く彼等に諮問し、その後、施行すれば、必ず漏れや欠陥を補うことができて、益を広くするところとなります。将軍・向寵は性格品行が淑均(善良公正)で、軍事に曉暢(精通)しており、昔日において試用され、先帝が称えて有能だと言いました。だから衆議によって向寵を挙げて督にしたのです。(臣の)愚見によるなら、営中の事は悉く彼に諮問すれば、必ず行陳(行陣。軍中)を和睦させることができ、優劣が所を得られます(将兵の能力に則って相応しい配置ができます)。賢臣と親しくして小人を遠ざける、これが先漢(西漢)の興隆した理由です。小人と親しくして賢臣を遠ざける、これが後漢(東漢)の傾頽した理由です。先帝が存命だった時、臣とこの事を論じる度に、桓・霊に対して嘆息痛恨しないことはありませんでした。侍中・尚書・長史・参軍(中華書局『白話資治通鑑』によると、侍中は郭攸之と費禕、尚書は陳震、長史は張裔、参軍は蒋琬です)、彼等は全て貞良死節の臣なので、陛下が彼等と親しみ、彼等を信じることを願います。そうすれば、漢室の興隆は日を数えて待つことができます(漢室の復興は目前の事となります)

臣は本来、布衣(庶民)であり、自ら南陽で(田を)耕して、とりあえず乱世においても性命を全うしており、諸侯において名が知られることは求めていませんでした。しかし先帝は臣の卑鄙(身分が低くて見識が少ないこと)を意とせず、自らの身を低くして(原文「猥自枉屈」。「猥自」も「枉屈」も自分の身分を低くして相手を尊重するという意味です)、草廬の中で臣を三顧(三回訪問)し、臣に当世の事を訊ねたので、(臣は)これによって感激し、ついに先帝のために駆馳(尽力奔走)することに同意したのです。後に傾覆(顛覆。軍事上の挫折)に遇うと、敗軍の際に任を受け、危難の間に命を奉じました(『三国志・諸葛亮伝』裴松之注は、東漢献帝建安十三年・208年に荊州で曹操に破れた時のこととしており、『資治通鑑』胡三省注は、夷陵の戦いの翌年(魏文帝黄初四年・蜀漢昭烈帝章武三年・223年)に後事を託されたことを指すとしています)。あの時から二十一年になります(諸葛亮が劉備と出会った献帝建安十二年・207年から足掛け二十一年になります)。先帝は臣の謹慎(謹直慎重)を知っていたので、崩御に臨んで臣に大事を託しました。命を受けて以来、朝から夜まで憂嘆しており、託付(託された重任)に対して成果が無く、そのために先帝の明(人を知る明)を傷つけることになるのではないかと恐れています。だから五月に瀘水を渡り、不毛の地に深入りしたのです。今、南方は既に定まり、兵甲(軍備)が既に足りているので、三軍を奨率(奨励・統率)して北の中原を定めるべきであり、駑鈍(凡庸な才)を尽くして姦凶を攘除(廃除)し、漢室を興復して旧都に還ることを望みます。これは臣が先帝に報いることであり、陛下に忠を尽くす職分(職責、本分)でもあります。

事務の損益を考慮して忠言を進め尽くすことに至っては、郭攸之、費禕、董允の任です。陛下が臣に討賊興復の效(重任。成果を挙げること)を託すように願います。もしも效(成果)がなかったら、臣の罪を治めて(裁いて)、そうすることで先帝の霊に告げてください。もしも興徳の言(徳を興す進言)がなかったら、郭攸之、費禕、董允等の慢(怠慢)を譴責し、そうすることで咎(罪過)を明らかにしてください。陛下も自ら謀り、善道を訊ね求め、雅言(正言)を考察して取り入れることで、深く先帝の遺詔を追うべきです(先帝の遺詔を追念してそれに則るべきです)。臣は恩を受けた感激に堪えることができず、今、遠く離れることになりました。上表に臨んで涙を流し、何を言うべきかもわかりません。

 

 

原文
先帝創業未半而中道崩殂,今天下三分益州疲弊,此誠危急存亡之秋也。然侍衛之臣不懈於内,忠志之士忘身於外者,蓋追先帝之殊遇欲報之於陛下也。誠宜開張聖聴以光先帝遺徳,恢弘志士之気,不宜妄自菲薄引喩失義以塞忠諫之路也。宮中府中俱為一体,陟罰臧否不宜異同。若有作姦犯科及為忠善者宜付有司論其刑賞以昭陛下平明之理,不宜偏私使内外異法也。侍中・侍郎郭攸之、費禕、董允等,此皆良実志慮忠純,是以先帝簡抜以遺陛下。愚以為宮中之事,事無大小悉以咨之,然後施行,必能裨補闕漏有所広益。将軍向寵性行淑均曉暢軍事,試用於昔日先帝称之曰能,是以衆議挙寵為督。愚以為営中之事悉以咨之,必能使行陳和睦,優劣得所。親賢臣遠小人,此先漢所以興隆也。親小人遠賢臣,此後漢所以傾頽也。先帝在時每與臣論此事未嘗不歎息痛恨於桓霊也。侍中・尚書・長史・参軍,此悉貞良死節之臣,願陛下親之信之則漢室之隆可計日而待也。
臣本布衣躬耕於南陽苟全性命於乱世不求聞達於諸侯。先帝不以臣卑鄙猥自枉屈三顧臣於草廬之中諮臣以当世之事,由是感激遂許先帝以駆馳。後値傾覆,受任於敗軍之際,奉命於危難之閒,爾來二十有一年矣。先帝知臣謹慎,故臨崩寄臣以大事也。受命以来夙夜憂歎,恐託付不效以傷先帝之明,故五月渡瀘深入不毛。今南方已定兵甲已足,当奨率三軍北定中原,庶竭駑鈍攘除姦凶興復漢室還于旧都。此臣所以報先帝而忠陛下之職分也。
至於斟酌損益進盡忠言則攸之、禕、允之任也。願陛下託臣以討賊興復之效。不效則治臣之罪以告先帝之霊。若無興徳之言則責攸之、禕、允等之慢以彰其咎。陛下亦宜自謀以諮諏善道,察納雅言,深追先帝遺詔。臣不勝受恩感激,今當遠離臨表涕零不知所言。

 

 

 

蜀漢後主の詔

 

魏明帝太和元年・蜀漢後主建興五年(227年)、諸葛亮が北伐を開始しました。

三国時代22 魏明帝(一) 諸葛亮の北伐 227年(1)

 

『三国志・蜀書三・後主伝』が、諸葛亮の出征前に後主が発した三月の詔を載せています。ここで紹介します。

 

朕が聞くに、天地の道とは、仁に福を与えて淫に禍を与えるという。善を積んだ者が栄えて悪を積んだ者が滅ぶのは(善積者昌,悪積者喪)、古今の常数(常理)である。だから湯・武(商王成湯と西周武王)は徳を修めて王になり、桀・紂は暴を極めて滅亡した。以前、漢祚(漢の国統)が途中で衰微すると、(法規の)網が凶慝(凶悪な者)を漏らし、董卓が難を為して京畿を震蕩(震撼)させた。曹操は禍を利用し、天衡(天子の威権)を盗んで掌握し(曹操階禍竊執天衡)、海内を残剝(破壊、搾取)し、無君の心(君主を無視する心)を抱いた。子の曹丕は孤豎(孤児、小僧)でありながら、敢えて乱階(禍根)に沿い、神器を盗みとり、姓を換えて物を改め(劉氏を滅ぼして制度を改め)、世代を越えてその凶行を継承した(敢尋乱階,盗拠神器,更姓改物,世済其凶)。まさにその時は皇極(帝王が天下を治める準則)が幽昧(幽暗)で、天下に主がいなくなり、こうして我が帝命が下に隕越(転落・墜落)してしまった。

昭烈皇帝は明叡の徳を体現し(体明叡之徳)、文武に光を与えて推し広め(光演文武)、乾坤(天地)の運に応じ、世に出て難を平らげ(出身平難)、四方を経営したので、人鬼が謀(考え。心)を同じくし、百姓が能力ある者(劉備)に与し(百姓與能)、兆民(万民)が欣戴した(喜んで奉戴した)。符讖を受け入れてそれに順じ(奉順符讖)、位を建てて号を改め(帝位に即いて年号を改め。原文「建位易号」)、天序(帝王の世家)を丕承(継承)し、欠陥を補って衰退したものを興し(補弊興衰)、祖業を存復(復興)し、皇綱(朝廷の綱紀。秩序や法規)を大いに引き受けて、地に墜ちないようにした(誕膺皇綱,不墜於地)。しかし万国が定まる前に、早くも崩御された(原文「早世遐殂」。「早世」は早死、「遐」は遠ざかること、「殂」は死亡の意味です)。朕は幼沖(幼少)にして皇統の大きな基礎を継ぎ(継統鴻基)、まだ保傅の訓(師傅の教え)を習う前に、祖宗の重(重責)を守ることになった(嬰祖宗之重)。六合(天地と四方)が塞がり(六合壅否)、社稷が建たないので、永くその理由を思い(永惟所以)、念は匡救(正道に戻して救うこと)して前緒(先人が遺した偉業)を光り輝かせることにあるのに、まだ成就できていない。朕は甚だこれを懼れる(念在匡救,光載前緒,未有攸済,朕甚懼焉)。そのため、朝早く起きて夜晩くに寝て、敢えて自ら安逸になることなく(夙興夜寐不敢自逸)、いつも菲薄(倹約)に従って国用(国が必要とする物)を増やし、勧分務穡によって民の財を多くし(原文「勧分務穡以阜民財」。「勧分」は財がある者が財がない者に分けて助けあうように奨励すること、「務穡」は農業に努めること、または倹約に努めることです)、授方任能してその聴(判断、意見)を参考にし(原文「授方任能以参其聴」。「授方」は百官の常法を授けること、教えることで、「任能」は能力がある者を任用することです。ここでは併せて優秀な人材を育てて用いるという意味だと思います)、私情を断って意を降して将士を養っている(原文「断私降意以養将士」。私情に流されることなく、へりくだった態度で将士を養っているという意味だと思います)(このようにして)剣を奮って長駆し、凶逆の討伐に向かおうと欲したが(欲奮剣長駆指討凶逆)、朱旗(漢の赤い旗)を挙げる前に、曹丕もまた隕喪(死亡)した。これはいわゆる「我が薪を焼くことなく自ら焼毀した(不燃我薪而自焚)」というものである。(しかし)残類餘醜がまた天禍を支え(天が下した禍を助長し)、河・洛で恣睢(放縦)し、兵に頼って(凶逆を)止めようとしない(阻兵未弭)

諸葛丞相は弘毅忠壮(「弘毅」は度量が広くて意志が強いこと、「忠壮」は忠義勇武なことです)で、身を忘れて国を憂いているので、先帝は(諸葛亮に)天下を託すことで、朕の身を励ました(先帝託以天下以勖朕躬)。今、彼に旄鉞の重(統帥としての重責。「旄鉞」は軍権を表します)を授け、専命の権(専断の権限)を付し、歩騎二十万の衆を統領させ、元戎(大軍)を董督(監督)させる。天罰を龔行(執行)し、患を除いて乱を静め(除患寧乱)、旧都を克復するのは(取り戻すのは)、この行動にかかっている(在此行也)

昔、項籍(項羽)は一強の衆を総領し、州を越えて土地を兼併し、務めたところ(求めたこと。野心)が大きかったが、最後は垓下で敗れて東城で死に、宗族が焚如(火刑)に処されて千年の笑いものになった(為笑千載)。全ては義によることなく、上を凌いで下を虐げたことが原因である(皆不以義陵上虐下故也)。今、賊はまた過失を真似しており(今賊效尤)、天人に怨まれているので、時機に順じて迅速にするべきであり(奉時宜速)、炎精・祖宗の威霊による助けという福に頼って、向かう所で必ず克つことを願う(庶憑炎精祖宗威霊相助之福,所向必克)。呉王・孫権も同じく災患を憂慮しており、軍を潜ませて謀を合わせ、後方を掎角(牽制)している(潜軍合謀,掎角其後)。涼州諸国の王はそれぞれ月支、康居の胡侯・支富、康植等二十余人を派遣し、節度(指揮)を受けに来させた。大軍が北に出たら、すぐに兵馬を率将(統率)し、戈を奮って先駆しようと欲している(大軍北出便欲率将兵馬奮戈先駆)。天命が既に集まり、人事もまた至り、軍に正義があって勢がそろっているので(師貞勢并)、必ず無敵であろう。そもそも王者の兵とは、征伐はあっても戦闘はない(有征無戦)。尊貴なうえに義があるので、敢えて抵抗する者がいないのである(尊而且義莫敢抗也)。だから鳴條の役(商王・成湯が夏桀を破った戦い)では軍が刃を血で汚すことなく(軍不血刃)、牧野の師(西周武王が商紂を破った戦い。「師」は戦の意味です)では商人が戈を倒したのだ(商国の人が武器を逆さに持って寝返ったのだ)。今、旍麾(将帥旗)が路に就いたら、通過するところではやはり窮兵極武(兵を用いて武力を極めること)を欲しない(旍麾首路其所経至亦不欲窮兵極武)。邪を棄てて正に従い、簞食壺漿(食糧や飲物)をもって王師を迎えることができた者には、国に常典(常法)があり、封寵(封土・恩賜)の大小にはそれぞれ品限(等級、範囲)がある(帰順した者には常法に基づいて封土・恩賜が与えられる。原文「有能棄邪從正,簞食壺漿以迎王師者,国有常典,封寵大小各有品限」)。魏の宗族、支葉(分家)、中外(家内外の親族)に及んでは、利害を測ることができ、逆順の数(道理)を明らかにして投降しに来た者は全て赦免する(有能規利害,審逆順之数,来詣降者,皆原除之)。昔、輔果(智果)は智氏との親(親族としての関係)を絶ち、全宗の福(一族を保全する福)を蒙った(東周元王四年・前472年参照)。微子(商の王族)は殷を去り、項伯(項羽の親戚)は漢に帰し、どちらも茅土の慶(封土の賞)を受けた。これらは前世の明験(明らかな成果、前例)である。もしも迷沈(深く惑乱すること)して(正道に)返らず、乱人を助けて王命を仰がないようなら(不式王命)、戮(殺戮)が妻孥(妻子)におよび、赦すことはない(罔有攸赦)。恩威を広く伝播し、その元帥を赦し、その残民を慰労せよ(広宣恩威,貸其元帥,弔其残民)。他のことは詔書・律令の通りとし、丞相は(これらの内容を)天下に露布(布告)して朕の意にそわせよ。

 

 

 

 

 

三国時代23 魏明帝(二) 孟達 227年(2)

 

今回で魏明帝太和元年が終わります。

 

[十二] 『晋書・巻一・高祖宣帝紀』と『資治通鑑』からです。

六月、魏明帝が詔を発して司馬懿に都督荊豫州諸軍事(「都督荊豫州諸軍事」は『資治通鑑』の記述です。『晋書・高祖宣帝紀』では「督荊豫二州諸軍事」です)を加え、所属する兵を率いて宛を鎮守させました。

 

[十三] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

秋八月、魏明帝が西郊で「夕月(月を祀る儀式)」を行いました。

 

[十四] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

冬十月丙寅(初四日)、魏明帝が東郊で治兵(練兵の儀式。閲兵)しました。

 

[十五] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

焉耆王が子を派遣して魏に入侍させました。

 

[十六] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

十一月、魏明帝が毛氏を皇后に立てました。

天下の男子に一人当たり爵二級を下賜し、鰥寡(配偶者を失った男女)・孤独(孤児や身寄りがない老人)・自存できない者(または「鰥寡・孤独で自存できない者」。原文「鰥寡孤独不能自存者」)に穀物を与えました。

 

十二月、毛皇后の父・毛嘉を列侯に封じました。

『三国志・魏書五・后妃伝』によると、毛嘉は典虞(官署名)の車工でした。

 

『資治通鑑』は「冬十二月、魏明帝が貴嬪・河内の人・毛氏を皇后に立てた」としていますが、「十二月」は恐らく「十一月」の誤りです。

 

以下、『資治通鑑』からです。

明帝が平原王だった頃、河内の虞氏を納れて妃にしました。しかし虞氏は明帝が即位してからも皇后に立てられませんでした、

太皇卞太后が慰勉(慰めて励ますこと)すると、虞氏はこう言いました「曹氏は自ずから賎(身分が低い者)を立てることを好み、未だ義によって挙げることができた者はいません(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。曹操は卞氏を妻とし、文帝は郭皇后を立てましたが、どちらも正室ではありませんでした)。しかし皇后は内事(宮内の事)を管理し、国君は外政を聴くものであり(后職内事,君聴外政)、その道は互いに助けあって完成します(其道相由而成)。善によって始められなかったのに、終わりを善くできた者はいません(苟不能以善始,未有能令終者也)。必ずこの事によって国を亡ぼし、祭祀を失うことになるでしょう(殆必由此亡国喪祀矣)。」

虞氏は排斥されて鄴宮に還されました。

 

[十七] 『資治通鑑』からです。

以前、太祖(武帝・曹操)と世祖(文帝・曹丕)がどちらも肉刑を恢復することを議論しましたが、軍事が多忙なため刑法を改める余裕がありませんでした。

曹操に関しては東漢献帝建安十八年(213年)に書きました。『資治通鑑』胡三省注によると、その後、文帝が群臣を臨饗(酒食で慰労すること)し、詔を発して「大理(法官)が肉刑を復そうと欲している。これは誠に聖王の法なので、公卿は共に善く議せ」と言いました。しかし議論が決する前に軍事があったため、また棚上げにされました。

 

明帝が即位すると、太傅・鍾繇が上書しました「孝景(西漢景帝)の令のようにするべきです。(刑が)棄市(処刑して見せしめにする刑)に当たっても右趾を斬ることを欲した者はそれを許し、黥(顔に刺青をする刑)・劓(鼻を削ぐ刑)・左趾(左足を斬る刑)・宮刑の者は、今まで通り孝文(西漢文帝)のようにして、髠笞(髪を剃って鞭で打つ刑)に換えます(自如孝文易以髠笞)。そうすれば一年に三千人を活かすことができます(可以歳生三千人)。」

 

明帝が詔を発して公卿以下、群臣に議論させました。

司徒・王朗がこう主張しました「肉刑を用いなくなって以来、数百年が経過しました(歴年数百)。今またこれを行ったら、恐らくそれ(死刑)を減らした文(法令)が万民の目の前で明らかになる前に、肉刑の問(肉刑に関する責問、批難)が寇讎(敵)の耳に広まってしまうので、遠人を来させることにはなりません(恐所減之文未彰於万民之目而肉刑之問已宣於寇讎之耳,非所以来遠人也)。今は鐘繇の死罪を軽くしようと欲するところに則り、死刑を減らして髠刑とし、それが軽すぎることを嫌うなら、居作(服役)の歳数(年数)を倍増させるべきです(原文「今可按繇所欲軽之死罪使減死髠刑,嫌其軽者可倍其居作之歳数」。『資治通鑑』胡三省注によると、魏制では髠刑は居作五歳です)(このようにすれば)内には死を生に換えた量りしれない恩(以生易死不訾之恩)があり、外では釱(足枷)を刖(脚を切断する刑)に換えて人を恐れさせるという悪名(以刖易釱駭耳之声)がなくなります。」

 

議者は百余人に上り、王朗に賛同する者が多数いましたが、明帝は呉・蜀をまだ平定していなかったため、やはり棚上げにしました。

 

[十八] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。

この年、呉の昭武将軍・韓当が死にました。

韓当の子・韓綜は道徳から外れて法を守らなかったため(淫乱不軌)、罪を得るのではないかと懼れました。

 

閏月(中華書局『白話資治通鑑』は「閏十二月」としています)、韓綜が家属や部曲を率いて魏に奔りました。

 

[十九] 『資治通鑑』からです。

以前、孟達は魏文帝に寵用されており、また、桓階、夏侯尚と親善な関係にありました(東漢献帝延康元年・220年参照)

しかし文帝が崩御して桓階、夏侯尚も死ぬと、孟達は心中で不安を抱くようになります。

それを聞いた蜀漢の諸葛亮が孟達を誘いました。

孟達はしばしば諸葛亮に書を送って連絡を取り合い、秘かに蜀へ帰国することに同意しました。

 

孟達は魏興太守・申儀と対立していました。

申儀が秘かに上表して孟達を告発します。

『資治通鑑』胡三省注によると、魏興は東漢の西城郡です(胡三省注は「蜀の西城郡」としていますが、恐らく誤りです)。魏文帝が魏興に改名しました。

 

申儀の告発を知った孟達は惶懼(恐懼、恐惶)し、兵を挙げて叛しようとしました。

しかし司馬懿が書を送って慰解(慰めて諭すこと)したため、孟達は躊躇して決断できませんでした。

 

以上の内容は『資治通鑑』を元にしました。『晋書・巻一・高祖宣帝紀』は若干異なり、こう書いています。

蜀将・孟達が魏に投降した時、魏朝は甚だ厚く遇しました。

司馬懿は孟達の言行が傾巧(狡猾、巧み)なので信任できないと考え、頻繁に諫言しましたが、採用されませんでした。

孟達は新城太守となり、封侯のうえ符節を授けられます(領新城太守,封侯,假節)

しかし後に孟達は呉と連絡をとりあって蜀との関係も固め、秘かに中国(中原。魏)を図るようになりました(連呉固蜀,潜図中国)

 

蜀相・諸葛亮は孟達の反覆(裏切りを繰り返すこと)を嫌い、また、孟達が禍患になることを懸念していました。

孟達と魏興太守・申儀が対立していたため、諸葛亮はそれを利用して孟達の挙兵を促そうとしました。郭模を魏に送って偽りの投降をさせ、申儀を訪ねた時、わざと孟達の謀を漏洩させます。

孟達は謀が漏れたと聞き、兵を挙げようとしました。

それを知った司馬懿は孟達がすぐに挙兵することを恐れ、書を送って喩しました「将軍は昔、劉備を棄てて身を国家に託したので、国家が将軍に疆埸の任(国境を守る大任)を委ね、将軍に蜀を図る事を任せました。心が白日に達している(原文「心貫白日」。心意が明白で疑いがないこと)といえます。蜀人は愚智ともに(愚者も智者も)、将軍に対して切歯(痛恨、憤怨)しない者がいません。諸葛亮は(将軍を)破りたいと欲していますが、ただその路(方法)がないことを苦としているのです。郭模が言ったことは小事ではありません。諸葛亮がどうしてそれを軽んじて宣露(暴露。漏洩)させるのでしょうか。これは(諸葛亮の計だと)容易に分かるはずです(此殆易知耳)。」

孟達は書を受け取って大いに喜び、挙兵を躊躇して決断できなくなりました。

 

以下、『晋書・巻一・高祖宣帝紀』と『資治通鑑』からです。

孟達が躊躇している間に、司馬懿は隠れて軍を起こし、討伐に向かいました(潜軍進討)

諸将が司馬懿に言いました「孟達は二賊と交構(連結)しているので(これは『晋書・高祖宣帝紀』の記述で、原文は「達與二賊交構」です。『資治通鑑』では「呉・漢と交通(交流)しているので(達與呉漢交通)」です)、まずは観望してその後に動くべきです。」

司馬懿が言いました「孟達は信義がないので、今は(諸葛亮と孟達が)互いに疑っている時である(此其相疑之時也)。まだ(形勢が)定まる前に、急いで決するべきである(当及其未定促決之)。」

司馬懿は昼夜兼行して(倍道兼行)八日で城下に到りました。

 

呉と蜀漢が孟達を救援するため、それぞれ偏将を派遣して西城の安橋と木闌塞に向かわせましたが、司馬懿が諸将を分けてこれを拒みました。

『資治通鑑』胡三省注によると、魏興安陽県の西北に高橋溪口があり、そこで文水が漢水に合流しました。

漢水は東に向かって西城県故城の南を通り、更に東の木蘭塞南を通ります。右岸(南岸)に陵城という城があり、左岸(北岸)に木蘭塞があります。

胡三省注は「呉兵は安橋に向かい、蜀兵は木蘭塞に向かった」と書いていますが、『中国歴史地図集(第三冊)』を見ると、安橋は西、木蘭塞は東に位置するので、逆ではないかと思われます。

 

これ以前に孟達が諸葛亮に書を送ってこう伝えました「宛(『資治通鑑』胡三省注によると、司馬懿が駐屯しています)から洛(首都・洛陽)までは八百里もあり、私からは一千二百里も離れている。私が事を挙げたと聞いたら、当然、表(上書)を天子に上げ、互いに往復するのを待ったら一カ月になる(聞吾挙事,当表上天子,比相反覆,一月間也)。その間に私の城は既に(守りを)固めており、諸軍も準備をするのに足りる(諸軍足辦)。私がいる場所は深険なので、必ず司馬公が自ら来ることはない。諸将が来ても、私に患いはない。」

しかし司馬懿の兵が城下に到ったため、孟達は諸葛亮にこう告げました「私が事を挙げて八日しか経っていないのに、兵が城下に到った。なぜこのように神速なのだ(なんという神速だ。原文「何其神速也」)!」

 

『三国志・魏書三・明帝紀』は「新城太守・孟達が反した。(明帝の)詔によって驃騎将軍・司馬宣王(司馬懿)がこれを討った」と書いていますが、いつの時点で明帝の詔が発せられたのかは分かりません。

 

[二十] 『三国志・蜀書十三・黄李呂馬王張伝』からです。

蜀漢の丞相・諸葛亮が北に向かって漢中に駐留すると、広漢・綿竹の山賊・張慕等が軍資を鈔盗(略奪。盗み取ること)し、吏民を劫掠(略奪、強奪)しました。

 

張嶷が都尉として兵を率いて討伐しました。

張嶷が推察したところ、敵は鳥散(分散)しているので、戦って捕えるのは困難だと考えました。そこで偽って和親し、日を決めて酒席を設けます。

酒が回った頃(酒酣)、張嶷が自ら左右の者を率いて張慕等五十余級の首を斬り、渠帥をことごとく殲滅しました。

残った者も探し出し、旬日(十日)で清泰(安寧、平安)になりました。

 

 

次回に続きます。

三国時代24 魏明帝(三) 孟達の失敗 228年(1)

 

 

 

三国時代22 魏明帝(一) 諸葛亮の北伐 227年(1)

 

今回から魏明帝の時代です。

 

烈祖明皇帝

姓は曹、名は叡、字は元仲です。文帝の長子です。

 

以下、『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

曹叡は生まれた時から太祖(曹操)に愛され、常に左右にいるように命じられていました。

裴松之注によると、曹叡は数歳になった時、既に岐嶷の姿(聡明で突出した姿)があったため、武皇帝(曹操)がこれを異とし(特別視し)、「我が基(国の基礎)は汝で三世になる(曹叡が三代目になる。原文「我基於爾三世矣」)」と言いました。

いつも朝宴(朝廷の宴会)や会同(朝会)では侍中・近臣と共に帷幄に列席させるようになります。

 

曹叡は好学多識で、特に法理(法律)に関心を持ちました。

十五歳で武徳侯に封じられ、魏文帝黄初二年(221年)に斉公に、三年に平原王になりましたが、母が誅殺されたため、嗣(後嗣。太子)には立てられませんでした。

黄初七年(226年)夏五月、文帝の病いが篤くなったため、曹叡がやっと皇太子に立てられました。

丁巳(十七日)、文帝が死んで曹叡が皇帝の位に即きました。

 

黄初七年の出来事は既に書いたので、再述は避けます。

 

 

魏明帝太和元年 蜀漢後主建興五年 呉王黄武六年

丁未 227年

 

[一] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

春正月、魏明帝が郊祀(郊外で行う天の祀り)を行い、武皇帝(曹操)を天に配しました。また、宗祀(祖宗の祭祀)を明堂で行って文皇帝を上帝に配しました。

 

[二] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

魏が江夏南部を分けて江夏南部都尉を置きました。

 

[三] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

西平の麴英が反して臨羌令や西都長を殺しました。

魏は将軍・郝昭と鹿磐を派遣して討伐し、これを斬りました。

 

[四] 『三国志・呉書二・呉主伝』と『資治通鑑』からです。

呉の解煩督・胡綜と番陽太守・周魴が彭綺(魏文帝黄初六年・225年参照)を撃って生け捕りにしました。

 

『三国志・呉書十七・是儀胡綜伝』によると、劉備が白帝城から東下した時、孫権は現有の兵が少なかったため、胡綜に命じて諸県で兵を選ばせ、六千人を得ました。この時、二部の「解煩」が置かれ、徐詳が左部を、胡綜が右部を担当しました。

 

以前、彭綺は「義兵を挙げて魏のために呉を討つ」と自ら公言していました。

魏の議者は、これを機に呉を討伐すれば必ず成果を上げられると考えました。

明帝が中書令・太原の人・孫資(『資治通鑑』胡三省注によると、曹操が魏王になった時、祕書令を置いて尚書の奏事を管理させました(典尚書奏事)。魏文帝黄初年間初期に祕書令を中書令に改め、中書令の上に中書監を置きました)に意見を求めると、孫資はこう言いました「番陽の宗人には、前後してしばしば義を挙げる者がいましたが、衆が弱くて謀が浅かったので、すぐに皆、離散しました(旋輒乖散)。昔、文皇帝が賊の形勢を密論し(詳しく分析し)、洞浦で万人を殺して船千数を得たと言いましたが、数日の間に(呉の)船と人が再び会しました(文帝黄初三年・222年の洞口の戦いを指すようです)(呉の)江陵が包囲されて月を重ねた時も、孫権はわずか千数百の兵を率いて東門に向かい、その土地(江陵)で崩解した者はいませんでした(魏文帝黄初四年・223年の江陵の戦いですが、東門を守ったという記述はありませんでした)。これは(呉の)上下がその法禁を守っている明らかな証拠です(是其法禁上下相維之明験也)。ここから彭綺を推し量るに、懼らく(恐らく)まだ孫権の腹心の大疾になることはできないでしょう。」

本年春、彭綺はやはり敗亡しました。

 

[五] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

二月辛未(初五日)、魏明帝が籍田を耕しました。

 

[六]  『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

辛巳(十五日)、魏が文昭皇后の寝廟(『三国志・明帝紀』では「寝廟」、『資治通鑑』では「寝園」です)を鄴に建てました。

文昭皇后は明帝の実母・甄氏で、鄴で死を賜りました。

 

王朗が園陵を視察に行った時、百姓の多くが貧困であることを目撃しました。しかし明帝が宮室を造営・修築しているため、上書して諫めました「昔、大禹は(民を)天下の大患から救おうと欲したので、まずその宮室を卑しくし(粗末にし)、その衣食を倹(倹約)しました。(越王)句践は禦児(地名)の疆(領域)を広げようと欲したので、やはりその身を約(節約)して家に及ぼし、その家を倹(倹約)して国に施しました。漢の文・景(文帝・景帝)は祖業を恢弘(弘揚・拡大)したいと欲したので、百金の台において意を割き(百金を必要とする露台の建築をあきらめ)、弋綈(黒くて粗い織物)において倹を明らかにしました(原文「割意於百金之台,昭倹於弋綈之服」。西漢文帝後七年・前157年参照)。霍去病は中才(中等の才能)の将でしたが、それでも匈奴はまだ滅びないと判断して第宅(邸宅)を築きませんでした。これは、遠くを憂慮する者は近くを簡略にし、外で事を為す者は内を簡素にするという道理を明らかにしています(明卹遠者略近,事外者簡内也)。今、建始(殿)の前は、朝会で(群臣が)列するに足りており(足用列朝会)、崇華(殿)の後ろは内官(宮内の官員や宦官・宮女)を並べるに足りており(足用序内官)、華林・天淵は遊宴を開くに足りています(足用展遊宴)。もしもとりあえずは象魏(門闕)を完成させて城池(城壁や堀)を修築するだけとし、残りは全て豊年を待ち、専ら耕農(農業)に勤めることを急務とし、戎備(戦備)に習熟することを大事とすれば(専以勤耕農為務,習戎備為事)、民が充ちて兵が強くなり、寇戎が賓服(服従)するでしょう。」

 

『資治通鑑』胡三省注によると、建始・崇華の二殿は洛陽北宮にありました。かつて曹操が漢中から洛陽に還った時、建始殿の建築を開始しました。場所は漢の濯龍祠の近くです。

洛陽故城の北には穀水が流れており、東に向かって大夏門下を通り、枝のように分かれて渠水(水路)となり、東の華林園に入り、更に東に流れて天淵池になりました。

 

[七] 『三国志・魏書三・明帝紀』からです。

丁亥(二十一日)、魏明帝が東郊で「朝日(太陽を祀る儀式)」を行いました。

 

[八] 『三国志・蜀書三・後主伝』『三国志・蜀書五・諸葛亮伝』と『資治通鑑』からです。

三月、蜀漢の丞相・諸葛亮が諸軍を率いて北進し、漢中に駐留しました。長史・張裔、参軍・蒋琬を成都に留めて丞相府の政務を統轄させます(統留府事)

張裔はかつて雍闓に捕まって呉に送られましたが、『三国志・蜀書十一・霍王向張楊費伝(張裔伝)』によると、鄧芝が呉を訪ねて蜀漢と呉の国交が回復した時(蜀漢後主建興元年・223年)、蜀に還りました。

 

『三国志・後主伝』裴松之注が、諸葛亮の出征前に後主が発した詔を載せています。別の場所で書きます。

蜀漢後主の詔

 

諸葛亮は出発に臨んで上書しました。これを『出師の表』といいます。これも別の場所で紹介します。

出師の表

 

諸葛亮は兵を進めて沔陽(沔水北)の陽平石馬に駐屯しました。

『資治通鑑』胡三省注によると、沔水は白馬戍の南を流れていました。この地を白馬城、または陽平関といいます。そこには白馬山があり、山石が馬に似ていました。

 

諸葛亮が広漢太守・姚伷を招いて丞相掾にしました。

姚伷が複数の文武の士を同時に進めたため、諸葛亮が称賛してこう言いました「忠益(国家に忠を尽くして益をもたらすこと)とは、人を進めることより大きなものはない。しかし人を進める者はそれぞれ自分が貴ぶところに務めている(自分の好みで人を推薦している。原文「忠益者莫大於進人,進人者各務其所尚」)。今、姚掾は剛柔を並存させて文武の用を広くした(文武の需要を広く満足させた)。これは博雅(心が広くて行いが正しいこと)ということができる。諸掾がそれぞれこの事を敬仰して(諸葛亮の)望みにかなうことを願う(願諸掾各希此事以属其望)。」

 

[九] 『資治通鑑』からです。

魏明帝は諸葛亮が漢中にいると聞き、大いに兵を発してすぐに攻撃しようと欲しました。そこで散騎常侍・孫資に意見を求めます。

孫資はこう言いました「昔、武皇帝が南鄭を征伐して張魯を取った時、陽平の役(東漢献帝建安二十年・215年)で危機に陥り、後にやっと成功しました(危而後済)。また、自ら夏侯淵軍を助けに行きましたが(原文「自往抜出夏侯淵軍」。献帝建安二十四年・219年、夏侯淵が戦死してから、曹操自ら漢中に出兵しました)、しばしばこう言いました『南鄭はまるで天獄(天の監獄)で、中の斜谷道は五百里も続く石穴だった(南鄭直為天獄,中斜谷道為五百里石穴耳)。』これはその深険を語っており、夏侯淵軍をなんとか救出できたことを喜んだ辞(言葉)です。また、武皇帝は用兵において聖でしたが(聖於用兵)、蜀賊が山岩の中に住んでいるのを確認し、呉虜が江湖に隠れているのを視て、どちらにも屈してこれを避け、将士の力を要求せず、一朝の忿(怨み)を争いませんでした(察蜀賊棲於山岩,視呉虜竄於江湖,皆橈而避之,不責将士之力,不争一朝之忿)。誠にいわゆる『勝ちを見たら戦い(勝つと判断したら戦い)、難を知ったら退く(見勝而戦,知難而退)』というものです。

今、もし軍を進めて南鄭で諸葛亮を討ったら、道が険阻なので、その計(戦略)は精兵を用い、転運(輸送)を行い、南方四州を鎮守して(『資治通鑑』胡三省注によると、四州は荊・徐・揚・豫州を指します)水賊(呉軍)を遏禦(遮断・防御)する必要があり、合わせて十五六万人を用いることになります(計用精兵及転運、鎮守南方四州,遏禦水賊,凡用十五六万人)。そのためには、必ず更なる発興(徴発、出兵)が必要になり(必当復更有所発興)、天下を騒動させ、費力(費やす労力。または費用と労力)が広大になります。これは誠に陛下が深慮すべきことです。守戦の力とは、力役(労役。労力)が参倍になるものです(防御側と攻撃側の力を比べると、攻撃側の力役が二三倍になるものです。原文「夫守戦之力,力役参倍」)

今日においては、現有する兵を使って、大将を分けて諸要険を拠点とするように命じるだけで、威は強寇を震摂(懼れ震えること)させて疆埸(辺界。領土)を鎮静させるに足り、将士が虎睡(休養)できて百姓に事(戦事。労役)がなくなります。(そうすれば)数年の間に中国(中原。魏)が日々盛んになり、呉・蜀の二虜は必ず自ら罷敝(疲弊)するでしょう。」

明帝は出征を中止しました。

 

[十] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

以前、魏文帝が五銖銭を廃止した時(黄初元年・220年)、穀・帛(穀物と絹帛)を代わりに用いさせました。

しかし人々の間では巧みに虚偽を為す者が徐々に増えていき、競って穀物を湿らせて(重くして)利を求めたり、薄絹を使って交換するようになりました(湿穀以要利,薄絹以為市)。これらの行為は厳刑に処しても禁じることができません。

司馬芝等が朝廷を挙げて大議し、こう主張しました「銭(貨幣)を用いるのはただ国を豊かにするだけでなく、刑を省くことにもなります。今は改めて五銖を鋳造して便とした方がいいでしょう(今不若更鋳五銖為便)。」

 

夏四月乙亥(初十日)、再び五銖銭を発行しました。

 

[十一] 『三国志・魏書三・明帝紀』と『資治通鑑』からです。

甲申(十九日)、魏が初めて洛陽に宗廟を造営しました(これまでは鄴に宗廟がありました)

 

 

次回に続きます。

三国時代23 魏明帝(二) 孟達 227年(2)