三国時代1 魏文帝(一) 魏文帝

 

今回から三国・魏の時代に入ります。

 

『資治通鑑』胡三省注が国号の「魏」について解説しています。

曹操は袁尚を破って冀州を得てから、鄴を拠点にしました。鄴は漢代魏郡の治所です。

「魏」は大名(盛大、高大を表す名)なので、後に曹操は魏公に封じられました。

また、讖(預言)でこう言われていました「漢に代わるのは当塗高(代漢者当塗高)」。「当塗高」は魏を指します(東漢献帝建安元年・196年参照)

そこで文帝(曹丕)は漢の禅譲を受けてから、国号を「魏」にしました。

 

世祖文皇帝

姓は曹、名は丕、字は子桓といいます。魏武王・曹操の長子です。

 

以下、『三国志・文帝紀』本文と裴松之注からです。

文帝は東漢霊帝中平四年(187年)冬に譙で生まれました。

文帝が生まれた時、青色で車蓋(車の傘)のように円形の雲気が終日その上にあり、望気の者は「至貴の証であり、人臣の気ではない」と判断しました。

八歳の時には既に属文(文章。作文)の能力があり、逸才(卓越した才能)があって、古今の経伝や諸子百家の書に広く精通しました。また、騎射が得意で撃剣を好みました。

茂才に挙げられましたが、出仕しませんでした。

献帝建安十三年(208年)、司徒・趙温が曹丕を招聘しましたが、曹操が「趙温は臣の子弟を辟しました(招きました)。故意に実による選挙をしていません(実際の能力に則った選挙をしていません。原文「選挙故不以実」)」と上表し、侍中・守光禄勳・郗慮に符節を持って策書を奉じさせ、使者として派遣して張温の官を免じました(東漢献帝建安十三年・208年にも述べました)

建安十六年(211年)、曹丕は五官中郎将・副丞相になりました。

建安二十二年(217年)、魏の太子になりました。

 

以前、曹操がなかなか太子を立てなかったため、曹丕は疑いを抱きました。当時、高元呂という者がおり、相人(観相。人相占い)を善くしたため、曹丕が招いて質問すると、高元呂は「その(あなたの)貴さは言葉にできません(其貴乃不可言)」と答えました。

曹丕が問いました「寿(寿命)はどれくらいだ(寿幾何)?」

高元呂が言いました「寿は、四十に至ったら小苦があるはずですが、それを過ぎれば憂がありません。」

その後、間もなくして曹丕が王太子に立てられましたが、四十歳で死ぬことになります。

 

建安二十五年(220年)、曹操が死に、曹丕が位を継いで丞相・魏王になりました。

王后を尊んで王太后とし、建安二十五年を延康元年に改元しました。

 

延康元年の出来事は既に書いたので省略します。

十月辛未(二十九日)、魏王・曹丕が漢の禅譲を受けて皇帝の位に即きました。延康元年から魏の黄初元年に改元して大赦します。

 

こうして漢が滅び、魏王朝が始まりました。

 

 

次回から魏文帝の時代です。

三国時代2 魏文帝(二) 山陽公劉協 220年

 

 

神話時代4 庖犠氏

 

今回は庖犠氏(伏羲氏)です。

主に『帝王世紀』『資治通鑑外紀』『綱鑑易知録』『史記・三皇本紀』から引用します。

今回から記述する内容が増えるので、文頭に[一][二][三]…という番号をつけます。

 

 

太昊庖犠氏

 

[一] 太昊帝・庖犠氏は風姓です。

母を華胥といいます。燧人氏の時代、雷沢に大人(巨人)の足跡がありました。華胥はそれを踏んで感応し、成紀(地名)で庖犠を生みました(『帝王世紀』と『資治通鑑外紀』は庖犠の母を華胥としています(母曰華胥)。しかし『綱鑑易知録』では「太昊(庖犠)の母は華胥の渚に住んでおり、成紀で帝を生んだ」と書いており、「華胥」を地名としています)

 

庖犠は蛇身人首(体は蛇で頭は人)という異形で、聖徳がありました。

 

燧人氏が没してから、庖犠が立ちました。天(天命)を継いで王となり、始めて木を徳とし(木徳の王になり)、百王の筆頭となります。

木徳というのは「天皇氏・地皇氏・人皇氏」のところでも触れました。木徳は五行(木・火・土・金・水)の筆頭なので、庖犠は五行運行の徳を持った最初の帝王ということになります。ただし、天皇氏も木徳の王だったと書きました。中国神話はそれぞれの話が単独で存在するため、このように整合性が取れないことが多々あります。

 

庖犠氏は「震」で生まれたため、東方で春を主宰しました。

『帝王世紀』の原文は「帝出於震,未有所因,故位在東方主春」です。「震」は「辰」に通じ、「東」「春」「木(木徳)」を意味します。

「未有所因,故位在東方主春」は「まだ因るところ(拠点とする場所)がなかったので、位を東方において、春を主宰した」という意味だと思います。

『史記・三皇本紀』には「木徳王,注春令(木徳の王となり、春令を注した)」とあり、平凡社の『史記』は「注春令」を「春の季節にあう行事をあげた」と訳しています。

 

東と春を主宰する庖犠は、日の明(太陽の明かり)を象徴して「太昊」または「太皞」と称しました。「昊」と「皞」は同義で、「白くて明るい様子」を表します(『資治通鑑外紀』と『綱鑑易知録』は「日月の明を象徴したので太昊という」と書いていますが、庖犠は東方を主宰したので「日の明」が正しいと思われます。『帝王世紀』では「日の明」です)

 

[二] 庖犠は陳に都を置きました。

 

[三] 庖犠は民に佃漁(狩猟や漁業)・畜牧を教えました。

『綱鑑易知録』は当時の様子をこう書いています。

人々が生まれたばかりの時は禽獣と差異がなく、自分の母は知っていても父は知らず、愛という感情は知っていても礼は知りませんでした。横になったら「呿呿」と寝息を立て、起きたら「吁吁」と嘆息し、餓えたら食物を求め、禽獣の毛(毛がついたままの肉)を食べて血を飲み、その皮革(毛皮)を着ました。

太昊が現れると、初めて網罟(禽獣や魚を獲る網)を作って佃漁(狩猟や漁業)を行い、民が必要とする食物を供給しました。また、犠牲(家畜。牛・羊・豚)を養って庖厨(厨房)を充たしました。

 

このように庖犠は犠牲を得ることで庖厨を満たし、人々の食糧にしたため、「庖犠」と号しました。

また、「雄皇氏」「皇雄氏」「黄熊氏」と号したともいわれており、「天皇」と呼ぶこともあります。

後に「庖犠」の音がなまって「伏犠」や「宓犠」とよばれるようになったといわれています。「密犠」と書かれることもありますが、これは「宓犠」が誤って書かれたようです。

但し、『史記・三皇本紀』は、「網罟を結んで(民に)佃漁を教えたので、宓犧氏という」と書いています。「宓」は「伏」に通じるので、「宓犧」は「犧(動物)を伏す」という意味だと思われます。

 

[四] 『帝王世紀』によると、景龍(大龍)が現れるという瑞祥がありました。

『綱鑑易知録』は「太昊の時代、龍馬が図を背負って河(黄河)から出るという瑞祥があった」と書いています。

 

龍の瑞祥があったため、庖犠は官名に龍を用い(以龍紀官)、「龍師(下述する「龍氏」のことではないかと思われます)」と号しました。

 

以下、『綱鑑易知録』からです。

庖犠は朱襄を飛龍氏に任命して書契(下述)を作らせました。昊英を潜龍氏に任命して甲暦(下述)を作らせました。大庭を居龍氏に任命して居盧を治めさせました(家屋を管理させました)。渾沌を降龍氏に任命して民の害を駆逐させました。陰康を土龍氏に任命して田里を治めさせました。栗陸を北龍氏に任命して草木を繁殖させ、泉源を導いて河川が通るようにさせました。

また、五官を任命しました。春官を青龍氏とし、または蒼龍(氏)とよびました。夏官を赤龍氏、秋官を白龍氏、冬官を黒龍氏、中官を黄龍氏としました。

当時は共工が上相に、柏皇が下相になり、朱襄と昊英が常に左右におり、栗陸が北に、赫胥が南に、昆連が西に、葛天が東に、陰康が下におり、分かれて宇内(天下)を管理しました。そのおかげで政化(政治と教化)が大いに調和しました。

 

[五] 庖犠は琴瑟(弦楽器)を造りました。

弦の長さは八尺一寸で、三十六本あったと『帝王世紀』は書いていますが、『史記・三皇本紀』では「三十五弦」となっています。

 

『綱鑑易知録』が少し詳しく書いているので引用します。

太昊は荒楽(簡単な音楽だと思います)を作って『扶徠(歌の名)』を歌い、網罟を詠って(原文「詠網罟」。歌いながら狩猟や漁業をしたのだと思います)天下の人々を鎮め、『立基(歌の名)』と名づけました。

桐の木を伐って琴を作り、絲を編んで弦を作り、二十七弦の琴に「離徽」という名をつけ、(音楽によって)神明の貺(恩恵)に通じ、天人の和に符合させました。また、桑の木を束ねて三十六弦の琴を作り、身を修めて性を正し(修身理性)、天真に返りました。

ここから楽音(音楽)が盛んになります。

 

[六] 庖犠は嫁娶の礼(婚姻制度)を制定しました。

儷皮(対になった鹿の皮)が結納の礼物になります。

『綱鑑易知録』によると、庖犠は嫁娶の礼を定め、姓氏を正して(同姓の婚姻を禁止するために姓氏をはっきりさせたという意味です)、媒妁(「媒」は男側の仲人、「妁」は女側の仲人です)を通すことで、人倫の根本を重視しました。この後、民が人倫において軽慢にならなくなりました(民始不瀆)

 

[七] 庖犠は徳が上下(天地)に符合したため、天が鳥獣の模様でそれに応じ、地も龍馬に図を背負わせて応じました。

そこで庖犠は、仰いだら天の象を観察し、伏したら地の法(法則)観察し、中は鳥獣の模様や地勢等から万物の宜(適切な状況。法則や道理)を観察し、近くは人の身を、遠くは万物を参考にし、始めて「書契(文字)」を造って「結縄の政」に代え、「八卦」を画くことで神明の徳に通じて万物の情(実情、本質)を分類しました。

「書契」の「契」は刻むことで、木片等に文字を刻んでいたことを表します。

「結縄の政」というのは、文字がなかった時代、縄を結んで記号とすることで記憶をたすけ、政治を行っていたことを指します。

庖犠は縄を結んで造った簡単な記号だけでは不便だったため、文字を発明し(文字の発明は黄帝の時代ともいわれています)、更に自然界の現象を象徴的に表わした「八卦」を生みだしました。

 

『帝王世紀』に「八卦」の発展が簡単に紹介されています。

まず庖犠が八卦を造りました。一卦は三爻(上中下の三つの符合)からなります。後に神農が八卦を重ねて六十四卦に改め、黄帝、堯、舜がそれを引用・発展させて二つの易に分けました。夏王朝の人々は炎帝(神農)の易を元に『連山易』を造り、殷(商)王朝の人々は黄帝の易を元に『帰藏易』を造り、西周の文王は六十四卦を拡大して九六の爻(陽性の爻を「九」、陰性の爻を「六」とする易の規則)を著し、『周易』と名付けました。

『連山易』『帰藏易』『周易』は「三易」と併称されます。

 

庖犠は六気(六種類の病の原因。陰・陽・風・雨・晦・明)・六府・五藏(「六府」と「五臓」で五臓六腑)・五行・陰陽・四時(四季)・水火・昇降(盛衰)の形象を明らかにし、百病の道理を分類しました。

そこで、百薬をなめて味を確認し、九針を定め、人々の寿命を延ばしました(原文「極夭枉」。「夭枉」は短命ですが、ここでは寿命を極めさせたと解釈しました)

これらの内容は後述する神農氏に重なる部分があります。

 

[六] 庖犠は甲暦を作り、四時(四季)を定めました。

以下、『綱鑑易知録』からです。

甲暦は「甲寅」から始まり、干支の組み合わせによって十二辰が作られ(誤訳かもしれません。原文は「支干相配為十二辰」ですが、「十二辰」は十二支を指すと思うので、「支干相配」の意味が理解できません)、六甲(甲の年が六回現れること)して天道が一周します(甲の年は十年に一回おとずれるので、六甲は六十年になります)

これを使って歳(年)を記録したおかげで年が乱れなくなり、月を記録したおかげで時が移ることがなくなり(四季が混乱しなくなり)、昼夜を記録したおかげで人々が度(時間)を知るようになり、東西南北を記録したおかげで方角を迷わなくなりました。

 

[七] 『史記・三皇本紀』によると、庖犠は東の太山(泰山)で封の儀式を行いました。

封の儀式とは聖人帝王だけが行うことができる天の祭祀です。

 

[八] 庖犠は在位百十年で死に(『帝王世紀』では百十年ですが、『史記・三皇本紀』では百十一年、『資治通鑑外紀』では百十年、または百十六年、『綱鑑易知録』では百十五年です)、南郡に葬られました。冢は山陽高平の西にあるともいわれています(「南郡に葬られた」というのは『帝王世紀』の記述で、『綱鑑易知録』は「陳に葬られた」としています)

 

『帝王世紀』によると、庖犠の子孫は五十九姓あり、それらの姓は五万余年に渡って世に伝わることになりました。

『史記・三皇本紀』は「庖犠の)後裔は春秋時代になって任氏・宿氏・須氏・句氏・顓臾氏がおり、皆、風姓の胤(子孫)だった」と書いています。

また、日中民族科学研究所編『中国姓氏事典』(国書刊行会)には風姓から生まれた氏として、「赫・赫骨・宿・須・東・東方・任・伏・酉」が紹介されています。

 

 

次回は女媧氏の時代です。

神話時代5 女媧氏

 

 

 

神話時代3 有巣氏 燧人氏

 

天皇氏・地皇氏・人皇氏の後、『史記・三皇本紀』にはこのような系譜が紹介されています。

「人皇の後は五龍氏(『史記』の注によると、五人兄弟で龍に乗って天地の間を上下したので、五龍氏といいます)、燧人氏、大庭氏、栢皇氏、中央氏、巻須氏、栗陸氏、驪連氏、赫胥氏、尊盧氏、渾沌氏、昊英氏、有巣氏、朱襄氏、葛天氏、陰康氏、無懐氏が継いだが、その名も年代も都も分からない。」

 

これに似た記述は『帝王世紀』にも見られますが、『帝王世紀』は後述する女媧氏の後ろに置いており、数も異なります。『帝王世紀』ではこうなっています。

「女媧氏が没すると、大庭氏、柏皇氏(『史記・三皇本紀』では「栢皇氏」)、中央氏、栗陸氏、驪連氏、赫胥氏、尊盧氏、渾沌氏、昊英氏、有巣氏、朱襄氏、葛天氏、陰康氏、無懐氏の十五世(女媧氏を含む)が継ぎ全て庖犧(伏羲)の号を受け継いだ。」

 

このように、『帝王世紀』には五龍氏、燧人氏と巻須氏がありません。

『史記・三皇本紀』の注釈は、「古に太山(泰山)で封の儀式(帝王が天を祭る儀式です)を行った者は、無懐氏が最初であり、太昊(伏羲氏)の前になるはずだ。どうして皇甫謐(『帝王世紀』の編者)の説を得られるのだろう(無懐氏は太昊(伏羲氏)の前に存在したはずなので、女媧の後ろに置いているのはおかしい)」と書いています。

 

『十八史略』は大庭氏、柏皇氏等を女媧の後ろに置いていますが、有巣氏と燧人氏は人皇氏の後、伏羲氏の前に紹介しています(『十八史略』では、人皇氏、有巣氏、燧人氏、伏羲氏、女媧氏、共工氏、大庭氏、柏皇氏、中央氏、歴陸氏(栗陸氏)、驪連氏、赫胥氏、尊盧氏、渾沌氏、昊英氏、朱襄氏、葛天氏、陰康氏、無懐氏、神農氏となります)

 

『綱鑑易知録』では、人皇氏の跡を有巣氏と燧人氏が継いでいます。

以下、『綱鑑易知録』からです。

 

有巣氏

有巣氏は木を組んで巣(木の上に組まれた家)を造りました。

太古の民は穴に住んで野で生活していました(穴居野処)。当時は物(万物)と友になり、妎傷の心(嫉妬の心や物を傷つけようとする心)がありませんでしたが、後になって人民が機智をもつようになると、物が敵になり始めました。しかし禽獣の爪・牙・角・毒に対して、人々は勝つことができませんでした。

有巣氏が興隆すると、木を組んで巣を造り、民に居住することを教えて、禽獣の害を避けさせました。

当時の人々はまだ稼穡(農業)を知らないため、草木の実を食べていました。火もないため、禽獣の血を飲んでその毛を食べました(毛がついたまま肉を食べました)

始めは動物の皮を取って体の前を隠し、後には後ろを隠すようになりました。

人々は「有巣氏の民」と号しました。

 

 

燧人氏

燧人氏は木をこすって火を得ました。

有巣氏が民に対して巣に住むことを教えましたが、まだ人々は熟食(火を通した食物)を知りませんでした。

燧人氏が興隆すると、星辰を観て五行を察し、空には火があって木に燃え移れば明るくなるということを知りました。そこで、木をこすって火を起こし、民に烹飪(料理)を教えました。民がこれを利(便)としたので、燧人氏と号しました(「燧」は火を起こす木です)

燧人氏は「燧」によって火が生まれるので、五木に分けて火をかわるがわる起こさせ、四時(四季)に順じて天の意に符合させました(「五木」は五つの時期に使う木です。春は楡柳で火を起こし、夏は棗杏で火を起こし、夏の終わりは桑柘で火を起こし、秋は柞楢で火を起こし、冬は槐檀で火を起こしました)。こうして火の功用が広く伝わるようになりました。

当時はまだ文字がありませんでした。燧人氏が初めて「結縄の政」を作りました(「結縄の政」は縄を結んで記号を作ることで人々の記憶を助け、政事を行うことです。大事は縄を大きく結び、小事は小さく結びました)

燧人氏は伝教の台(恐らく教化を伝播するために建物です)を建て、交易の道を興しました。そのおかげで人々の情(心。思い)を満足させることができたので(人情以遂)、「遂皇」ともよばれています。

燧人氏には四佐(四人の輔佐)がおり、明由、必育、成博、隕丘といいました。

 

 

以上が有巣氏と燧人氏に関する記述です。

天皇氏・地皇氏・人皇氏の時代までは人の存在がほとんど感じられませんでした。しかし有巣氏と燧人氏の登場によって人々は家に住み、火を使い、禽獣とは異なる生活を営むようになりました。

次回、庖犠氏(伏羲氏)の登場によって、人々の生活は更に大きく変化します。

神話時代4 庖犠氏

 

 

 

神話伝説時代目次

 

神話伝説時代の目次です。

 

神話・伝説時代に入る前に

神話時代1 天地開闢

神話時代2 天皇氏・地皇氏・人皇氏

神話時代3 有巣氏 燧人氏

神話時代4 庖犠氏

神話時代5 女媧氏

神話時代6 神農氏

伝説時代1 神農氏から黄帝へ

伝説時代2 黄帝

伝説時代3 少昊

伝説時代4 顓頊

伝説時代5 帝嚳

伝説時代6 帝堯(一) 鼓腹撃壌

伝説時代7 帝堯(二) 虞舜

伝説時代8 帝堯(三) 譲位

伝説時代9 帝堯(四) 禹の治水

伝説時代10 帝舜(一) 舜の治世

伝説時代11 帝舜(二) 禅譲

 

 

神話伝説時代附

舜と重臣

 

 

総目次

 

 

神話時代2  天皇氏・地皇氏・人皇氏

 

天地開闢の後、『帝王世紀』は天皇氏・地皇氏・人皇氏を紹介しています。但しその記述は非常に簡単です。

「天地が開闢してから、天皇氏、地皇氏、人皇氏が現れた。あるいは冬に穴を掘って夏に巣(簡単な家)を造り、あるいは鳥獣の肉を食べた。」

 

天皇氏・地皇氏・人皇氏に関しては日本でもよく読まれている『十八史略』にも記述があります。

「天皇氏は木徳の王で、摂提(寅年)に起きた。無為によって天下を治めた。兄弟は十二人おり、それぞれ一万八千年生きた。

地皇氏は火徳の王で、兄弟は同じく十二人、それぞれ一万八千年生きた。

人皇氏は兄弟九人で、分かれて九州の長となった。合わせて百五十世続き、全部で四万五千六百年に及んだ。」

 

木徳、火徳というのは五行説に基づく考えで、古代の帝王は五行(木・火・土・金・水)の運行に則る徳を持つとされていました。今後も火徳の王、水徳の王といった概念が頻繁に出てきます。

「九州」はいくつかの説がありますが、天下、世界という意味だと思います。もっと具体的に中国全土(冀州・兗州・青州・徐州・揚州・荊州・豫州・梁州・雍州)とすることもあります。

 

天皇・地皇・人皇に関する神話伝説は他にも残されています。以下、『史記・三皇本紀』から引用します(上述の『十八史略』は『史記』を元にしています)

「天地が成立したばかりの時、天皇氏がおり、十二の頭があった(下述する十二人兄弟を指すと思われます)。澹泊(清静寡欲)で行動することがなかったが、風俗が自然に治まった(澹泊無所施為而俗自化)。木徳の王で、歳は攝提に起きた。兄弟十二人がそれぞれ一万八千歳(年)立った。

地皇氏は十一頭で、火徳の王であり、一姓十一人が熊耳・龍門等の山に興きた(『十八史略』では十二人兄弟です)。また、それぞれ一万八千歳立った。

人皇氏は九頭で、雲車に乗り、六羽を駕し、谷口を出た。兄弟九人が分かれて九州の長となり、それぞれ城邑を建てた。前後百五十世、合わせて四万五千六百年である。」

 

『綱鑑易知録』を見ると、少し詳しく書かれています。

「天皇氏は一姓十三人で、盤古氏を継いで天下を治めた。澹泊無為だったが、天下が治まった。始めて干支の名を制定して、歳の所在を定めた(干支によって年を表しました。『綱鑑易知録』は十干十二支を説明していますが、省略します)

(天皇氏は)兄弟がそれぞれ一万八千歳(年)在位した。

天皇氏を継いだ地皇氏は一姓十一人で、三辰(日・月・星)を定めて昼と夜を分け、三十日を一月とした。

(地皇氏は)兄弟がそれぞれ一万八千歳(年)在位した。

地皇氏を継いだ人皇氏は一姓九人で、山川を観察して九区に分け、それぞれ一方に住んだ。そのため『居方氏』ともいう。この頃になって、政教や君臣の関係が自然に起こり、飲食や男女の関係が自然に始まった。『九皇氏』ともいい、兄弟合わせて四万五千六百年である。」

 

以上が天皇氏、地皇氏、人皇氏の記述です。

 

『帝王世紀』にはこのような記述もあります。

「天皇大帝は耀魄宝。地皇は天一。人皇は太一。」

 

「耀魄宝」は天帝星を指します。天帝星とは北極五星といわれる星座の中で最も尊い存在の星のようです。

「天一」と「太一」も星の名前です。天一と太一は同じ星を指すという説もありますが、ここでは異なる星としています。

この記述による天皇、地皇、人皇は星の化身としての神であり、古代の星辰崇拝によって生み出されたものであると考えられます。

 

 

次回は有巣氏と燧人氏の時代です。

神話時代3 有巣氏 燧人氏

 

 

神話時代1  天地開闢

 

中国の神話はとても散乱としており、日本の『古事記』や『日本書紀』のような系統だった神話とは大きく異なります。これは万世一系の天皇制を守ってきた日本の歴史と、禅譲・放伐による易姓革命を繰り返してきた中国の歴史との違い、また、広大な大地に多数の民族を擁する中国の複雑さが大きな原因だと考えられます。

 

世界中の多くの神話が「天地開闢」「天地創造」から始まると思います。中国の神話にも「天地開闢」の話があります。その代表が「盤古神話」です。

 

柏楊の『中国史年表』は冒頭に「盤古神話」を置いています。

 

「盤古」の時代
「盤古は天地を開闢した。盤古は中国人の始祖である。
大昔、天地は混沌とし卵の中身のようだった。盤古はその中に生まれた。天地が開け、陽の気は澄んで天となり、陰の気は濁って地となった。天は日々一丈高くなり、地は日々一丈厚くなった。こうして一万八千年経ち、天は非常に高く、地は非常に厚くなり、盤古自身も成長した。盤古が死ぬと、頭は五嶽となり、目は太陽と月となり、脂膏は川や海となり、毛髪は草木となり、泣いた時の涙は江・河となり、気は風となり、声は雷となり、瞳は電となり、喜びは晴れとなり、怒りは曇りとなった。」

 

この盤古神話は三国時代、呉国の徐整が書いた『三五歴記』(『三五歴紀』『三五歴』ともいいます)のものが最古といわれています。大筋は上述『中国歴史年表』の内容と同じですが、盤古の死後に形成された大地や自然現象の内容が一部異なるので、『三五歴記』からも抜粋します。

「盤古が死ぬと体が変化し、気は風雲となり、声は雷霆となり、左眼は日(太陽)になり、右目は月になり、四肢五体は四極五岳(東西南北の果てと東岳泰山・西岳華山・南岳衡山・北岳恒山・中岳嵩山)になり、血液は江河(長江と黄河)になり、筋脈は地里となり、肌肉は田土となり、髪は星辰となり、皮膚は草木となり、歯骨は金石となり、精髄は珠玉となり、汗流は雨沢となった。体に住んでいた諸虫は風に感応して黎甿(民衆)となった。」

 

『三五歴記』以降、盤古に関わる様々な神話が語り伝えられたようです。『中国歴史年表』の内容もその一つだと思われます。

五岳に関しては「頭が東岳、腹が中岳、左腕が南岳、右腕が北岳、足が西岳になった」ともいわれています。

天地の分離と共に巨神・盤古が生まれて成長し、その死によって山河や草木、更には風や雷といった自然現象が形成された、このような神話は世界各地に見られると思われます。

 

一方、太古に関する記述をまとめた『帝王世紀』には、盤古の存在がありません。より中国哲学的な形で天地開闢が語られています。一部、張衡(東漢)の『霊憲』から補足しながら、意訳してみます。

「天地がまだ分かれていない状態を『太易』という。

元気が始めて芽生える状態を『太初』という。

気が始めて形になる状態を『太始』という。

形が変わって質を持つことを『太素』という。『太素』の前は幽清寂寞として現象がなく、ただ虚であり無の状態である。これが道の根(根本)であろう。

道の根が既に建ったら、無から有が生まれる。

『太素』で始めて質が芽生えるが、まだその兆はなく、気と同じ色で、混沌として分かれることがない。これを『龐洪』という。道の幹であろう。

道の幹ができたら、万物が体を成し、こうして剛と柔が始めて分かれ、清濁が始めて位置を決める。天が外に成り、地が内に定まる。天体は陽の質を持つので、円くて動くことができる。地体は陰の質を持つので、平で静かである。これが道の実であろう。

質と形がともに備わった状態を『太極』という。」

 

「太易」「太初」「太始」「太素」「太極」は「先天五太」といい、物質世界が形成される前段階として『列子』等でも語られています。簡単に言うと:

「太易」は全く何もない虚無の状態

「太初」は元気(万物の元となる物質)が存在するが、「形」も「質」もない状態

「太始」は気から「形」が造られるものの、「質」をともなわない状態

「太素」は「形」が「質」をもつが、体を成さない状態

「太極」は「形」と「質」が完成した状態

です。

 

「気」とは何か、「道」とは何か、「太極」とは何か等々、古くから議論が繰り返されており、様々な解釈があります。非常に難しい哲学的な内容で、理解が難しいのでこれ以上は触れません。

 

『綱鑑易知録』は太極から盤古氏に至る経緯をこう書いています。

「太極が両儀(陰・陽)を生み、両儀が四象(太陽・少陽・太陰・少陰)を生み、四象が変化して庶類(万物)が繁茂した。

言い伝えによると、最初に現れて世を治めた者を盤古氏といい、または渾敦氏ともいう。」

 

『綱鑑易知録』では、盤古氏の跡を継いだのは天皇氏としています。

次回は天皇・地皇・人皇の時代です。

神話時代2  天皇氏・地皇氏・人皇氏

 

 

 

 

神話・伝説時代に入る前に

 

「神話時代」と「伝説時代」

ある国や民族の通史を眺める時、通常は原始人の生活や文明の成り立ちから解説が始まります。

例えば中国史においては

 170万年前 雲南省元謀 元謀猿人

 70~20万年前 北京市周口店 北京猿人

 約1.6万年前 北京市周口店 山頂洞人

(ここまでは旧石器時代、以下は新石器時代)

 約5千年前 浙江省余姚河姆渡村 河姆渡遺跡

 約5千年前 陝西省西安半坡村 半坡遺跡

 約4千年前 山東省大汶口 大汶口遺跡

等々が歴史を語るうえで最初に紹介されます。

 

しかし、この「通史」では、こういった考古学的な内容は全て省略し、文献に残された神話・伝説の時代から始めることにします。

 

以下、台湾の柏楊による『中国歴史年表』から引用します。

「全ての民族が創世神話をもつ。中華民族も同じである。創世神話は億万年よりも遥かに長い、非常にゆっくりした時代である。しかし史書にはほんの数ページしか記されることがない。

世界、中国、そして人類の起源に関して、中国には中国の神話が存在する。それは盤古の天地開闢から始まり、三皇、五氏と続く。この時代は中華民族における原始社会の景観を描き出している。」

 

これは「神話時代」の解説です。

柏陽の『中国歴史年表』は天地開闢から「三皇」「五氏」の時代までを「神話時代」とし、「五帝」の時代を「伝説時代」としています(「三皇」「五氏」「五帝」に関しては後述します)

 

以下、「伝説時代」の解説です。

「伝説時代の史料は、神話時代に較べれば真実味があり受け入れられやすい。中国の伝説の時代、すなわち黄帝王朝は七人の君主(黄帝、少昊、顓頊、嚳、摯、堯、舜)が存在し、真偽が入り混じった故事が断片的に存在する時代である。中でも唐堯帝・尹祁放勲と虞舜帝・姚重華は、非常に長い期間、二十世紀に至るまで、瑕疵が無い神聖な存在といわれ、歴代帝王が学ぶべき人物像として美化されてきた。」

 

私の『通史』でも柏楊の『中国歴史年表』に倣って「神話時代」と「伝説時代」という区分を用います。

 

 

「三皇五帝」

上述の通り、「神話時代」は天地開闢から三皇(または五氏)までの時代で、「伝説時代」は五帝の時代に当たります。

それでは、「三皇」「五帝」とは誰を指すのか、というと、諸説があります。柏楊は「三皇」と「五帝」の間に「五氏」を置いていますが、これは珍しい区分の仕方です。

以下、柏楊の『中国歴史年表』による区分です。

「三皇」・・・天皇・地皇・人皇
「五氏」・・・有巣氏・燧人氏・伏羲氏(庖犠氏)・女媧氏・神農氏

(ここまで神話時代)

「五帝」(伝説時代)・・・黄帝・顓頊・嚳・堯・舜

 

『帝王世紀』はこう書いています。

「三皇」・・・伏羲・神農・黄帝

「五帝」・・・少昊・顓頊・嚳・堯・舜

これは日本でも広く読まれている『十八史略』(元代・曾先之)と同じです。

 

漢代に書かれた司馬遷の『史記』は『五帝本紀』から始まり、五帝を「黄帝・顓頊・嚳・堯・舜」としました。

時代が下り唐代になって司馬貞が『史記』に『三皇本紀』を加筆しました。そこでは三皇を「伏羲・女媧・神農」とし、一説として「天皇・地皇・人皇を三皇とすることもある」と紹介しています。

 

このように誰を「三皇」「五帝」にするかについては一定した説がありません。

上記の組み合わせ以外にも、「三皇」を「燧人氏・伏羲氏・神農氏」としたり、「五帝」を「太昊(伏羲)・炎帝・黄帝・少昊・顓頊」とすることもあります。

 

私の「通史」では「三皇」は明確にせず、「五帝」は『史記』等にあわせて「黄帝・顓頊・嚳・堯・舜」とします。

簡単にまとめると、神農以前の時代が「神話時代」、黄帝から堯・舜までが「伝説時代」、その後に続く夏王朝からまた新たな時代が始まる、ということになります。

 

 

次回は神話時代の始まり、天地開闢です。

神話時代1  天地開闢

 

 

 

総目次

Yahooのブログサービスが終了したので、移転しました(2019年3月より)

以前の訳文を訂正しながら、神話伝説時代から再投稿する予定でしたが、大幅な修正作業に時間が取られて先に進まないので、三国時代以降を更新していきます。西周から東漢(後漢)までの内容は「はてなブログ」に移転した旧記事を御参照ください(2019年7月)

 

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趣味の中国史 挨拶

参考文献紹介

 

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西周時代から東漢時代まではまだ更新できていないので、「はてなブログ」をご訪問ください。下部にリンク先を掲載します。

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「通史」の作成が遅れているので、中断しています。

 

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西周時代目次

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春秋時代目次

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https://sanomarekisi.hateblo.jp/entry/2019/08/06/134959

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戦国時代目次

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https://sanomarekisi.hateblo.jp/entry/2019/08/23/135710

https://sanomarekisi.hateblo.jp/entry/2019/08/26/140146

https://sanomarekisi.hateblo.jp/entry/2019/08/27/135041

 

中国史用語解説(はてなブログ)

https://sanomarekisi.hateblo.jp/entry/2019/08/28/135736

 

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参考文献紹介

 

参考文献を簡単に紹介します。

 

『正史』

正史は『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』等、各時代に編纂された紀伝体の史書です。

この通史では各時代の『正史』から「本紀」を引用して柱とし、必要に応じて「列伝」等からも抜粋します。

 

『帝王世紀』

東漢から三国魏を経て西晋時代まで生きた皇甫謐による史書です。

天地開闢から漢魏にいたる帝王の世系がまとめられており、特に三皇五帝に関して詳しい紹介がされています。

 

『竹書紀年』(別名『汲冢紀年』)

春秋時代・晋国と戦国時代・魏国の史官によって書かれた編年通史です。西晋時代に発掘されました。

五帝から始まり、戦国時代・魏に至るまでの出来事が書かれています。『史記』等の伝統的な史書と異なる内容も多く、戦国時代以前の歴史を語る上では欠かせない存在となっています。

『今本竹書紀年』と『古本竹書紀年』の二種類がありますが、『今本』は偽書(後世に偽造された書)ともいわれています。

 

『資治通鑑外紀』(及び『目録』)

北宋の劉恕によって書かれた編年体の史書です。司馬光が編纂した『資治通鑑』は戦国時代から始まるため、それ以前を補うために書かれました。

天地開闢から戦国時代初期までの歴史が書かれています。

『外紀目録』は年表になります。

 

『資治通鑑前編』(および『挙要』)

宋末元初の金履祥によって書かれた編年体の史書です。『資治通鑑外紀』が『春秋左氏伝』を疎かにし、『国語』の記述を重視していたことに不満で、改めて『資治通鑑』より前の時代が編纂されました。

帝堯から戦国時代初期に至る歴史が書かれています。

『前編挙要』は目録・年表のような存在です

 

『春秋左氏伝』

作者は左丘明とされていますが、異説もあります。戦国時代に書かれた春秋時代を扱う史書です。

 

『資治通鑑』

北宋の司馬光が監修して編纂された編年体の史書です。戦国時代から秦漢、魏晋南北朝、隋唐、五代を経て北宋が統一するまでの長い歴史が書かれています。

 

『綱鑑易知録』

清代の呉乗権が編纂した通史で、太古の盤古氏から清による天下統一までの歴史を分かりやすくまとめています。『十八史略』ほど簡単すぎず、『資治通鑑』ほど複雑ではないので、中国では広く読まれていました。

 

 

文中の日付は以下書籍を参考にします(本文では出典を注記しません)

春秋時代まで → 楊伯峻『春秋左伝注』

戦国時代以降 → 中華書局版『白話資治通鑑』

東漢後期・三国時代 → 筑摩書房『三国志(訳本)

その他全般 →『二十四史朔閏表』『中国歴代帝王世系年表』

 

 

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趣味の中国史 挨拶

 

私は趣味で中国史をかじっており、どうせなら書籍から得た知識を文章にして残しておこうと思ったので、中国通史を作ることにしました。

以前、Yahooのブログで連載していた『趣味の中国通史』の新版です。

Yahooブログ『趣味の中国通史』

https://blogs.yahoo.co.jp/sanokuangxian/34294366.html

 

今回、新しく掲載し直すに当たって、多くの誤訳を発見したので、訂正しながら更新しています。

誤字・脱文・誤訳等、御指摘いただけると幸いです。

 

宜しくお願いいたします。

写真は2018年2月の北京です

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